清夏

清夏(1)

 とっ、とっ――。

 鼓動が聞こえる。小さくやさしい振動に、少年はゆっくりと目を開いた。まぶたの隙間から薄明かりが差しこみ、まだ形になっていない意識を照らし出す。

 少年の目がはじめに捉えたものは、灰色の天井だった。

 ここは何だろう。少年は、ぼんやりと考えた。からだはあお向けで、伏せた手のひらには、ざらざらとした感触がある。指先を動かすと、ほどよく切りそろえられた爪が、すじのようななにかにひっかかった。同時に、嗅ぎなれた、懐かしいような匂いもする。

 気だるいからだを横に倒したところで、少年は、自分がなんの上に横たわっていたのかを知った。畳だった。なるほど、先刻ひっかいたのは、い草のすじなのだった。

 少年は上体を起こし、ぼうっと周囲を見回す。そうして、今いるこの場所が、打ちっぱなしのコンクリート壁に形作られた部屋なのだと理解した。床は正方形に近い形をしていて、向かい合った壁同士の間には、大股で五歩分の距離もない。


 次に少年は、鎖骨のあたりをなで、声を出してみた。のどは少しの抵抗もなく震えたが、狭い部屋は少しも音をはね返すことなく、黙り込んだままだった。少年はしばらく、自分以外のだれか、あるいはなにかの応えを求めて呼びかけ続けた。けれども、どれだけ経っても返事は来ない。

 やがて少年は疲れて声を出すのをやめ、代わりに、この部屋についてもっと調べてみることにした。自分はどうしてここにいるのか、あるいは、どうすればここから出ることができるのか。どちらでもいいから、とにかく知りたかった。知らない場所にひとりで放り出されたまま、なにもせずにいるのがたまらなかった。

 少年がまず目に留めたのは、目の前に置かれていた、幅のある木の箱だった。だが、少年はすぐに、それに対する興味を失った。木の箱には引き出しなどがあるわけでもなく、装飾らしい装飾もない。箱そのものと同じ素材で作られたふたがかぶせられているだけで、そのふたを開けてみても、中身は空なのだった。


 木の箱を調べ終えた少年は、座ったままの体をひねり、新たに、右後ろのかどに文机が据えられているのを見た。立ち歩く必要もない狭い部屋だ、少年は畳の上をはうようにして、文机に近づく。卓上には万年筆が転がっていた。少年は、ペン先を親指に押し当てて、それが使えるかどうかを確かめた。万年筆は暗赤色のインクで、少年の親指の先に傷のような線を引いた。

 続けて少年は、文机の右側に目をやった。引き出しが上下に二つ並んでいる。下段の引き出しは、内側に何かが引っかかっているようで、開けることができなかった。上段の引き出しの方は、開きはしたものの、何も書かれていない原稿用紙が一枚入っているきりだった。

 少年は原稿用紙を取り出して卓上に置き、しばらく頭を悩ませた。左手の壁に横たわる木箱はさておき、目の前には原稿用紙と筆記具がある。少年はペンを取り、思いついた言葉を原稿用紙の一行目に記した。

 〈青〉。

 言葉にしてみると、〈青〉のイメージはより鮮明になった。白みがかった、まぶしい青だ。〈青〉は少年の中に、また別の記憶を浮かび上がらせた。今度は、鼓膜をくすぐる、律動的なノイズだった。少年はためらいがちにペンを走らせ、〈青〉の下に、〈蝉の声〉、〈夏〉と書き足してみる。そして、いっときの逡巡を経てから、思いつくだけのすべてを、無心で原稿用紙に書き連ねていった。〈ざらざらした白壁〉、〈芝生〉、〈裸足〉、〈猫〉、〈坂〉、〈風の通り道〉……。原稿用紙の三分の一が埋まったところで、〈金魚〉と書き終えた彼は、ある情景がまなうらに浮かんでくるのを感じた。


 一匹の金魚が、畳の上で跳ねている。すると、そばにいたらしい黒猫が視界の端からすべりこんできて、苦しげに悶える金魚をぱくりと一口にすると、再び姿を消していった。少年は、どうしてかもわからないままに、〈やってしまった〉と思った。自身に非があることを、彼は知っていた。

 カルキの臭い。空になった金魚鉢に水を注ぐと、底の砂利が水流に踊る。猫が金魚鉢をじっと見つめている。金魚は……。

 少年はこめかみを押さえた。なにか、大切なことを忘れている。それなのに、その〈大切なこと〉が何なのかもわからない。少年は、こみ上げてくる衝動のままに、浮かんできた情景を書き記す。


〈蝉の声がする。夏。ふすまに区切られた畳の部屋。振り返ると、隣の家との間、木のフェンスに、下半分を斜めに切り取られた光が差している。風が抜けると、ぬれた肌が乾いて、すっとする。静か、先生はいない。金魚鉢は、背の低いたんすの上に置かれている。金魚を見ていると、ふすまの向こうから黒猫が現れる。猫は金魚鉢のそばに飛び乗る。猫の力で金魚鉢を倒せないというのは思い違い、鉢に頭をつっこむようにして、鉢を引き倒す。砂利と水草と金魚が底にたまっているが、水は空。金魚鉢をキッチンに持って行く。……〉


 そこまで書いて、少年はようやく思い出した。

 彼は、金魚の墓をたてたのだった。彼自身の心にあった、金魚の残滓を弔う墓を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る