清夏(6)

 明けて土曜、佐伯は図書館の端で、原稿用紙を前にひじをついていた。嵯峨の家に行ってしまえば、気を遣った嵯峨が無理にでも話そうとすると思い、佐伯はこの土日を図書館で過ごすと決めていた。

 執筆のために訪れた図書館だったが、このときの佐伯は、プロットをまとめたノートを開きもせず、ただぼうっとしていた。手元に集中しようにも、すぐに嵯峨宅の金魚のことが頭に浮かんでくるのだ。苦しげに畳の上を跳ね回っていた金魚の姿を思い出すと、佐伯はやけに落ち着かない気持ちになった。

 佐伯が帰ったあと、小宮はきっと、金魚がいなくなったことに気がついただろう。金魚鉢のそばで寝ている嵯峨が先かもしれない。二人は金魚がどうしていなくなったのかわからず、首をかしげるのだ。そして、どちらが先に気づいたにせよ、空になった金魚鉢を、小宮が片付ける。鉢の裏にあるぞうきんも、さほどなにかの感傷を引き起こすでもなく洗われて、もともとそうだったように、キッチンに引っかけられる。やがて、二人とも金魚のことなどすぐに忘れてしまう。そんな二人のそばで、佐伯だけが、ときどき金魚のことを思い出す。そう考えれば考えるほど、佐伯は空恐ろしくなってきた。

 それで佐伯は、この土日を費やして、金魚の話を書くことにした。自己満足でも、金魚がそこにいた証を形にしなければ、この先ずっと、透明な水槽を幻視し続けることになりそうに思えたのだ。


 佐伯が実際に見た金魚は、特別なものではなかった。だが、それを知った今でも、金魚は佐伯の中で異彩を放っていた。記憶の中の金魚は、肌に合わない水の中をそわそわと泳ぎまわり、やがて、金魚鉢を飛び出してくる。呼吸のできる水中を離れてでも、違和感から逃れようとするのだ。〈ここにいるくらいなら、死んだほうがましだ〉と言わんばかりに。

 金魚の話を書くさなか、金魚に対する佐伯の興味は、かえって膨らんでいった。佐伯は浮かんできた疑問に想像で答えを作ると、それらを原稿用紙に書き記していった。いつしか、紙の上の金魚は、佐伯が長らく抱いていたイメージそのままの〈特別なもの〉になっていた。

 すべて書き終えてペンを手放したとき、文章の上に残る金魚は、実際の姿と想像の姿がごちゃ混ぜになった、実物とはまるで違う姿になっていた。だが、それを書き終えた佐伯にはもう、実際の金魚の姿を思い出すことができなかった。佐伯はでき上がった原稿をまじまじと見つめる。

 佐伯は、あの金魚が金魚鉢から飛び出してしまったのは、自分が水を換えたせいだと思っていた。元はといえば、猫が金魚鉢を引き倒して水をこぼしてしまったせいなのだが、そうだとしても、水を入れたのは佐伯だった。それで佐伯は、自分が金魚を殺したような気がして、なにかしないことにはたまらなくなっていた。けれども、そのあせりに似た気持ちさえ、書き終えてしまうと同時に消えていった。佐伯の中にあった金魚の残滓は文字にまぎれて溶けていき、目の前には金魚の〈墓〉が残されているばかりだった。

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