第2話 第1楽章

 ひょんなことからオーケストラの常任指揮者になってしまった、音楽経験ほぼゼロの僕、金光政彦は、プロ級に上手いプレイヤーたちのやる気を上げるための手伝いをしなくてはならなくなったのだった。そんな僕にはインスペクターというオーケストラの管理をする人が側仕えとなった。名前を野村芽衣子と言い、ちっちゃくて黙っていれば可愛い3年の先輩だ。

「黙っていれば可愛いだなんてひどいなあ」

「思考を読まないでください!」

 と、こんな感じに少々ぶっ飛んでいる。

 昨日は結局餃子とビールで宴をしそのまま二人で酔いつぶれた。そしてそのまま彼女は僕の家に泊まっていった。朝には彼女あての宅配便が僕の家に届き、彼女の衣類などが入っていた。どうやら本当に住み着くらしい。僕を指揮者として徹底的に囲い込んで管理するようだ。しかしなぜそういうことになったのか、いまだに腑に落ちないでいた。今日は日曜日で、練習がある日だというので二人して部室に向かった。

「さあ、はじまるざますよ」

「これは僕は、いくでがんす、と言わねばならないやつですか?」

「それが成立するにはあと二人必要なんですよねー」

「なぜ僕らしかいないんでしょうか……」

 仁王立ちする彼女と広すぎる部室の対比がむなしすぎる。

 結論から言えば、一生懸命音楽をやろうとするものはこの部室には彼女だけなのだ。

「もういいや、とりあえず練習しよ」

 鼻歌交じりに楽器を取り出す野村先輩。ちなみに歌っているのはアニソンである。もう突っ込まないでおこう。楽器はヴァイオリンだ。ちっこい先輩だが楽器を構えると一種の風格を携えている。つまるところ、構え方がとてもきれいなのだ。そして弾きだしたのは……、なんだったか。バッハっぽいやつだった。

 短調なのもあるが見かけによらず力強いサウンドで弾くなあ、などと思いながら手持無沙汰になった僕は指揮者台に置きっぱなしにしていたスコアをパラパラめくり眺めた。今日はメインプログラムのチャイコフスキー、『交響曲第5番』だった。曲は何回か聴いたが、振るとなると音楽のイメージをリンクさせることが難しい。全体を統一するテーマとなるメロディが存在し、短調から長調、闇から光へとそれが切り替わっていくことから、ベートーヴェンの運命ともよく引き合いに出される名曲である。

「ほんと、チャイ5、聴いてる分にはいいんだけどなあ」

「飽きた!」

「早いっす先輩」

「だってカナヤン聴いてくれてないんだもん」

 頬を膨らます先輩。両手で挟んでやりたい。

「ながらで聞いてましたよ」

「ながらなんて聞いてないのと同じだから、私は作業用BGMか」

「口を開けばただの騒音機なんでミュートしててください」

 今度は思いっきり口をつぐんだ先輩。そう、それでいい。

「あ、ところで何か気づいたことある?」

「へ?」

 急に質問されて、すぐに口を開いたことに突っ込めなかったが問題はそこじゃない。

「私のシャコンヌ、ながらでも聴いていたんでしょ?」

 あてつけなのかなんなのか、しかしそれにしては真剣な顔をしている。そして先輩が言ってようやく思い出した、バッハのシャコンヌだ。

「いや、なんでしょう。……CDで聞いたことあるやつはもう少し早かったりしますけど、独奏曲なので、プレイヤーによってテンポはまちまちだし。……ああ、あれです! ピッチが少し低かった気がします」

「……」

 先輩は目を丸くしている。何かおかしなことを言っただろうか。

「やっぱ耳いいんだね」

「そうなんですか?」

「私が弾いてたのは440だったんだよ。オケだと442だから。こんなのほんとに素人だったらわからないよ」

 一応言っておくと、ヘルツ《Hz》のはなしだ。

 野村先輩はじっと僕を見つめて一言。

「カナヤンってさ、いったい何者?」

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インペグのメモ帳 ワラシ モカ @KJ7th

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