贖罪(神様の十八番)

 ねえ、『マリア様』って知ってる?

 ああ違うの。キリスト教の聖母マリア様のことじゃなくて。もしかしたら、名前の由来はそこからかもしれないけどね。だって廃墟になった教会が『マリア様』の居場所だから。

 都市伝説みたいなもので、私も初めて聞いたときはあんまりぴんとはこなかったよ。町外れの廃墟になってる元教会の懺悔室で、自殺したいんだって言えば自分を殺しに来てくれる人なんて。そんな小学校の頃に流行った学校の怪談みたいなの。面白がって隣のクラスの男子が肝試しに行ったらしいとか聞いたけど、別に何もなかったとも聞いたし。それに何より、私はあんまりそういうの興味なくて。コンビニの期間限定スイーツとか、友達と遊ぶ予定を立てたりする方が大事だったし。明日も明後日も特別なことなんて何もない、ちょっとつまんないけどまあいいかみたいなノリで毎日を送る普通の女子高校生だったんだよね。

 ただね、それは昨日までの話。昨日、私の愛すべき平和な普通の世界はひっくり返っちゃったんだ。

 昨日家に帰ったら、妹が血まみれになって死んでたから。

 自殺だったんだって。お風呂場で手首切っちゃってさ。もう浴室全体真っ赤なの。その真ん中で、自分の血にまみれて真っ青な顔して倒れてる妹見てね、私ぺたんって座り込んじゃって何もできなかった。後から帰ってきたママが悲鳴を上げて、警察の人がきて、パパが帰ってきて。それからずっとばたばた。

 警察の人が言うにはね、妹の部屋から遺書が出てきたんだって。ずっと学校でいじめられてたって。毎日物隠されたり、意地悪されたり、悪口言われたり、閉じ込められたり、蹴られたり、殴られたり……あとなんだっけ。とにかく酷いこといっぱいされてたんだって。私三年じゃん?一年の教室なんてめったに行かないからそんなの、全然知らなくてさ。死ぬほど辛いなら、教えてくれたら良かったのに。そしたら、私だってなにかできたかもしれないのに。なんで死んでから言うんだろ、馬鹿じゃないの。

 妹とそんなに仲良かったわけじゃないよ。むしろあんまり喋んなかった。暗くてうじうじしててさ、いつも悲しそうな顔してんの。はっきりいうとあんまり一緒にいたくなかったよ。でもさ、妹は悪い子じゃなかったんだ。小さい頃はいつも私の後をついて回ってさ、ずっと一緒に遊んでたし。昔から私と同じで甘いものが好きで、私が買ってきたコンビニスイーツ分けてあげると嬉しそうにしてさ。たまに、買ってきてくれたりなんかもして。私が寝坊しかけたとき、起こしてくれるのもいつも妹だった。

 今日寝坊して、コンビニスイーツも買いそこねてそれを思い出したからさ。私も妹になにかしてあげなきゃいけないと思ったんだよね。でね、『マリア様』なんだけど。『マリア様』ってさ、自殺を手伝ってくれる他にもあるんだって知ってた?自殺する予定なら、その前に殺人を手伝ってくれるんだって。私はちらっとそんな話も聞いてたからさ、だからね。


「今、君がこんなふうになっちゃってるんだよねー。どうかな? 死ぬ前って怖い? 私の妹殺しておいてよく命乞いなんかできたよね。恥知らず、って君のための言葉だと思うな」

 目の前に転がる女の子の腹を勢いよく蹴り飛ばす。制服の、ワイシャツの間から見える、真っ白で柔らかそうなお腹。それを踏みつけて、ぐりとつま先で抉ってみる。うるさくて潰しちゃった喉から、悲鳴になるはずだった息が漏れた。

 遺書を読むまで名前も知らなかった子だ。どっちかって言うと妹より私に雰囲気が似てるような女の子で、普通に話してたら仲良くなれたかもしれない。折って短くしたスカートから伸びる長い、すらっとした綺麗な足。大きな瞳を強調する華やかなアイメイク。染めてるのか、ちょっと明るい茶色の髪も似合っててすごく可愛いかった。まあ、今はその何もかもがぐちゃぐちゃのどろどろなんだけど。踏みつけながら、その性根にふさわしい姿になったんじゃないかなってぼんやりと思う。

 なんで妹を殺したのか聞きにお昼過ぎに一年の教室まで行ったら、この子は妹の死を馬鹿にして友達と嘲笑っていたんだ。反省でもして、妹のために泣いてくれてたらなんて、どうして思ってたんだろう。そんな人間だったなら、妹を殺すはずなんてなかったのに。目の前の光景に、耳障りな笑い声に。私の中身が全部真っ赤に燃え上がって。気が付けば私は学校を飛び出して、この元教会である廃墟にきていた。ふらつく足で腐った床板を踏み抜きながら、小さな懺悔室へと転がり込んだのだ。

 誰もいない、ひび割れた曇ガラスの向こうに、私は叩きつけるように叫んだ。妹を殺しておきながら笑う女の子を、私は殺さねばならなかった。あんな醜悪をこの世に残しておくわけにはいけない。このままであれば、いじめなど無いと言いはった大人達に守られて彼女はつまらなくも平穏な日々を送り、コンビニスイーツを笑って食べるのだ。妹が嬉しそうに食べるはずだったそれを、なんの感慨もなく、当然のように。そんなのは許されない、許されていいはずがない。妹が感じた苦痛の何倍もの痛みを与えて罰さねばならない。裁かれない罪を私が罰さねばならない。だって、私はあの子のお姉ちゃんなんだから。

 こんな命、そのためならいくらでも投げ捨ててやる。

 そう最後に叫んで、しばらくたって。それでもなんの反応もなかったガラスの向こう側に泣き出しそうになりながら、私は馬鹿みたいだと懺悔室を出る。けれどそんな私を迎えたのは縛られ、猿轡を噛まされて床に転がるさっきまで嘲笑っていたあの女の子と、その脇に置かれた銀色の果物ナイフだった。

 ──ああ、『マリア様』は本当にいたのだ。

 一瞬の驚愕のあとに感じたのは、震えるほどの歓喜で。その後にある死さえ、私は怖くなかった。

「ねえ、痛いの嫌いだったらさ。どうして平気で私の妹を傷つけられたの。どれほど嫌なことか、知ってたくせに」

 頬を切って、掌を貫いて、腹を蹴り飛ばして、腕を踏みつけて、足を刺して。淡々と行っていく暴力は、ただの行為と成り果てていた。泣いて許しを請おうとする眼を潰すと、ひときわ大きく体が跳ねて声にならなかった空気の塊が吐き出された。

 妹は、もっと苦しかったんだろうな。長い間ずっと、一人で精神的にも追い詰められて。注射だって嫌いだったくらいなのに、あんなに腕をめちゃくちゃに切って死んで。そのほうがマシなくらいに、妹は苦しくて辛かったんだ。その片鱗を、私はこの女の子に教えてあげなきゃいけない。

 切って、裂いて、千切って、抉って、殴って、蹴って、刺して、折って、潰して、踏みにじって。できるだけ多くの痛みを刻みつけるために。自分の罪を理解できるように。そうして、どれくらいの時間が経ったのだろう。明るかったはずの破れかけた窓の外が、いつの間にか真っ暗な闇で閉ざされていて。手元が見えにくくなったな、なんて思いながらなんとなく触れた彼女の首筋。そこがやけに冷たくて。私はようやくそこで、彼女がとうに息絶えていることに気がついたのだった。

「おわっ……たんだ……」

 呟いたら、全身の力が抜けた。どっときた疲労と、虚無感がすごくて私はその場にぺたんって座り込む。からんって音がして、手からナイフが零れ落ちた。のろのろと手を持ち上げてみれば、その手は真っ赤に染まっていて。きっと、体中も返り血で汚れてるんだろう。汚いなあ。

 ぼんやりとそのまま呆けていると、ふわりと風が吹く。穴の空いた窓からだろうか。そう思ってゆっくりと振り返ると、そこには月の光に照らされた小学生くらいの子供が立っていた。

「ねえ、子羊。迎えに来てあげたよ」

 そう言って、細められたアメジストの瞳が煌く。柔らかな笑みに滲むのは、慈愛。見つめられただけなのに、それだけでこの場を支配されたような気がした。ずっと年下の子なのに、その人ならざるような雰囲気に圧倒される。

「あ、なたは……」

 本当は、問わなくてもわかっていたけれど。応えるようにそっとこちらへと歩み寄る子供の小さな掌で、銀色の硬質な光が月の光を返す。私が手にしていたナイフと、同じナイフ。それは、『マリア様』がくれたもの。

 私の目の前まできた子供──『マリア様』が、片方の綺麗な白い手で私の頬を優しく包んだ。汚れてしまうのに、躊躇いなんて微塵も見せないで。

「君は、本当に死にたいの? 妹さんが死んでしまうまで、ずっと幸福だったのに。死んでしまってもいいの?」

 歌うように、囁くように。鈴を転がしたみたいな声で、『マリア様』は問う。凪いだ海のような、静かな瞳に私の奥底まで見通される。この子に、きっと嘘は吐けないだろう。

 平穏な日々を想う。退屈で、つまらない暖かな毎日。泣き崩れていたパパとママ。たくさん心配してくれた友達。それらになんの未練もないなんて言えない。だけど。

 血に濡れた自分の両手を、『マリア様』に見せつけるように持ち上げる。足元に転がる肉塊を、真っ赤な妹の最期の姿を想う。お姉ちゃんとして、私は間違いなく成すべきことをした。そのことに、後悔はない。けれど、人殺しになって笑って生きていくことなんてできないのだ。私が殺した、この女の子のように。罪には罰を。それが、一番いい。

 そうして私は一点の曇もない晴れ晴れとした気持ちで、『マリア様』へと笑ってみせた。

「私を、殺して」

 私の答えに、『マリア様』は花が綻ぶように笑って。

「君が、それを望むなら」

 直後、視界の端で銀色の光が閃いたと思った瞬間。私の世界は闇に飲まれた。




「……終わったぞ」

 吐き捨てるように呟きながら、俺は車へと乗り込む。助手席で俺を迎えたマリアはいやに上機嫌だ。腹立たしい。

「ご苦労さまー。ちゃんとお片付けできたの、えらいねせんせー」

 そんなふざけた事を言って、俺の髪をかき混ぜてこようとする手をはたき落とした。あんな、子供二人の死体を片付けることの何が偉いんだ。まだ、夢も未来もあるはずの女の子二人。その凄惨な現場を思い出して、吐き気がする。何度も何度もしている仕事だが、慣れることはない。慣れるような人間には、なりたくない。

「殺さないことだって、できたはずだろ」

 経緯は聞いていた。よくある最低で、胸糞悪い話。姉の殺意が、俺には痛いほどに分かってしまった。けれど、本当にこんな形でしか終わることができなかったのだろうか。他にも何か、方法があったのではないか。どうしても、そんな考えが頭をぐるぐると巡ってしまう。

 けれどそんな俺を嘲笑うように、マリアは笑みを浮かべた。

「何? 自分と重ねちゃった? 大切な人を殺されて、復讐して、無残に死んで。可哀想だと思っちゃった?」

「……ッ!」

 未だに膿んでいる傷口を抉るような言葉にカッと腹の底が焦げて、反射的にその襟首に掴みかかる。けれど掴まれたマリアは、少しも動揺を見せなかった。むしろ近くなった距離で俺の瞳を、紫の瞳で覗き込む。底の見えないアメジストに、覚えるのは恐怖だ。

「死はね、救いでもあるんだよ」

 囁く声は甘く、まるで愛を囁くよう。

「辛くて苦しくて、どうしようもなくて。生きていたくない、生きてなんかいけない。そう思ったとき、全てを手放してしまいたいと、逃げ出したいと思ってしまうのは悪ではないでしょう?」

 そんなの違うと、そう言いたいのに喉からひりついて言葉が出ない。掴みかかっているのはこちらなのに、俺はマリアに完全に気圧されていた。

「そういう子を、僕は許してあげてるの。楽になっていいんだよって」

 それは、酷く甘美な誘惑だった。だって、それはずっと俺が欲しかったものだから。

 過去の自分がフラッシュバックする。鉄の車両の下から溢れる赤、君の悪い不死の少年、高慢な少女へ振るった暴力、罪を焼く炎、そして煌くアメジストの瞳。俺は、あそこで死ぬはずだったのに。

 すっと、細い両腕が伸ばされて動けない俺の後頭部へと周り、緩く引き寄せられた。抱きしめるようにして、マリアは俺の耳元で囁く。

「でもね、せんせーにはそれはあげない。楽になんてしてあげない。せんせーはずぅっと僕の奴隷として生きててね。それがせんせーの罰なんだから」

 マリアの声は、甘く優しく。どこまでも残酷だった。

 それは、まるで死のように。

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長編小話 鈴音 @kamaboko_rinne

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