清夏(2)

 夏は青い。息を切らせて立ち止まった少年は、やけに眩しく見える空に、そう思った。

 通い慣れた下り坂は、陽炎にゆらいでいる。夏に入り、少しだけ焼けてなお生白い彼の肌から、玉のような汗が滴った。街路樹も途絶えた街中では、青空の眩しさに目がくらみそうになる。日に焼かれることにも、走ることにも慣れていない少年は、ため息のかわりに短く息を吐くと、短い袖に額を押しつけて汗を拭った。アスファルトの熱気で、からだの中まで煮えてしまいそうだ。

 例年のこの時期なら、空調のきいた図書館に一日中入り浸っていたはずだった。それがなぜ、こんなふうに陽の下を走り回ることになっているのか。少年は、これから会いに向かう相手の背中を思い浮かべて、頬を緩めた。

 壁に寄せた文机にかけ、使い込まれた万年筆を走らせる和装の猫背。彼の周囲に満ち満ちる、肩越しに手元を覗くなどという無粋な行為を思いつきもしないほどの静謐。何より、骨ばった手で紡がれる文字ひとつひとつから、読者の心を躍らせる作品が織りあげられていくさまの、なんと神秘的なこと! 思い返すだけで胸がいっぱいになった少年は、両腕で抱えていた茶封筒をひしと抱きしめた。何を隠そう、少年はこれから、最も敬愛する小説家に、自分の小説を読んでもらいに行くのだ。


 黒々とした下り坂も半ば、見慣れた日本家屋の前に辿りついた少年は、やっと足を止めた。彼はひとたび大きく深呼吸をしてから、門扉に手をかける。

 門扉を抜け、控えめな芝生に足を踏み入れるたびに、この家は夏に愛されているのだと少年は思う。それは今日も変わらなかった。左右を二、三階建ての家に挟まれているために――真昼を除けば――隣家のシルエットがちょうど縁側にさしかかり、庭は心地よい涼しさに包み込まれる。風も、辺りではいっとう背の低いこの家を好んで吹き抜けていく。門扉の正面奥では、ずんぐりとした土蔵が、いつもと同じ穏やかさで少年を出迎えてくれていた。

 少年はしばらく、芝生に立ち止まったまま風をあびて、動悸がおさまるのを待った。敷地を囲う木々と、庭に植わったびわの木が、少年のまねをするかのように葉をさわつかせる。少年はそれらに不思議な親しみを感じながら、開け放たれた縁側に上がり、座敷をのぞき込む。そこに、彼のあこがれの人の姿があった。


「嵯峨先生! 僕です」


 少年の声に、文机にひじをついてうたた寝をしていた中年の男がうなる。男――嵯峨は目をこすり、やがて少年の姿を捉えると、気の抜けた調子でこう言った。


「おや、佐伯少年。よう来たなあ」


 聞き慣れた耳触りのいい声に、少年――佐伯の頬が喜びに染まる。寝起きの嵯峨はまだぼうっとしているようだったが、彼のそんな姿を見慣れている佐伯は、〈おじゃまします〉と嵯峨に声をかけて、座敷に上がりこんだ。

 嵯峨は佐伯に、不在でも家の中に立ち入ってかまわないと言ってくれていた。それで佐伯は、この家のどこに何があるのかをよく知っていた。

 佐伯が二つのグラスに麦茶を注いで戻ると、嵯峨は、縁側に出て佐伯を待っていた。二人は、並んで縁側に腰を下ろして、しばらく黙って風に当たった。静かな庭、静かな家、それに、静かな〈嵯峨先生〉。佐伯は、その何もかもが好きだった。この静けさがどんなに長く続いても、退屈にも、気まずくもならないことも含めて。


「さて。今日は、どんな作品を持って来てくれたのや」


 ようやく意識がはっきりしてきたらしい嵯峨が切り出すと、佐伯は、腕の中の茶封筒に視線を落とした。その中に入っているのは、佐伯のいちばん大切なもの――彼が持てるすべてを尽くして書いた、小説の原稿だった。佐伯がそれを嵯峨に手渡すと、引き換えるようにして、嵯峨も文机のかたわらに積んであった紙束を佐伯に差し出した。佐伯は目を輝かせながら、その紙束――嵯峨の原稿を受け取る。互いの原稿が入れ替わると、二人はそれぞれに手元の原稿を読みはじめた。


 佐伯少年にとって、嵯峨という男は不思議な存在だった。どこのものかもわからない不思議な訛りのかかった穏やかな話しぶり、印象的な和装のすがた。それだけでなく、彼は日がな一日眠っているか、散歩をしているか、あるいはものを書いているかで、佐伯や、ほかのあらゆる人が抱えているような〈しなければならないこと〉とは縁がないように見えた。彼は佐伯と同じこの町に暮らしていて、わずかではあるが人付き合いもある。けれども、それがかえって不思議に思えるほど、嵯峨は他から〈外れ〉ていた。彼の周りでは時間がゆったりと流れていて、彼と言葉を交わした誰もが、その特別な空気の中にとりこまれてしまうようだった。

 佐伯が嵯峨に関して知っていることは、そう多くない。わかることといえば、見た限りの彼の生活と、おおよその年齢――四十代後半から六十代はじめくらいに見えるが、ミステリアスな空気のせいで定かではない――と、職業と、彼自身の性格の一面と、幅の狭い人間関係、それに、彼の書く文章が美しいことだけだ。筆名からそのまま〈嵯峨先生〉と呼んでいるだけで、出会ってから半年が経つというのに、彼の本名すら知らないのだった。けれども佐伯は、すでに知っている以上のことを、積極的に知りたいとは思わなかった。嵯峨にあれこれ問いただすのは、たとえば澄んだ水面をかき乱すようで、いやだったのだ。佐伯は、紙の表が見えればじゅうぶんなたちだった。


 嵯峨はもの静かな人で、話すよりは人の話を聞くことが好きだと言った。けれども、佐伯の話を聞いてうなずいているときも、佐伯には、彼の心がどこか別のほうを向いているように思えてならなかった。そんな嵯峨がはじめて佐伯に深い興味をかたむけたのは、佐伯が自身の小説を持ち出したときだった。嵯峨は書き手である以前に、意欲的な読者であり、他人の作品に敬意を払うことのできる人だった。やがて、佐伯の作品と引き換えに、嵯峨は自身の原稿を佐伯に読ませるようになり、互いの原稿を取り替えたことで、二人はいっそう親しくなった。そうして嵯峨と佐伯は、作家と読者であり、師と弟子であり、歳の離れた友人という、なんとも形容しがたい関係を今日まで続けてきたのだった。

 嵯峨の作品を読んでいるさなか、ふと息をついて、佐伯は顔を上げた。原稿用紙をめくる手を止め、鼓膜を擦るようなノイズに耳をかたむけてみると、ずっと聞こえていたその音が、ようやく蝉の声として聞こえはじめた。佐伯は驚いて、思わず嵯峨に声をかける。


「嵯峨先生、蝉が鳴いてます」


「うん? ああ、そうやなあ」


 佐伯の原稿を読みふけっていた嵯峨は、思い出したように庭を見渡しながら答えた。嵯峨が余計なことを言わず、ただ肯いてくれたので、佐伯は嬉しくなった。


「蝉が鳴いてます」


 佐伯は、確かめるようにもう一度そう言ってから、借り物の原稿を抱くように膝を抱えて、夏の横たわる庭をうっとりと眺めた。ずいぶん読書に集中していたからか、そうして風に頬をなでられるままにしていると、意識の輪郭がとろけてしまいそうだった。

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