清夏(3)
〈嵯峨先生、蝉が鳴いてます〉〈うん? ああ、そうやなあ〉――自宅の階段を上がりながら、佐伯は昼に嵯峨としたやり取りを思い出していた。
父親の帰りは遅く、家での佐伯は、たいてい母親と二人きりで過ごしている。けれども、ここ数年、佐伯は母親といると息苦しさを覚えるようになっていた。母親との仲が悪いわけではない。むしろ、一緒にすごした時間の分だけ、佐伯は母親が好きだった。母親もまた、一人息子を心から大切に思ってくれているようだった。それなのに、なぜ苦しくなってしまうのか、佐伯にはわからなかった。わからないからこそ、いっそう苦しかった。
ふと、歯ぐきに違和感を覚えた佐伯は、爪のかけらがまだ口の中に残っていたことに気がついた。佐伯には、母親を前にすると、無意識のうちに爪を噛んでしまう悪癖があった。この癖のせいで、左手の親指の爪はいつもぼろぼろだった。外でその癖が表れるかもしれないと心配する母親に、佐伯は〈お母さんの前でしかしないよ〉とは言えずにいた。
佐伯が母親に言えずにいることは、年々少しずつ増えている。エビフライが好きだったのは小学生のころであることも、いつもの夕食の量が小食の佐伯には多すぎることも、無理やり入部させられたテニス部にはもう三か月も行っておらず、帰りが遅いのは嵯峨の家に通っているからであることも、小説を書き続けていることでさえも、母親を前にするとのどが詰まるような感覚がして、言えなくなってしまうのだ。それで佐伯は、本当のことを言う代わりに、母親が喜びそうなうそをつくようになった。先ほども、二人きりの食卓で、〈明日も練習あるから、もう寝るね〉と言ったばかりだ。
詰め込むようにして食べきった夕食のせいで苦しい腹をさすりながら、やっと階段の末にたどり着くと、右手すぐに佐伯の自室がある。佐伯は肩にかけたかばんのひもを片手で強く握った。自室の扉を開けるこの瞬間、佐伯はいつも、ひどく緊張するのだった。
部屋をのぞきこんでみると、佐伯の想像していたとおり、主のいない間に誰かが部屋を片付けた形跡があった。佐伯の母親は潔癖と言ってもいいほどのきれい好きで、いつも佐伯が出かけている間に部屋を掃除してしまうのだった。佐伯がどんなに精一杯きれいにしても、母親の目には粗が見えてしまう。でなければ、母親や他人に見えるような粗が、佐伯の目には映らないのかもしれない。どちらにせよ、〈あなたはおかしい〉と言われているようで、ひどくみじめな気持ちになる。
いっそ、自室に鍵をかけてしまえたらと思ったこともあった。扉には鍵がついている。けれども、鍵をかけたときのことを想像すると、佐伯にはどうしてもそれができないのだった。心配性な母親は、きっと泣きながらこう言うのだ――〈私がなにかしたの?〉と。その言葉が、叱るよりも佐伯を苦しめることなど知らずに。
母親が善意から部屋を片付けてくれていることは、佐伯にもわかっている。だが、片付いた部屋に帰ってくるたびに、佐伯は泣きたくなった。自分の居場所がどこにもないような気になるのだ。
佐伯はかばんを放り投げると、ベッドをわざと乱して、その上に膝を抱えた。目を閉じると、自分の内側にあるものに浸ることができる。誰にも触れられない佐伯だけの居場所は、そこにあった。頭のなかで、佐伯が知っているあらゆるものが、おもちゃ箱を引き倒したときのように、ごちゃ混ぜになって広がる。浮かんでくるおもしろいものたちは、次から次へと佐伯に声をかけてきて、彼の心のなかに長らく居座ろうとする。そして、いずれは物語に組み込まれたいと願っている。
心の中のものたち皆が佐伯の気を引こうとする中で、ひとつだけ、佐伯のほうに呼びかけてくることのないものがあった。注意を向けてみると、それがなにであるのか、すぐにわかった。自分の世界の中で一番すてきなそれの正体に、佐伯はもう気づいていた。
「蝉が鳴いてます」
佐伯は、ぽつりとつぶやいた。耳の奥で嵯峨の返事が聞こえた気がして、佐伯はうれしくなった。ジェットコースターのように流れていくすてきなものたちの群れが、佐伯を包み込んでいる。その中に、いっとう輝く〈嵯峨先生〉がいる。佐伯は小説が書きたくなり、ベッドから身を乗り出した。原稿用紙は、持っている分をすべてかばんに詰めてある。かばんに手を差し込むと、佐伯の期待通りに、すべらかな紙の感触があった。無意識にしていた爪いじりは、いつの間にか止んでいた。
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