星を待つひと(6)

 雨は、想像以上に長かった。昨夜降り出してから、朝をひとつ越え、夕も暮れかかった今になっても、やむ気配を見せない。今日は、海岸に行くことはできないだろう。まったく、迷惑な鯨もいたものだ。自分がかじった月の始末くらい、自分でできないものだろうか……そんなことを考えて、ふと寂しくなった。今夜はナナシに会えないのだ。

 残念がる私など気にも留めず、さらさらとした雨音は、たえず耳をくすぐってくる。ため息のかたわら、雨が止んだら終いにしようと思っていた片付けが、普段は触らないようなところにまで及びはじめていた。埃の積もった本棚から、古いアルバムをいくつも掘り出した私は、ようやく片付けの手を止める。

 四冊の卒業アルバムと、母がつけた、十冊近くの分厚いアルバム。古い方から順に並んだ写真を追ってみると、なんだか不思議な気持ちになる。自分がどうやって成長してきたかなんて、写真を見てもわからないものだ。

 一冊だけ手前の方においてあったアルバムには、最近送った写真もすべてつづられていて、胸が温かくなる。遠くにいても、母は私のことを気にかけてくれていた。それなのに、私は……。

 新しいアルバムの最後に収まった、一枚の写真。プロジェクトリーダーに指名されたときに、嬉しくて送った手紙に同封していた、笑顔の写真だ。この休暇が終わったとして、私の望む居場所はあそこにはない。もう少しで、届きそうだったというのに。ようやく、手に入れたと思っていたのに。

 私は、どこに行けばいいのだろう。アルバムを閉じることもできず、心の底から嬉しそうな過去の自分を、うらめしい思いで見下ろした。

 こんなとき、ナナシなら、なんと言うだろうか。そんなことを考えはじめたとき、ふと、古い方のアルバムのすきまから、一冊のノートがこぼれ落ちた。

 妙に重たい。小さくて黄ばんだそれは、どうやら日記帳らしかった。表紙には、『なおのにっき。おかあさんきんし』などと拙い字で書いてある。身に覚えがないのだが……。私は戸惑いながらも、思い出というより、黒歴史と言った方が正しいかもしれないそれを開いた。

 一ページ目で、このノートが変にずっしりとしていた理由がわかった。どのページにも、貝がらが貼りつけられているのだ。色とりどりの貝と、色鉛筆の絵と、不器用な字。日付は書いてあることもあれば、ないこともある。記録するために書いたというよりは、ただ楽しくて書いているような雰囲気だ。

 ページをめくるごとに記憶がよみがえり、懐かしさがこみ上げてくる。これは、幼い私が、あの海岸で遊んだ日々を記したものだった。毎日お気に入りの貝を拾っては、ここに貼りつけ、海のスケッチをしていたらしい。お世辞にも上手いとは言えない海の絵を見た私は、思わず笑ってしまった。夢中になって絵を描いていた幼い私の姿が、目に浮かぶようだ。どのページを見ても、海、海、海……イルカ。

 イルカ? 私は驚いて、ページを送る手を止めた。

 それまで続いた海の絵が、ある日を境に、イルカの絵にすり替わっている。『いるかがたくさんおよいでいた』などというメモまであった。私は驚いて、さらにページを送った。イルカ。イルカ。イルカ……そこからきっかり七ページは、イルカのことしか書かれていない。それを最後に、日記は途切れていた。

 あの海岸で遊んだこと、貝を拾ったことは、うっすらとではあるが、思い出せる。だが、イルカを見たなんてことは……印象的な体験だったはずなのに、まるで思い出せない。たった七ページ――七日だけ現れたイルカの存在に、途切れた日記。

 なんて偶然だろうか。私は、ナナシのことを思い浮かべていた。

 ナナシは、『イルカは七日前から流星群を待つ』と言っていた。もしや、この日記が途切れたのは、流星群の日なのではないだろうか? 流星群前の六日のうちにイルカと出会い、最後の流星群の日に、何かがあったのではないか?

(――ナオユキか。……ナオユキだって? 君は、ナオユキというのか?)

 はじめて会った夜の、ナナシの奇妙な反応。耳の奥にこだまする波の音。力の抜けた手から、日記が滑り落ちていく。

 私が――ナナシに揺り起こされた、空想好きな『私』が、訴えかけてくる。この日記を書いたときの私は、あの浜で、彼と一緒に星を待っていたのだと。もちろんそんな記憶はないのだが、それが本当だったとしたら……。いてもたってもいられなくなった私は、痛いほど突き刺さる雨を片腕でしのぎながら、激しくうなる心臓を押さえ、あの海岸を目指した。

 とはいえ、こんな雨の中、彼が待っているわけがない。雨に打たれ、正気を取り戻した私は、いつもの浜の前で立ち止まった。水面は雨に煙り、イルカたちがそこにいるのかどうか さえわからない。

 今すぐ確かめたいことがあるのに。私はたまらなくなり、荒れた海に向かって、ナナシの名を呼んだ。返事なんてないと、わかっていながら。

 だが、虚しさの代わりに返ってきたのは、もうずいぶん聞き慣れた声だった。

「ナオユキ。私ならここにいるよ。まだ、海に帰るには早いもの」

 どうして……。私は慌てて浜へ降り、岩陰を覗きこんだ。そこでは、声の主――ナナシが、いつもと変わらない様子で、『星を待って』いた。全身、びしょ濡れになって。無造作な髪先から、雫を滴らせて。

「イルカは七日前から流星群を待つんだよ」

 彼はびしょ濡れの頬を拭おうともせずに、そう言った。自身のその言葉を体現するように、雨に打たれるまま星を待つナナシの横顔は、どこか痛々しい。私は、そんな彼を、これまでとは違う心持ちで見つめていた。

「ナナシ。僕は、あなたに会ったことがあるかもしれない」

 私の言葉に、ナナシは力なく顔を上げる。彼の困ったような微笑みは、無言の肯定に違いなかった。

 やはり私は、幼いころに彼と出会っていたのだ。だが、やはりなにも思い出せない。ナナシの寂しげな表情に、心が苦い音を立てた。

「どうしてか、全然思い出せないんだ。あなたのことも、一緒に過ごしたときのことも、流星群の日になにがあったのかも。一緒に過ごしたのは確かなのに、なにも……」

 そこまで言いかけたところで、諦めたように目を伏せたナナシの姿を見て、私はハッとした。

 ナナシは、はじめて会った日以来、私を知っているようなそぶりは見せなかった。私に、昔会っていたことを思い出させようともしなかった。それは、私が彼のことを忘れているであろうことまで知っていたからに違いない。それならば……。

「……忘れて、しまうのか?」

 ナナシは私の方を見ないまま、浅くうなずいた。

 消えてしまうのだ。この海岸で、彼やイルカたちと一緒に星を待った七日間の記憶は、いずれ、私の中から抜け落ちてしまう。幼い日の私がそうであったように。

「それなら、僕とあなたがこうして話していることも、一緒に星を見上げたことも、あの浅瀬で遊んだことも、あなたが話してくれた物語も、僕は……全部、全部忘れてしまうのか」

 彼は再び、こくりとした。

 憮然として立ち尽くす私の肩を、雨が激しく抉る。

 忘れてしまう。彼と出会ったこと、イルカたちのこと、星が貝になって地上に降り注ぐこと、鯨が月をかじること、空が本当は海で、その果ては海底であること、ナナシと過ごしたこと。記憶はひとつ残らず失われてしまう。そして私は、失くしたことにすら気付けないのだ。

「今年も、きっと素晴らしい星が降るよ。……一緒に、見てくれるかい」

 立ちつくしたままの私に、ナナシが笑いかける。いずれは私に忘れられてしまうことを、知っていながら。

「大丈夫だよ、ナオユキ。君がまたこの日にこの場所に来てくれた、それだけで私は嬉しいんだ。また、君と一緒に星を待ちたかった」

 私は何も言うことができず、彼の隣に腰を下ろした。砂はぐっしょりと湿って不快だったが、全身濡れてしまった今になっては、そう気になることもなかった。ナナシはこんなときにも変わらず、濁った空を見上げている。

 明日は、彼の待ち望んだ流星群の日だ。自称イルカの彼は、美しい貝を拾って、海に帰ってしまうのだろうか。私には分からなかったが、なんとなく、明日が彼と過ごす最後の日になるような気がしていた。確証はない。ただ、そう思った。

 私はナナシの手を取り、両手で握った。指先はすっかり雨に体温を奪われてひやりとしていたが、確かに心拍が感じられる。この感覚も、私は忘れてしまうのだ。

「ナオユキ、そんな顔をしないでくれ」

 ナナシは私の手を握り返し、目を閉じた。

「大丈夫。私が覚えているよ。君が忘れてしまっても、私がちゃんと、覚えている。だから君は、何年後になっても……導かれるままにこの場所に来ればいい」

 ――今度も、初めましてになるけれど。何度でも、この七日間を繰り返そう。君が、本当の意味でこの場所を見失ってしまうまで。君をこの場所に導く何かが消えてしまうまで。

 ナナシの言葉に、私の心が堰を切ったようにあふれ出す。

 ――忘れたくない。こうしてこの海岸に再び辿りついたこと、ナナシの言葉の全て、その温かさ……何一つ忘れたくはない。

「忘れない。忘れてたまるか。また来年の流星群も一緒に待つんだ。おかしな話をしたり、雨に降られたりしながら。だから、また来年の夏、必ずここに戻ってくるよ」

 ナナシは私の手を握ったまま、目をしばたたく。そして、頬を緩め、『待っているよ』とだけ答えた。少しの疑いもない、だが弱々しいその言葉が、私の胸をしめつける。

 結局その夜は晴れることなく、私とナナシは寄り添って雨に打たれていた。だが、早く帰ろうという気にはなれなかった。こうして彼といられる時間も、もう残り少ないかもしれないのだから。

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