星を待つひと(5)

 流星群の二日前――ナナシと共に過ごす、五度目の夜。

 その日は、分厚い雲が空を覆い隠してしまっていた。それでも、ナナシはいつもの岩場に腰かけ、夜空を見上げていた。星も弱々しい、曇り空だったが。明日は雨になるかもしれない――私はそんな不安を抱きながらも、あえて口には出さなかった。

 ナナシは曇り空をじっと見上げていたが、やがて、くすくすと笑いだした。

「どうかしたのか?」

「いいや。また、大きな星――鯨が、月をかじってしまったのだな、と思って」

 そうしてまた、彼の空想物語がはじまった。

 全ての命は、身体を失うと、星になって空に帰る。生前の行いに関わらず、大きな生き物は大きな星に、小さな生き物は小さな星になって、夜空を泳ぎ回るのだ。月の周りを巡り、やがて自分の生に評価をつけられ、貝として降り注ぐその日を待つ。

 ところが生き物は、生きているときも星になった後も変わらず、母たる月に激しく惹かれるのだという。月に手を出すことはあの夜空で最も罪深い行いとされているが、月の魅力は、その先の地味な貝として過ごす時間と引き換えて余りある。多くの小さな星は月に触れることすらできないが、とびきり大きな星――鯨の星にはそれができるらしい。月の魔力に負けてしまった鯨の星は、その大きな口で月をかじってしまう。

「けれど、地味な貝にされるのは嫌だと駄々をこねるんだ。そして、自分が月をかじってしまったのがばれないように、思い切り潮を吹いて月を隠してしまう。あの雲が、それなんだ」

 私はうなずき、ナナシと並んで厚い雲を見上げた。

 あの雲の向こうで、鯨はひどくあわてているのだろうか。それとも、したり顔でこちらを覗き見ているのだろうか。どちらにせよ、遠い地上からではとても分かりそうにない。

「人は、空は果てしないものだという。けれど、私たちはそうではないと考えている。空は星の漂う海で、この世界には限界があるんだというふうに」

 ナナシは私の顔を覗き込むと、にこりとしてそう言った。彼自身が人間に含まれないような言い方だったが、それはきっと、彼が『イルカだから』なのだろう。

 あの空が海なのだとして、それなら、空の彼方は海底なのだろうか。たとえば、そこで空が終わっていて、私たちの生きるこの世界は一つの部屋のように閉じられた空間だというのなら、気象衛星はどこへ行くのだろう。ロケットは空の海底にぶつかってしまうんじゃないだろうか。

 気づかないうちに、難しい顔になっていたらしい。私の表情を見たナナシが、こう付け加える。

「でもね、星の住む世界はとてもとても、遠いんだ。人間の作るものは、その海面にもたどり着くことができない。だから人は、空には果てがないと思い込んでいるんだよ」

 人がたどり着けないほど遠く、私たちの呼ぶ『宇宙』の果てに、彼の言う『海』はあるらしい。確かに、失った大事な人の星に手が届くなら、人はそれをつかみ取ろうとやっきになるはずだ。だが、それが決して不可能なことだからこそ、私たちは死を、二度と互いが交わることのないような別れを、恐れるのかもしれない。

 影を帯びた大きな雲――ナナシ曰く、鯨が吹いた潮――がだんだんと夜空に広がり、やがて星はほとんど見えなくなってしまった。

 私が『明日は雨になる』と言うと、ナナシはうなずくことで答えた。少なくとも、こうして一言言っておけば、彼だって雨の中無理にこの海岸を訪れることはないだろう。本当は、歩くことのできない彼を負ぶって、家まで連れて帰ってやりたい。明日の夜、また一緒にここに来ればいいのだ。だが彼は、それを良しとしないだろう。なにを言っても、イルカは何だとか言って、かわされてしまうはずだ。

 私は諦めて、雨が降り出す前に海岸を離れた。もちろん、ナナシをその場に残して。

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