清夏(5)

 今日も、うだるように暑い。午前授業を終え、嵯峨に会いに向かっていた佐伯は、熱さにもうろうとした頭で、嵯峨宅で飼われている金魚のことを思い出していた。

 佐伯と嵯峨が話すとき、たいてい縁側か、その先の座敷を使う。そのため、茶の間の桐だんすの上におかれた金魚鉢を佐伯が目にするのは、敷地に入ってすぐに嵯峨を見つけることができなかったときか、嵯峨に特別に用を頼まれて、キッチンに行くときくらいのものだった。その金魚について、嵯峨はいつか、〈自分のものではない〉と言っていた。それが〈飼っていない〉という意味なのか、それとも〈自分の持ちものだと思ったことはない〉という意味なのか、佐伯にはわからなかった。嵯峨はそういったことをはっきりとは言わない人であるし、佐伯も、嵯峨の意図がどちらであってもいいと思って、問い返さなかった。

 佐伯がその金魚に興味を持ったことはほとんどなかった。けれども、嵯峨宅に通っている家政婦が〈神経質な子なのよ〉と言っていたのが妙に印象的で、その言葉を聞いて以来、こうしてときどき思い出すようになっていた。金魚は水質の変化には強い魚であるというが、嵯峨宅の金魚は、水を入れ換えるたびに、落ち着かない様子でぐるぐると泳ぎ回る。金魚のそんな様子を一度だけ見たことのある佐伯は、そのときの金魚によく似たものを知っている気がしたが、それがなんなのかは思い出せなかった。そのときに消化できなかった〈わからなさ〉が、今もこうして佐伯に金魚のことを考えさえせているのかもしれない。


 いつもの坂を下って、慣れた門扉をくぐると、みずみずしい芝生が、肌に触れる空気の温度を少し下げてくれるようだった。肩掛けかばんを縁側に下ろして、家の中に向けて呼びかけるが、返事はない。文机の下で丸まっている黒猫が、尾をぱたりとしただけだった。佐伯は靴をぬいで座敷に上がり、ふすまを隔てた先の茶の間で足を止めた。畳の真ん中に立って、じっとしていると、蝉が空気を焦がす音だけが、やけに色濃く聞こえる。

 ふいに、まるで別の世界に迷いこんでしまったような感覚にとらわれて、佐伯は戸惑いながら振り返った。室内から見ると妙に狭く見える庭は、いつもと変わらない様子でありながら、やけに遠い。隣家と嵯峨宅の敷地を隔てる木のフェンスに、家の頭によって斜めに切り取られた光が差している。汗をかいた額がむず痒い。

 一瞬、蝉の鳴き声が静かになった気がしたとき、すんとした風が佐伯のそばを抜けていった。汗でぬれた肌が風で乾く数秒だけ、佐伯は肌寒さを感じた。冷たく湿った腕をなでながら、佐伯はまた、金魚のことを思い出した。


 佐伯の左手にある、背の低い桐だんすの上に、金魚鉢はあった。佐伯は桐だんすの前にかがみこみ、〈こんなにじっくりと見るのはいつぶりだろう〉と思いながら、まじまじと金魚を見た。見れば見るほど、どうということもない、ただの金魚だった。実際に目にしてみると、金魚のことを考えていたときよりも心は動かず、佐伯は少しがっかりした。ふとしたときに思い出してしまうほど意識のすみに焼きついていたために、いつの間にか、この金魚が特別なものであるように思いはじめていたのだった。

 佐伯が失望して立ち上がろうとしたとき、かたわらに黒猫がやってきた。猫は何を思ったか、金魚鉢ののったたんすの上に飛び上がる。佐伯は、水や砂利の入った重い金魚鉢を猫が倒せるはずもないとは思いつつ、猫を見守ることにした。金魚鉢を前にした猫がなにをするか、興味もあった。

 猫は、しばらくじっと金魚を観察していた。やがて、思い切ったように前足を水面につっこむと、水の感触に驚いたのか、とび跳ねて金魚鉢から離れる。しかし、再びたんすの天板の端から金魚鉢へとにじり寄ったかと思えば、今度は金魚鉢のふちに前足を引っかけ、頭を突き入れるようにして鉢にしがみついた。


 佐伯が〈あっ〉と声を上げるも遅く、ずっしりとした金魚鉢は右に倒れてしまった。腹を押しつぶされ、頭から水をかけられた猫は、驚きと恐怖に奇妙な鳴き声をあげて逃げ去っていく。佐伯はあわてて金魚鉢をもとに戻したが、すでに水はほとんど空になってしまっていた。鉢のふくらみに収まっていた砂利と水草、それに金魚だけが、こぼれることなく底にたまっている。

 佐伯は半ばパニックになって、びしょ濡れの天板と、床板と、畳と、水のなくなった金魚鉢を次々に見やる。こぼれた水は、たんすの天板から床に伝い、床板と、畳の端を濡らしていた。たんすの天板が少し突き出ているおかげで、たんすの中身はなんともないようだ。鉢の中では、何が起こったのかもわからないだろう金魚が、苦しげにあえいでいる。

 佐伯はキッチンに走っていって、水道から金魚鉢に水を汲んでやった。ついでに、キッチンにあったぞうきんを借りて、水びたしになった茶の間の畳を拭く。そうして、ようやくごまかしがきく程度には片付いたところで、話し声とともに、門扉がきしる音がした。嵯峨が戻ってきたのだ。一緒にいるのは、声からして、嵯峨宅の家政婦だろう。


 佐伯が畳を拭いたぞうきんを金魚鉢の裏に隠して嵯峨を出迎えようとしたとき、水を替えたためにせわしなく泳ぎ回っていた金魚が、とうとう鉢から飛び出した。佐伯は驚いて、畳の上に落ちた金魚に手を伸ばす。けれども、佐伯の手があと数センチというところで、キッチンのところに逃げていた猫が飛ぶような勢いでやってきて、畳の上を跳ね回る金魚をひと口でさらってしまった。佐伯は猫を追いかけようとしたが、ちょうど、帰ってきた二人が縁側に姿を現した。家政婦の小宮と、彼女に支えられた嵯峨だ。

 嵯峨宅に勤める家政婦の小宮は、はつらつとして、他人との間にまったく壁を築かない女性だった。物寂しい嵯峨と並ぶと、その明るさがいっそう際立って見える。ずいぶん年上であるにもかかわらず、佐伯は彼女に〈愛くるしい〉という印象を持っていた。ぽっちゃりとした姿が、小動物を思わせるためかもしれない。

 小宮は、佐伯を見つけると顔をほころばせた。


「あら、いらっしゃい、佐伯君。ごめんなさいね、今日の先生、具合がすぐれなくって……。ほら、よかったですねえ、先生。佐伯君がいらしてますよ」


 嵯峨の返事は、痰の絡んだ咳だった。嵯峨の様子を見た佐伯は、金魚についての心配ごとをほとんど忘れてしまった。嵯峨はぐったりとして、小宮の支えがなければ、立っていることもままならない様子だった。佐伯はいたたまれなくなり、縋るような思いで小宮のほうを見やる。


「小宮さん、嵯峨先生が……」


「そうね、しばらくお休みにならないと。佐伯君も心配してくれているんですから、今日は安静にしていてくださいね。先生、佐伯君が来てくれるのをとても楽しみにしていらしたんですけどねえ。……あ、佐伯君、先生の履きものをお願いできる?」


 こういうとき、小宮は驚くほど冷静だった。佐伯は、嵯峨の足からこぼれた下駄を並べながら、ぽっちゃりとした家政婦に支えられた嵯峨の背中を見やる。こうしてみると、嵯峨の背中はあまりにも痩せて、頼りなく見えるのだった。

 嵯峨は肺を悪くしていた。若いころに煙草を吸いすぎたのだという。ここ一週間ほどは調子がいいようだったが、きっと長くは続かないと、嵯峨自身が言っていた。


 小宮は手早く布団を用意し、嵯峨を寝かせてやると、苦しくないようにと彼のからだを横向きにしてやった。佐伯は小宮がたくましいのをを知っていたが、それでも、女ひとりの力で簡単に持ち上げられてしまう嵯峨を見ていると、切ない気持ちになった。


「さ、どうぞ。先生のことはあんまり心配しすぎなくてもいいから。でも、できることならそばにいてあげてちょうだいね。ひとりで寝ていると、退屈で布団から出てしまいたくなるでしょうから。ねえ、先生」


 小宮がそう言うと、嵯峨の表情が和らいだ気がした。佐伯は小宮が廊下に出て行くのを見送ってから、彼女の言うとおりに、嵯峨の布団のそばで正座をする。嵯峨はたびたび咳をしたが、帰ってきたそのときよりは落ち着いた様子に見えた。


「すまんなあ。これでは、ろくに話もできん」


 咳きこまないよう慎重に発された言葉に、佐伯はただ首を横にふった。嵯峨と話をしたいのと同じだけ、嵯峨には自分の体を気遣ってほしくもあった。本当はしゃべらずにいるよう注意をすべきなのかもしれないが、そよ風のような嵯峨の声は、黙っているよう言いつけるには、あまりに心地がよすぎるのだった。

 嵯峨が少し咳をする。彼が息を整えている間、そのこめかみにひとすじの汗が伝うのを見つめていた佐伯は、金魚鉢が空であることを思い出した。


「書くのは、楽しいかいな」


 金魚のことをどう切り出そうかと考えていた佐伯は、嵯峨に突然そう問いかけられて驚いてしまった。佐伯は金魚のことを考えながら、嵯峨の不思議な問いについて、〈書くこと〉について考えた。

 佐伯にとって、書くことは〈表現すること〉であり、〈吐き出すこと〉でもあった。内気な佐伯は、しかし内側に豊かな世界を持っている。口にできなかった言葉があまりに多すぎて、いつからか、自然とペンを持つようになっていたのだった。


「はい。……楽しいって言うとちょっと違うかもしれないけど、好きです。むしろ、書いていないと落ち着かなくて」


 佐伯の答えを聞いた嵯峨は、枕に顔を半分うずめて、なにか考え込んでいるようだった。嵯峨が、作品そのものではなく、〈書くこと〉に対する佐伯の気持ちに言及したのは、思えばこれがはじめてだった。佐伯は妙なものを感じたが、あまり嵯峨にしゃべらせてはいけないと、問いただすのはやめにした。

 次に二人の間に沈黙が降りたとき、佐伯は、金魚のことを話そうと口を開いた。けれども、ちょうどそのとき、切り分けた西瓜を盛った皿を手にした小宮が茶の間に現れたのだった。小宮は〈先生の分も、ちゃんと残してありますよ〉と笑って、すぐにキッチンに戻っていったが、金魚についてどう説明するべきかもわからないことに気がついた佐伯は、話す勇気を失ってしまった。

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