星を待つひと(8)


……


 ……そのときなにが起こったのか、私はよく覚えていない。彼らが言うところによると、私は大声で叫びながら海に飛び込んだらしいのだが、そんな行動をしたことも、その理由も、まったく思い出せなかった。海から引き揚げられたときの私は、助けてくれた漁師たちが何を尋ねても答えられないまま、胸に残った苦しいほどの喪失感に身を任せて、ただ泣きじゃくっていた。

 何か、とても大切なものを、水の中に落としてきてしまった気がした。だが、それが何だったのかすら、分からなかった。

 長いようで短かった夏季休暇を終え会社に戻ると、案の定、あの企画のプロジェクトリーダーの席はもう埋まってしまっていた。悔しがるべきなのかもしれなかったが、おかしなことに、少しも悔しくはなかった。居場所を失う恐怖に怯えることも、あの夏以来ぱったりとなくなり、休暇に入るときにはあった、精神の不調からくる体調不良も、帰省を経て治まった。それでも、流星群の日に感じた正体のわからない喪失感だけは、ずっと胸の奥にこびりついて離れなかった。

 何かが欠けている。いや、違う。何かを忘れているのか。どうしても知りたかった私は、あの奇妙なできごとから一年がたった夏の日、今度は自分から休暇を得て、例の海岸を訪れた。

 貝の散らばる浜に打ち寄せる波は静かで、少しの濁りもない。私はスニーカーと靴下を脱ぎ捨てると、誘われるように、冷たい浅瀬に足を浸した。

 私がほんの少し足を動かすたび、水面に波紋が広がり、雫が散る。気がつけば、夢中になって水面をかき回していた。そうしているうちに、自分のそんな行動が面白いもののように思えてきて、笑いがこみ上げる。

 遠くで、一瞬の残光を広げ、夕日が沈んでいく。影の差した夕空に、私は、同僚に連れられて行った展覧会で見た絵画を思い出した。

 水中に降りそそぐ光の柱と、つやつやとした肌を輝かせるイルカたち。彼らを包むガラス玉のような泡を見た私は、思わず『なんだかおいしそうだね』だなんて口にして、同僚に驚かれた覚えがある。彼いわく、『そんなことは考えない人だと思ってた』らしい。

 思えば、私が不思議なことに心惹かれるようになったのも、この浜で奇妙な体験をしたあの夏からだ。私は、すっかり濡れたすそをたくし上げることも忘れ、星の兆しはじめた空を仰ぐ。

 そんなとき。

「っぷし!」

 ――くしゃみ? 私が驚いて振り返った、その先に。

 失ったはずのあの夏が、あのときと同じ姿で、私を待っていたのだ。

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