疎まれ妖狐に首ったけ

クーゲルロール

第一章

第1話 誰だよ、あいつ

 新年を迎えて三週間ほどが経ったある土曜日のこと。いつもは平穏な時間が流れているはずの砂海すなうみ家は慌ただしさに包まれていた。

 「綾人あやと、部屋はもう掃除したの?」

 「してないけど」

 綾人は窓拭きで凝り固まった両腕を回しながら答える。すると、母親の早苗さなえは掃除機をかける手を止めてしかめっ面を見せた。

 「せっかく玲子れいこちゃんが来るんだからさっさとしちゃいなさい」

 「部屋に上げるつもりないんだけど」

 「なに恥ずかしがってるの。いつもあの部屋で一緒に遊んでたでしょ?」

 馬鹿を言っている暇なんてないと早苗が急かしてくる。椅子に座る父親の和人かずとは呑気に鼻毛の処理をしている。綾人は小さく息をついて洗面台に雑巾を洗いに向かった。

 七年前まで家族ぐるみで付き合いがあった信濃家が久しぶりに砂海家を訪れる。早苗にとってそれは一大イベントらしく、綾人はその空気に飲み込まれてしまっていた。数年ぶりの大掃除も早苗によって主導されている。

 「あなたも何とか言ってやって」

 「綾人、さっさと片付けてこい」

 綾人が面倒な仕事を渋っていると、早苗に乗せられた和人からも指示が飛ぶ。さすがに父親に逆らうことはできず、綾人は仕方なく階段を上がった。クラブで留守にしている三歳下の妹、夏乃かのを恨まざるを得ない。

 綾人にとってこのイベントは寝耳に水だった。昨日、登校する直前に早苗から電話があり、信濃家の訪問は淡々と発表された。両親の計画性のなさは今に始まったことではない。ただ、昔の知り合いに会うとなれば綾人にもそれなりの時間が必要だった。

 二階の綾人の部屋は目を背けたくなるほどの惨状だった。散らばるプリントや洋服は小一時間でどうにかなるものではない。部屋の中を何周か歩いて考えを巡らせた結果、部屋の端に物を追いやるいつもの掃除を選んだ。

 ただ、作業を始めてすぐに聞き慣れない車のエンジン音が窓の外から聞こえてくる。これで時間切れだった。

 「下りてきなさい」

 早苗が綾人を呼ぶ。階段を降りると、両親は片付けられた玄関ですでに歓迎の準備を済ませていた。靴箱が靴箱として機能している姿に綾人は感動してしまう。

 「久しぶりの玲子ちゃん、どうなってるかな」

 「さあ、どうだろう」

 二人は玲子の成長を楽しみにしていて、そんな様子に綾人は乾いた笑いを返す。和人がそんな態度を緊張と勘違いしてからかってくる。無視した綾人は玄関の端から外を眺め続けた。

 昨日に引き続き今日も晴天が続いている。そんな空の下、長野ナンバーの黒い軽自動車が狭いガレージにバックで入ってくる。心の中で長旅を労っていると、車のエンジンが止まった後に別々のドアから三人が降りてきた。

 始めに、両親と同じ年齢ほどの夫婦と挨拶を交わす。爽やかな風貌は隣に立つ両親に足りない要素で羨ましい。久しぶりの再会ではあるが、早速親同士で会話が弾む。

 綾人の相手は一人の少女だった。まっすぐ綾人の前までやってくるなり、満面の笑みを振る舞ってくれる。彼女が玲子ということになる。

 「久しぶり、綾人」

 見惚れた綾人は反応に遅れる。咄嗟に出した声は虫の羽音ほど小さかった。

 「玲子?」

 「なにその声、緊張してる?」

 くすくすと笑う玲子の大きな瞳に捉えられる。その視線に困った綾人は、その場の全員に情けない姿を笑われた。ただ、恥ずかしがっている余裕などない。火照る顔をどうにかしながら、頭の中で過去の記憶を手繰り寄せることに必死になった。

 同い年の玲子は小学校まで隣のアパートに住んでいて、綾人の唯一無二の親友だった。早苗から伝えられたこの話からは、玲子が幼少期の綾人にとって特別な存在だったことが窺える。

 綾人も心から歓迎しなければならない。七年ぶりの再会に心を躍らせているのは玲子も同じはずなのだ。しかし、そんな気持ちはなかなか湧いてこない。

 こうして顔を合わせても、綾人は玲子のことを思い出すことができていなかった。

 全員がリビングに移動する間も玲子を意識する。同い年ということは玲子も二十歳ということになる。人並外れた容姿は化粧だけによるものではなさそうで、隅々を観察しながら当時の面影を探した。

 玲子はテーブルを挟んだ綾人の前に着席し、常に微笑んでいる。綾人は強引に口角を上げてすぐに視線を外す。様々な理由が相まって目を合わせていられない。

 「綾人君も大きくなったね。随分と格好良くなって」

 玲子の母親にまじまじと観察される。玲子を覚えていないため、当然玲子の母親も見覚えがない。すると、早苗もすぐに口を開いた。

 「玲子ちゃんもこんな美人さんになっちゃって。昔から可愛かったものね」

 「ありがとうございます」

 早苗の言葉に玲子が喜ぶ。綾人の目から見てもその言葉にお世辞はない。

 玲子の身長は綾人の肩ほどで、セミロングの黒髪と大きく綺麗な瞳が特徴的な街でも滅多に見かけない美人である。スタイルも文句の付けようがなく、スキニーパンツが美脚を際立たせている。

 「綾人も何とか言ったら?玲子ちゃん待ってるんじゃない?」

 「綾人、どうかな?」

 早苗の言葉に便乗した玲子が少し身を乗り出す。綾人は心を落ち着かせてから頷いた。

 「確かに。大人びた感じ」

 記憶にない人物の現在と過去を比べることなどできず、当たり障りのない言葉で逃げる。しかし、玲子は鋭い洞察力の持ち主のようで、すぐさま違和感を持たれてしまった。

 「よそよそしいなあ。なんだか私のこと忘れちゃったみたい」

 「そんなわけないでしょ」

 心臓が飛び出そうになりながらなんとか誤魔化す。本当のことを言えば玲子は傷ついてしまうだろう。何の落ち度もない玲子を悲しませたくはなく、綾人は嘘をつく。事実として両親は玲子を覚えている。綾人が思い出せば丸く収まる話だった。

 「あの頃は毎日一緒だったもんね」

 「そうだったな」

 玲子の目は同意を求めているようにも、綾人の反応を楽しんでいるようにも見える。綾人は慎重に言葉を選びながら心境を吐露した。

 「でも久しぶりだからかな、すごく緊張してる。知らない間に綺麗になってたからかも」

 「伝わってきてるよ。でも大丈夫、私も同じだから」

 「そうは見えないけど。ごめん、ちょっとトイレ」

 小さく首を傾げる玲子には魅力が詰まり過ぎている。ほんの僅かな時間で多くの表情に触れた綾人は、考えを纏めるべくトイレに逃げ込んだ。

 「誰だよ、あいつ」

 リビングから聞こえてくる歓談に大きな溜息を漏らす。唐突な疎外感は罪悪感とも表現できる。自らの愚かさを受け入れても状況が変わることはなかった。

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