清夏(7)

 気づけば、佐伯は嵯峨宅の門扉を前に立ちすくんでいた。行き場のない足が自然と嵯峨の宅に向いたことに戸惑いながら、佐伯は青い庭を見つめた。早足で歩いてきたために心臓は早鐘を打ち、息をするたび肺がしめつけられるようだった。

 宅は静かだった。本当なら、すぐにでもこの門扉をくぐって縁側で息をつきたかったが、佐伯は一歩踏み出すことができず、肩掛けかばんのひもを握りしめた。かばんの中には、紛失して数時間後に返ってきた教科書と、折れ曲がり、順番のばらばらになった原稿が入っている。床に散らばったそれらをかき集めたときのみじめさと、なんとも言いがたい罪悪感らしきものが再びわき上がってきて、佐伯の足首をつかむ。


 今日――金魚を弔った翌日の月曜は、佐伯がひそかに恐れていた三者面談の日だった。 

 中学三年生の夏休みを目前にしたこの三者面談は、進路決定に直接かかわる、重要なものだ。緊張しながらもそのときを待っていた佐伯のもとに、彼の数少ない友人が現れた。佐伯をテニス部に誘った、気の優しいクラスメイトだ。教室の前で時間を持て余している佐伯に気がついてか、彼はいろいろと雑談に付き合ってくれた。けれども、その末に、とても言いにくそうに言ったのだ――〈佐伯君、まだ気づいていないの? きみの教科書、なくなってなんかないって……〉と。〈気をつけたほうがいいよ〉とも。

 その後の三者面談も、ひどいものだった。佐伯は、進路はともかく、小説を書くことだけは続けたいと思っていた。小説を書いていることを、母親に隠し続けられないだろうこともわかっていた。それで、勇気を出して、担任教師と母親の前で、すべてを打ち明けようとしたのだった。話している間、何度ものどが詰まるようなあの感覚があったが、〈今言わなければ、ばれてしまうまで、きっと言えない〉と思っていた佐伯は、嵯峨がいつか褒めてくれた原稿を二人の前に広げ、なんとか最後まで話そうとした。しかし、佐伯がすっかり話せなくなってしまう前に、母親が佐伯をとがめた。佐伯の覚悟もそこまでだった。


 その面談がどういうふうに終わり、自分がどうやってここまでやってきたのか、佐伯には思い出せなかった。ただ人の目が恐ろしく、どこか落ち着けるところでひとりになりたい気持ちだけがあった。少なくとも、息の詰まる家には帰りたくなかった。図書館は月曜休館で、学校に戻れば誰に会うかもわからない。行くあてもないが、今嵯峨と会ってしまうのは、一番いけないことであるように思えた。佐伯は周囲を見回して、誰もいないことを確かめると、嵯峨の宅の前から離れようとした。

 けれどもそのとき、なにを感じたか、嵯峨がちょうど庭に現れた。嵯峨はすぐに、門扉向こうに立ち尽くす佐伯に気がつき、声をかけてくる。


「おや。いらっしゃい、少年。この前はすまんかったなあ。さ、お上がんなさい」


 嵯峨の声はいつもと変わらず穏やかで、張りつめた佐伯の心を弛ませてくれるようだった。ひどい一日だったというのに、急に普段のとおりに引き戻されたようで、佐伯は戸惑いながらも芝生に足を踏み入れる。

 この日の嵯峨は、だいぶ調子がよさそうに見えた。佐伯は嵯峨に導かれるまま縁側に掛ける。


「あ……。えっと、今日はお元気そうで……その、よかったです」


 佐伯はいつもどおりに話そうとしたが、うまくいかなかった。学校から引きずってきたいくつもの〈考えごと〉が、佐伯を嵯峨から遠ざけようとしていたのだった。けれども、敏い嵯峨は、今日も佐伯の変化を見逃さなかった。


「なにか、悲しいことがあったのやな」


 嵯峨の言葉に、佐伯ははっとした。教科書のこと、三者面談のこと、それに伴って心の中で渦巻いていたなにかを、〈悲しいこと〉と形容してみると、そうである気もした。


 沈黙の中、長らく考えこんでいた佐伯は、結局、迷いながらも口を開いた。ひとりで胸の中にしまいこんでいるには、大きすぎる荷物に思えたのだった。


「この前、教科書がなくなった話、しましたよね。あれ、なくなったんじゃなかったんですって。僕が困ってるところがばかみたいでおもしろいからって……からかわれてたんだって……。もの忘れなんか、してなかったんです。僕が勝手に……」


 佐伯は、ぼろぼろになった親指の爪をいじりながら、途切れ途切れに話す。

 教科書が盗まれていたことを知った佐伯は、悔しいというより、情けなくてたまらなかった。仲のいい友人の口からそう告げられることにも、背後から刺されたようなショックがあった。その友は、きっと前々から佐伯の教科書が〈盗まれている〉ことを知っていたに違いない。彼が佐伯をどんな風に見ていたか、想像するだけでやりきれなくなるのだった。もちろん、友が心から佐伯を心配して、ああ言ってくれたことも佐伯には理解できた。だからこそ深く傷ついたのだ。


「僕、ばかだなあって思いました。鈍いし、弱虫だし……どこか、変なのかもしれないって、前から本当は思ってて。でも、小説は好きだし、書きたいです。取り柄と言えるようなものでもないんですけど、それしかないし……。ちゃんと話せば、お母さんも、先生も、わかってくれると思って……。〈そんなこと、今じゃなくてもできるでしょ?〉って、言われてしまったんですけど」


 そう言いながら、佐伯は、母親と話しているときのような息苦しさを感じていた。

 〈そんなこと、今じゃなくてもできるでしょ?〉。三者面談のとき、母親は、そう言って原稿用紙を床に払い落とした。必死に〈書きたい〉と伝えようとしていた佐伯は、呆然として、床に滑り落ちていく原稿用紙を見ていた。整えられた原稿用紙が、机のへりから滑り落ちて、床に散らばっていく。その光景が、今このときにも、佐伯のまなうらによみがえっていた。

 原稿用紙をかき集めたときに感じたのと同じみじめな気持ちで、佐伯は力なく微笑んだ。


「お母さん、きっとすごく驚いて、混乱してしまったと思うんです。僕がちゃんとしなくちゃいけないのに……。お父さんは帰ってくるのが遅いし、ひとりっ子なので、お母さんと一番長く一緒にいるのは、僕なんです。だから……」


 佐伯の語尾が、弱々しく消えていく。削られすぎた親指の爪のふちに、うっすらと血がにじんでいた。

 佐伯は、母親を傷つけたいわけでも、嫌っているわけでもなかった。それなのに、佐伯が小説を書き続けることが、彼女を傷つけることになる。母親も小説も、佐伯にとってはとても大切なものだった。どちらかを選ぶなんて、考えたこともなかった。


 庭の芝生が、みずみずしい風にそよぐ。佐伯は靴先で芝生をなでて、唇を噛みしめた。思いきり泣きたかったが、反面、泣きたくなかった。泣くことは母親を不安にさせることだと知っている佐伯の心が、泣くことを拒んでいた。

 ふと、静かに佐伯の告白を聞いていた嵯峨が、血のにじむ親指を守るようにして、佐伯の手に手を重ねる。嵯峨はあまり自分から他人に触れることのない人だったため、佐伯は少し驚いてしまった。


「佐伯少年。君はよう頑張った。頑張ったのやで」


 嵯峨は、確かめるようにそう言った。骨ばった、ひんやりとした手が、佐伯の生白い指を包み込む。嵯峨の言葉の意味を飲みこんだ佐伯は、こらえていた涙が、とうとう溢れ出すのを感じた。

 母親の前に原稿を差し出したとき、せめて、少しでいいから読んでほしいと佐伯は思っていた。言えずにいる心の欠片を、母親に見てほしかった。彼女の知っている姿が佐伯のすべてではないのだと、認めてほしかったのだ。そんなことを考えはじめると、さらに涙は止まらなくなった。嵯峨は怒りもせず、やさしく佐伯の手を握っていた。佐伯は嵯峨の頼りない手のひらにすがって、気の済むまで泣いた。

 それからしばらく、小宮がやってきて、あれこれと嵯峨の世話を焼きはじめると、佐伯には身の置き所がなくなった。帰り際、嵯峨は佐伯を呼び止めて、メモ用紙の切れ端に電話番号を書いて、佐伯に手渡した。話したいことができたら電話をかけろ、ということらしかった。佐伯には、その紙切れがお守りのように思えた。これから家に帰って母親とどんなやり取りをするのだとしても、この紙切れがあれば大丈夫な気がしたのだった。

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