第2話 普通に考えてあり得ないだろ
何年もの付き合いがあった幼馴染の記憶を全て失うなどただごとではない。そんな議論は
「そんなに私の授業は面白くないかい?」
金曜日の昼前、午前中最後の授業を睡眠に充てていた綾人は棘のある声で目を覚ました。顔を上げると国語教師の
「そんなことないです」
「だったらいいんだけどね」
斎藤は表情一つ変えることなく教壇に戻っていく。綾人は時計を見て、真っ白なノートを机にしまった。
「もうすぐ定期試験です。私のテストが簡単だということは出回る過去問から知っていることでしょう。なので追試をしないことを先に言っておきます。分かりましたか?」
黒板にはいつの間にかテスト範囲が書かれていて、教室全体がその注意喚起にどよめく。前回、欠点スレスレだった綾人は冷や汗をかいた。
チャイムが鳴った瞬間、斎藤は教室を出ていく。それと同時に周囲は喧騒に包まれた。
「怒られるなんて馬鹿だな。寝てる綾人が悪いんだけど」
苦しい体勢で寝ていたため体中が痛い。綾人が腰を回して背骨を鳴らしていると、弁当箱を持った
「人のこと言えないだろ」
綾人も弁当箱を取り出して机に広げる。祐輝はすぐさま小馬鹿にしてきた。
「寝てた奴に言われたくない」
「祐輝も寝てただろ」
「俺が寝てたとこ見てたのか?」
批判されるいわれなどないはずだが、祐輝が即座に言い返してくる。綾人は自信満々な祐輝に嘆息した。
「じゃあなんだ、いつも顔面に教科書押し当てて授業聞いてんのか?」
祐輝の頬には教科書の跡がくっきりと残っている。指摘された祐輝は自らの赤い頬をさすった。
「ありゃ本当だ。ヒリヒリすると思ったら」
「馬鹿だな」
「同じだろ?」
最終的に二人が同じ穴の狢だったということで落ち着く。不満は残るものの、これ以上の言い合いは不毛でしかない。そんなことよりよっぽど深刻な問題を抱えていた綾人は、もっと別のことに時間を使う必要があった。
早朝かかってきた早苗の電話以降、綾人は授業や試験を気にする余裕を失っている。意味がないと分かっていながら祐輝に相談したことも、異常な心境を物語っていた。
「なあ、少し聞きたいことがあるんだけど」
「テスト範囲なら教えてやらんぞ」
「違うから」
黒板はまだ消されていない。昼食中にチョークの粉が飛散することを避けるため、昼休み前に消してはならないというルールが定められているからである。しかし、覚えている内に板書の内容を写真に収める。
「じゃあなんだよ」
「いや、変な質問するけどさ」
「おっと、ちょっと待て」
本題に入ろうとした矢先、祐輝が弁当をかき込む。そうして白米を緑茶で強引に飲み込むと前傾姿勢になった。
「よし、いいぞ」
「そんなあらたまって聞いてもらうことじゃないんだけど」
「いやいや、綾人がそんな前置きをするなんて絶対に何かある。いつもは失礼なこともストレートに聞いてくるくらいだからな」
祐輝の評価は納得できるものではなかった。しかし、話を脱線させるわけにもいかず、乾いた喉を濡らしてから話し始めた。
「全く身に覚えのない幼馴染が会いに来るって時、どうしたらいいと思う?」
「は?」
「覚えてないって正直に言うべきか、それとも覚えてる振りをするべきか」
「待て待て」
顎に手を当てて考える綾人に祐輝が右手を突き出す。教室の中はいつも通りの時間が流れている。それは祐輝も同じだった。
「それって男?それとも女?」
「女みたい。
今朝の話を思い出して説明を加える。すると、祐輝の眉間にしわが寄った。
「なーにが女みたいだ。は?ふざけんな!」
「なんだよ急に」
「新手の自慢か?女の子の幼馴染なんていたら忘れるわけないだろ!」
「だから困ってるんだって」
「喧嘩売ってんのか!?」
椅子の上でふんぞり返る祐輝に睨まれ、綾人はやはり相談相手を間違えたと後悔する。とはいえここまで話したため、何かしらの助言がない限り引き下がることはできない。
「本当に困ってるんだって。思い出そうとしてるけど心当たりがないんだよ」
「女の幼馴染なんていない。それが普通なんだぜ?」
「昨日まではそうだったんだって」
祐輝を煽るつもりなど微塵もない。玲子という名を聞いてまだ数時間しか経っておらず、綾人自身が混乱の境地にいるのだ。祐輝は懇願する綾人に首を傾げる。
「普通、考えてあり得ないだろ。知り合いだったってだけなんじゃないのか?親同士が仲良かったけど、子供はそうじゃなかったなんてよくあることだろ」
「いや、小学校の間はずっと一緒で、家も隣だったとか」
「はあ?まだ寝ぼけてんのか?」
綾人の話に祐輝でさえ呆れてしまう。ただ、そう思われても仕方はない。止まっていた箸を再び動かすが、舌が味を感じることができなくなっている。
「顔を見たら思い出せるかなって考えてるんだけど」
「隣に住んでた幼馴染をたかだか数年で忘れるとか、漫画でも見たことねえぞ。小学校の記憶が丸々なくなってんじゃないのか?」
「それはない。嫌な記憶まで全部残ってる」
「全部じゃないからそうなってるんだろ?だったら小学校の知り合いにそいつのこと聞いてみたらいいじゃないか」
笑うだけでは解決できないと気付いたのか、途端に優しくなった祐輝から真っ当な助言を受ける。ただ、綾人は首を横に振った。
「それが玲子の耳に入ったら可哀想だろ。顔を見たら思い出して解決するかも」
「よっぽど綾人の方が可哀想だ。本当にそんな幼馴染いるのか?妄想じゃないだろな」
「少なくとも母親と妹は覚えてた。すげー懐かしいとか言ってたから」
「訳が分からん。馬鹿にされてるだけな気がしてきた」
とうとう祐輝に匙を投げられる。綾人がおかしいという認識は共通していて、だからこそこれからどうするべきか自分で決められない。
「で、いつ会いに来るんだ?」
「明日」
「明日!?考え始めんの遅くないか?」
「今朝、その話を聞いたばかりなんだよ」
「唐突すぎるだろ」
「まあ、段取りが昨日や今日にあったとは思えないから、親が伝えるの忘れてただけだと思う」
綾人の憂鬱は最高潮に達する。大抵の問題は気にしない性分であるが、これほど不可解だと単に忘れただけだと割り切ることができない。なによりも相手に失礼だという負い目が綾人を苦しめる。
「ま、会ってからよく考えたらいいんじゃないか?さすがに顔見たら思い出すだろうし、それまでは適当に話を繋いでおけばいいんじゃね」
「そうだな」
「もし可愛いかったら写メ送ってくれ」
雰囲気を良くするはずの祐輝の冗談にさえ反応できない。それを見た祐輝も最終的に問題の深刻さを把握してくれる。
全ては忙しい朝にかかってきた一本の電話から始まった。それさえなければいつも通りの休日が待っているはずだったのにと綾人はため息をついた。
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