星を待つひと(7)

 そして、とうとう流星群の日がやってきた。

 昨日の雨などなかったかのような晴天の下、集落の若者たちは星祭りの準備に追われていた。一時帰省の私も例にもれず、提灯をぶら下げ、椅子を並べる作業に精を出す。

 私も、ナナシがいてくれるならこういった場に喜んで参加していたかもしれないが、彼の居場所は、あくまであの海岸だった。それなら私が行く場所も、決まっている。祭りがはじまり次第、こっそり抜け出す気でいた。

 ……あの話を聞くまでは。

 祭りの準備も後半の夕暮れ。漁を生業とする集落の男たちは、何やら準備をしていた。その会話の端々から、『今夜はごちそう』だとか、『流星のころがねらい目』だとか、漏れ聞こえてくる。星祭りの最後に振る舞われる、私の苦手なごちそう――その正体を思いだした私は、提灯を放り捨て、走り出した。

 年に一度、夏の流星群の日には、浅瀬にたくさんのイルカが集まってくる。警戒心の強いイルカが、なんとも追い詰めやすい場所にのこのことやってくるのだ。そんな都合のいいタイミングを、漁師――人間たちが見逃すはずがなかった。

(――イルカには足なんてないだろう?)

 ナナシはイルカなんかじゃない。あれは彼の空想物語のはずだ。分かっている、分かっているのに……心臓は急いて、痛みを訴えてくる。きっと、ナナシの無事を確かめなければ、この痛みは治まらない。

 本当でありませんように。ナナシが口にしたあのすべてが――彼がイルカであるということが――、どうか、嘘であってくれますように。

 胸を押さえてたどり着いたいつもの海岸は、これまでになくざわついていた。すぐ近くに、漁船の影が見える。ここに向かっているのだ。いつもの岩陰を覗きこんだ私は、そこに、ぐったりと伸びたナナシの脚を見つけ、息をのむ。

「ナナシ!」

 私は急いで彼に駆け寄った。

 分厚い外套からのぞく手も、裸の足も……彼の体は、真新しい傷でいっぱいだった。痛々しい打撲の痕に、血に濡れたままの傷。

 私が揺さぶると、ナナシは弱々しくうめいた。私が来たことに気が付いた彼の顔が、ふわりと綻ぶ。

「よかった、死んでしまったかと思った。けど、早く手当てしないと……」

「ナオユキ。君は、イルカを友だと思うかい」

 場に不釣り合いなナナシの問いに、私は戸惑った。

 これまで、共に星を待ってきたイルカたち。彼らを友だと思うかと言われると微妙なところだが、親近感は確かにわいていた。だが、私がここまで駆けてきたのは、あのイルカたちのためというよりも、ナナシのためだった。『自称イルカ』の、ナナシのためだった。

「あなたは、僕の友人だ。何にも代えがたい、大切な友だちだよ」

 私の答えに、ナナシは寂しそうに笑った。『知っていたよ』と言って。

「君はきっと、私を――イルカである私を、助けに来てくれたんだろう? 私の言葉を信じて」

 図星だった。

 私は、ナナシがイルカであることを疑えなかったからこそ、必死でこの場所まで来たのだ。流星群を待つためだとか、星が貝になることを確かめたかったからだとか、そんな言い訳はいらない。私は今や、彼の言葉の全てを信じ、手放さないようにと握りしめていた。

「私は、群れの皆を守りたかった。無理に決まっているのに、人間の船に体当たりをして。捕まって殺されても構わないと思ったんだ。それで、傷を負って……なにもかも諦めかけていたよ。君のことを思い浮かべるまでは」

 ――君と、最後の夜を過ごしたいと願ってしまうまでは。

 ナナシの晴れ晴れとした顔に、雫が滴る。鯨が潮を吹いたのか、空の彼方の海面が水をこぼしたのかは分からない。ナナシは私の顔を見上げ、幸せそうに微笑んだ。そして、かすれた声で語り出した。

 あの流星群の日――幼い私の日記が途切れた日のことを。

「あの日も、今日のように漁船がすぐ近くまで迫っていた。イルカたちはあっという間に四方を囲まれて、私も、群れの仲間たちも逃げ場を失ってしまった。もうダメだと思ったそのとき、ナオユキ、君はね――」

 ――両手を大きく振って、思い切り声を上げて……岩場から、海に飛び込んだんだ。

 ナナシはせり出した岩場を指差し、そう言った。

 おそらく岩場から飛び降りたそこは、浅瀬とはいえ、足が海底に届くほどではなかったはずだ。幼い私は、そこに飛び込んだのだ。あわてた漁師たちが私を水から引き揚げている間に、イルカたちは網から逃れ、皆助かったのだという。もちろん、ナナシもだ。

「私は、私たちは、君に救われたんだ。遅くなったけど、ありがとう」

 何年もの時を経て、私たちは同じ場所で、同じ日に、こうしてこの白浜に並んでいる。何一つ覚えてはいなくても、彼の言葉は私の胸に確かに響いた。

 そのときだ。私の頭上に固い何かが降ってきた。私の頭を打ち、白浜に転がり落ちたところを拾い上げてみると、それは、真っ赤な貝だった。驚いて空を見上げると……空のはての水面を、星の軌跡が流れ伝っていた。

 ――流星群だ。

 それに続くように、白浜に次々と貝が降り注ぐ。美しいもの、地味なもの、欠けたもの、形のおかしなもの……あらゆる貝が白浜を転がり、眠るように砂に身をうずめていく。イルカたちは喜びにキウキウと鳴き声を上げ、水しぶきを散らせた。

 ――本当だった。ナナシの言ったことは、本当だったのだ。

「残念だけど、私はもう動けそうにない。だから、ナオユキ。君が選んでくれないか。この浜で一番美しい貝を。君が、美しいと思う貝を」

 傷だらけのナナシは、力なく言った。

 手当てが先だと言っても、彼のことだから、聞き入れてはくれないだろう。そうしているうちに、流星群の夜は終わってしまう。彼が――イルカたちが待ち続けたこの時間は、そう長くはなかった。

 私はためらいながらも、ナナシをその場に残し、砂を探った。

 際限なく振り続ける貝は私の身体を打ち、浜に散らばっていく。こうして探している間にも貝は増え続けるのに、最も美しい貝なんて見つかるはずがないではないか。そう思って半ば呆れていた私の目に、一つの貝が映る。

 美しくはない。どちらかといえば、とても地味な貝だ。他より分厚くて、くすんだ灰色をしている。私は砂を探る手を止め、その貝に手を伸ばした。

 触れた指先から、確信が伝わってくる。ナナシの髪に良く似た色に惹かれたのかもしれない。彼の袖のような分厚さに惹かれたのかもしれない……その感覚を、自分でも説明しきれないまま、私はその地味な貝を拾い上げる。

 私が選んだ貝を握らせてやると、ナナシのやつれた顔に、笑みが浮かんだ。彼の体は今にも最後の熱を失いそうで、私の手を震わせる。

「目的は果たされた。もう、海に帰らなくては……」

 ナナシは空いた手で私の手を握り、言った。

 無理に決まっている。動けもしないくせに、どこへ行くと言うのだろう。そう思う裏で、私は彼がどこにも行かないでいてくれることを望んでもいた。動けないことを言い訳に、ずっとここにいてくれるのではないかと、期待していたのだ。

 だが、ナナシの瞳に迷いはなかった。彼は、かつて私が飛び降りた高い岩場を指し示してこう言った。

「陸の空気は私には重すぎる。どうか、君が私を運んでくれないか。水に戻れさえすれば、きっと大丈夫だから」

 本当に、行ってしまうのだ。ためらいもせず、私を置いて。そして私は、そんな彼の寂しげな笑顔さえ、忘れてしまうのだ。やりきれず手に力を込めた私に、ナナシは何も言わなかった。ただ黙って、私の手を握っただけだ。

 彼を薄情だと責める権利なんて、私にはない。行かないでくれと言うこともできないのだ。彼の帰る場所は、水の中なのだから。他でもない私がそれを信じ、認めてしまったのだから。

 私は彼の言うとおり、その身体をそっと抱き上げる。期待していたほどの重さすら感じられない。こんなに拙い身体で、あんなふうに笑っていた。私を引き止めてくれた。雨に打たれていた。漁船と戦おうとした。

 傷だらけで、ろくに身動きもとれないような人間を、夏とはいえ水に放るなんて。苦々しく思いながらも、ナナシの言うとおりに、せり出した岩場を駆け上がる。天然の飛び込み台から海面を見下ろすと、その高さにめまいがした。

 人の姿をした彼をこうして海に投げ入れるということがどういうことかは、私にもわかっていた。けれど私は信じたかったのだ。彼が話してくれた全てを。イルカである彼を。

「ナナシ」

 私の改まった呼びかけに、腕の中のナナシが不思議そうな顔をする。

 私は今、笑えているのだろうか。彼との別れを知っていてもなお、うまく微笑めているのだろうか。どうか、そうあってくれればいいと思った。

「また来年、会おう」

 ――あなたを忘れない。陳腐でひねりのない別れの言葉にも、ナナシはやわらかく微笑んだ。

 彼はきっと、来年も同じ場所で、星を待っているのだろう。私はその隣に腰かけて、彼の話を肴に、酒でも飲もう。また会えるのだ。来年の夏、この場所で。

 私は、両腕の力を抜いた。はるか水面へ落ちていく彼は……とても、幸せそうな顔をしていた。水しぶきが上がり、彼の姿を覆い隠す。

 彼が浮き上がってくることは、なかった。

 しばらくして、静かになった水面に、イルカたちが集まってきた。まるで、仲間を迎えに来たかのように。彼らはナナシが落ちたあたりを囲むように泳ぐと、キウキウと声を上げた。皆一様に私を仰ぎながら。そこまで届けと言わんばかりに。

(――君は、イルカを友だと思うかい)

 ――あなたは、私の友人だ。何にも代えがたい、大切な友だちだ。たとえあなたが海に帰ってしまおうとも、それは決して変わらない。別れを惜しむこともしないよ。きっとあなたが、それを良しとしないだろうから。それに代えて私は、今、あなたのためにできることがしたい。

 集まったイルカたちが、にわかに騒ぎ出す。すぐ近くまで迫った船影に気がついたらしい。私はいくつもの漁船を睨み、一歩、岩場の端へと踏み出した。

(――私は、私たちは、君に救われたんだ)

 星を待った七日間を忘れて、大人になって、いろいろなものを背負うようになった今なお、私の選択は幼い頃のそれと同じだった。私の根っこは、笑えるくらい変わっていない。ナナシ、あなたもそう思って、懐かしんでくれていたのかもしれない。次に会ったときにでも、聞かせてほしい。

 漁船の群れは、もはや船上の人影が認識できるほど近づいてきていた。

「――!」

 逃げ遅れたイルカたちを囲い込もうと動き出した全ての漁船に向け、私は大声で叫んだ。漁師たちの注意が、私のもとに引きつけられる。眩むほどの高さも、眼下に広がる黒々とした海も、そこにナナシが消えていったのだと思うと、私を奮い立たせてくれるだけだった。

 私がこれだけ身体を張るのだから、あなたもヘマなんてせず、生き延びてくれよ。来年の夏、ここで、待っていてくれよ。

 私は一つ深呼吸をすると、思い切り飛び込み台を蹴り、海面に向かって飛び降りた。

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