清夏(4)
翌日も、佐伯は嵯峨の家を目指していた。手には、行きつけの弁当屋の日替わり弁当がぶら下がっている。
嵯峨は自分自身にも頓着のない人で、家政婦に休みをやっている木曜には、食事を取り忘れることがままある。それで、佐伯がこうして弁当を買っていくのが習慣になりつつあった。
三者面談の期間中、中学校の授業は午前で終わる。おかげで、嵯峨の家に着くころには、ちょうど昼食時とおやつ時の境、一緒に食事をするには最高の時間になるのだ。
佐伯は、慣れた調子であいさつをして門扉をくぐり、縁側から家の中をのぞき込んだ。けれども、定位置である文机の前に、嵯峨の姿はない。諦めきれなかった佐伯は、靴を履いたまま座敷に身を乗り出して、奥をのぞきこむ。そうして、左側に寄せられたふすまの影、安楽椅子にかけたその人の姿を見つけると、ぱっと表情を明らめた。勢い良く脱ぎ捨てられた靴が、青い芝生にうずもれる。
椅子に身を預けた嵯峨は、心地よさそうに眠っていた。彼の膝上には読みかけの本が開いたままになっていて、そのさらに上には、見慣れた黒猫が丸まっている。黒猫は佐伯に気がつくと、不満そうに鳴いた。嵯峨はこののら猫を〈気ままな隣人〉と呼び、出るも入るも勝手にさせていた。佐伯は黒猫をなでてやると、嵯峨を起こすことなく庭に出た。
縁側から座敷を出て右手、嵯峨が暮らす家のすぐそばに置かれた書庫は、書庫として利用できるように、もともとあった蔵の内装をいじったものだ。本にかびが生えてしまわないように、あるいはここに入り浸る熱心な読み手のために、半ば無理やりながらも窓が取り付けられ、内側の壁に沿ってぎっしりと本棚が並べられている。窓を少しだけ開け、本に日光が当たらないようにと取り付けられた厚いカーテンのすそを壁に引っかけると、風が吹き込むとともに三角形の日光が床に落ちて、読書にはちょうどいいスペースができることを佐伯は知っている。
佐伯は、たびたびこの書庫に足を運んでいた。嵯峨が執筆に集中している様子の時、食事をしている最中だった時、佐伯の原稿を読みふけっている時、風呂から戻ってこない時、それに、今日のように眠ってしまっている時。そんな時に佐伯が退屈しないようにと、嵯峨が佐伯に書庫を開放してくれたのだ。
佐伯は本棚をぐるりと見回す。同じ本を読んだとしても、同じことを感じるとは限らないが、佐伯には、嵯峨の見た世界を少しでも感じられることがうれしかった。〈いつか、この中のどの本よりも、嵯峨先生を楽しませられるような小説が書けるだろうか〉と、ひっそりと野望を募らせてもいた。
しばらくして、嵯峨が目を覚ましたらしく、膝から振り落とされた黒猫が、書庫まで佐伯を迎えにきた。口よりおしゃべりな尻尾の後に着いて縁側に戻ると、ちょうど、二人分の麦茶を盆にのせた嵯峨が座敷に現れたところだった。佐伯は座るよう嵯峨に促し、涼しい日陰に置いてあった弁当を手渡す。
嵯峨は、割り箸を線から二つに分けつつ、穏やかに微笑んだ。
「いつもありがとうな、少年。弁当屋、通学路から外れるやろ」
「ううん、大丈夫です。ぼくが食べたいから……。その、ついでなんです」
佐伯が照れたようにそう言うと、彼のそばで寝ころんでいた猫が、文句ありげに身をよじらせる。
佐伯の弁当は、きまって小サイズだった。給食と夕食の間で、あまりたくさん食べられないことを、佐伯は嵯峨に黙っていた。一方の嵯峨は、佐伯の事情に気づいてはいるものの、少年のそんなところをいじらしく思い、何も聞かずにいた。佐伯と嵯峨の関係は、互いに互いを深く理解しないことで保たれているところがあった。そして二人は、口には出さなかったが、それぞれにこの関係性を気に入っていた。自身の内に踏み込まれないことが、大変に心地良いのだった。ことに、まだ幼く、心の守り方を会得していない佐伯にとっては。
起き上がった黒猫が、嵯峨の弁当をもの欲しげに見つめる。嵯峨は主菜の鮭をほぐし、内側の柔らかいところを猫にやった。
「塩が多いですよ」
「一口くらいなら大丈夫やろ。ほれ、向こうに行きなさい」
猫は返事をするように尻尾をふると、座敷に上がって、文机の下で身を丸めた。グラスの中の氷が溶けて落ち、軽い音を立てる。二人は、わけもなく顔を見合わせて微笑んでから、それぞれの弁当に手をつける。
とはいえ、佐伯には、食べているものの味なんて少しもわからなかった。学校から持ち帰ってきた考え事に気をとられていたのだ。佐伯は機械的に食べ物を口に運びながら、嵯峨の骨ばったのどが食べ物を飲んで上下するのをながめていた。
「どうした、少年」
自分ではうまく隠しているつもりになっていた佐伯は、嵯峨の言葉に驚いてしまった。いつだって、佐伯がなにか思い悩んでいると、嵯峨はすぐに気がついてしまうのだ。二人の目が合うときは、決まって佐伯のほうから視線を向けている。それなのに嵯峨は、ずっと佐伯を観察しているかのような正確さで、佐伯の異常を見つけてしまうのだった。嵯峨はあまり人をじっと見るようなたちではないが、それは嵯峨があまりに敏いからかもしれないと佐伯は思っていた。
くわえて嵯峨は、決して〈大丈夫か〉だとか、〈なにかあったか〉だとか、そういった表現を使わなかった。佐伯ははじめ不思議に思っていたが、あるとき、自分が〈大丈夫か〉、〈なにかあったか〉と言われたら、きっと〈大丈夫〉と答えてしまうことに思い当たったのだった。今もまた、嵯峨の心遣いに気づいて、佐伯は頬を緩めた。
「たいしたことじゃないんですけど。……最近、もの忘れがひどいっていうか、よくものをなくしてしまって。それで……」
それは、四時限目の国語の授業でのことだった。どこに忘れてきたのか、佐伯の教科書がかばんの中から姿を消していた。これまでにも、そういうことはたびたびあった。学用品をやたらとなくしてしまうのだ。彼の母親はそれを〈落ち着きがないから〉だと言い、くり返しそう言われてきた佐伯自身も、そうなのだと思うようになっていた。
悲しいのは、こんなときに限って運悪く音読をしろと指名され、ひとり立たされて〈教科書を忘れてしまいました〉と言わされるはめになることだった。〈近くの席の友だちに貸してもらって〉と言われてようやく、ほとんど話したこともないような隣人に教科書を貸してもらうことができる。これが佐伯には恥ずかしくて、情けなくてたまらなかった。しかも、なくした学用品の多くは、必要な授業の後になると、不思議と返ってくるのだった。
「今日も、クラスメイトが放課後にその教科書を見つけてくれて、それでやっと戻ってきたんです。だから、もう大丈夫なんですけど……」「それでも腑に落ちんところがある、と」
〈かばんにはちゃんと入れたはずだったのに〉。佐伯が飲み込んだその言葉が、嵯峨には伝わっていたらしかった。
「えっ? あ、腑に落ちないっていうか……ええと、そう、そうかもしれません。かばんには入れたはずだったんです。たしかにぼくは不注意だし、よくものをなくしてしまうけど……。いえ、やっぱり気のせいだと思います。そのクラスメイトも、廊下に落ちてたって言ってましたから。たぶんかばんが開いていて、落としてしまったんだろうと……」
佐伯は、どもりながら答えた。こうして改めて事実を口に出してみると、嵯峨の言うとおり、なにか〈腑に落ちない〉ものを感じる気もする。けれども佐伯は、自分の落ち度を認めたくないためにそう思っただけに違いないと、すぐに考え直した。それに、ことの中身がどうあれ、嵯峨に話したことで、佐伯の心は楽になっていた。
「そうか」
「そうです」
嵯峨のつぶやきに、佐伯が短く答えた。
嵯峨の前では、恥ずかしい話や、罪悪感を伴う話をするときにも、佐伯ののどが詰まることはなかった。嵯峨はああしろこうしろと口を出すこともなく、年長者らしく助言を押し付けることもなく、ただ黙って佐伯の話を聞いた。そしていつも、ひとりごとのように〈そうか〉と言った。佐伯が〈そうです〉と返事をすると、その話は終わりになる。
佐伯はいくぶん楽な心持ちで、弁当の残りを味わった。少し塩が強くて米が足りないような気もしたが、慣れてしまうと、これがくせになる。白飯の量が少し多い並サイズの弁当を食べている嵯峨はこの感覚を知らないだろうが、佐伯は少し考えて、このことは彼に言わないでおこうと思った。
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