第十話

 三角公園に着いた。

 文字通り三角形の狭い公園だが、薄汚れ、ゴミが散らばり、荒涼たる風景である。公園の隅々で怪しげな男たちがたむろし、うごめいている。博打をしているのだ。

 日野が説明した。

「この三角公園は西成の犯罪の巣です。ノミ屋、博打、強盗、あいりん共闘のアジ演説釜ヶ崎祭りの会場など、いわば釜ヶ崎の犯罪の温床です」

 恭子は、さすがに周囲の陰鬱な雰囲気に気圧されて、日野と広岡の影に隠れていたが、二人の間から顔を覗かせては鋭い質問を投げかけてきた。

「釜ヶ崎というと、みんな怖いという印象を持っていますけれど、実際はどうなんです」

 広岡が口をはさんだ。

「あなたが感じているほど、危険な場所ではないかもしれないな。でも、よそ者には怖いかもしれない。なあに、警備課がしっかり制圧しているから、大丈夫ですよ」

 広岡はちゃっかり、警備課の宣伝をしている。

 日野が言った。

「次の場所へ行きましょうか」

「次はどこなんです」

「しょんべんガードです」

「え? 妙な名前ね」

「署のすぐ裏です」

 恭子は少し慣れてきたのか、周囲をきょろきょろと眺めている。


 しょんべんガードは、南海阪堺線下の何の変哲もないガードである。ガードの上に桁下一・五二と書かれている。

「ここを潜り、東へ出ると新紀州街道で、もう釜ヶ崎ではありません。西が釜ヶ崎です。違いは、しょんべんの臭いです。西側の釜ヶ崎側は、住民がガードにしょんべんをするので臭い。それで、しょんべんガードって呼ばれているんです」

 それを聞いて、恭子はくすくすと笑った。日野も笑うと、

「我々も、近頃はこのガードをくぐり、しょんべんの臭いを嗅ぐと、やれやれ、釜ヶ崎に戻って来たなと、安心したような気分になるんです」

 恭子は笑いを納め、日野の話を真剣になって聞き始めた。


「安心した気分ですか。日野さんも?」

「ええ、そうです」


 恭子の釜ヶ崎視察は一時間ほどで終わった。


「有難うございました。今日は本当に充実した一日でした」

 やや興奮ぎみに恭子は何度も、日野と広岡に礼を言った。きびきびとした物言いが、小気味が良かった。乗り込んでいった赤のアウディの窓からまた淡いコロンの香りが流れてきた。

 日野は少し眩しそうに、去っていった車の後ろ姿を目で追うのだった。


* *


その週の土曜日の朝、稲田恭子から日野に電話がかかった。

「先日は有難うございました」

「参考になりましたか」

「とても……これから書く私の脚本に、きっと釜ヶ崎の臨場感が出ていると思いますわ」

「それは、良かった」

 日野はほっとした。無駄足だったと、思われてはたまらない。

「ところで、日野さん、今日ってお時間あります?」

「え……と、昼からはフリーですけど」

「良かった。じゃ、午後四時頃、お迎えにあがっていいですか。先日のお礼がしたいんです。夕食でもご馳走させてください」


 恭子は午後四時に新今宮の駅前で車で待っている。と言って電話を切った。新今宮駅は、署から歩いて十分くらいのところにあった。行ってみると、見覚えのある赤いアウディが止まっている。

 日野を見て、恭子が運転席から手を振った。

 先日のジーンズ姿とは一変して、今日は黒に白の小花の模様をあしらった大人っぽいワンピースを着ていた。髪は自然なストレートなままで、胸元に銀のネックレスをつけている。日野は恭子のドレッシーな姿に目を見張った。そして、自分のどぶ鼠色の粗末な背広を恥ずかしく思った。


 恭子と日野を乗せたアウディは、浪速区を通り、御堂筋に入った。

「どこへ行くんですか」

 日野は、遠慮がちに恭子に聞いた。

「ロイヤルよ。あそこに有名なフランス料理店が入ってるの。私のおススメの料理を日野さんにも、ぜひ、食べていただきたいと思って」


(ロイヤルホテルのフランス料理店とは、また豪華な)


 日野は少し戸惑ったが、まぁいいかと思った。たまには美女と高級ホテルで食事っていうのも悪くないなと。


*  *


 ロイヤルホテルのロビーは、混雑していた。豪華なシャンデリアの下で、着飾った男女がさんざめいている。隅にはグランドピアノが置かれ、タキシード姿のピアノ弾きが優雅な曲を奏でていた。

 釜ヶ崎から抜け出してきた日野にとって、そこは居心地が良い空間とは言えなかった。

 恭子がお薦めのフランス料理店は、二十八階にあった。窓越しの眼下に、夕闇の堂島川が見えている。街灯の灯りが川面にきらきらと映し出され、それが美しかった。

 釜ヶ崎にもロイヤルと同じ名のホテルがあるが、ここと比べたら、月とスッポンだ。

 恭子はこのホテルの常連なのか、てきぱきと料理を注文し、食事をしながら、気さくに日野に話かけてきた。


「日野さん、”はみだし警部シリーズ”ってご存知?」

「刑事ドラマは滅多に見ないけど、見たことはありますよ」

「どお、感想を聞かせて欲しいわ」

「君には悪いけど、つまらん番組ですね」


 日野はずばりと言ったが、恭子は気を悪くした様子もなく、


「どこがつまらないの? 遠慮なく言って」

「ドタバタ事件を追うだけで、刑事の心情に深く踏み込んだ厚みがない」

「成程、そんな見方もあるのね。でも、私にも言い分があるの。予算が決められているし、セットの中での脚本という制約もあるの」

 日野には専門的なことは分からなかった。恭子が言った。

「私、先日、釜ヶ崎を見学した時の日野さんの説明がすごく上手で、もっとお話しを聞きたいと思ったの。もし、良かったら日野さんが気づいた釜ヶ崎の魅力をもっと、教えてくれませんか」

 そうこうしているうちに、デザートが運ばれてきた。恭子がいたずらっ子のように日野に囁いた。

「広岡さんって、面白い人ね。私に電話番号、教えろってしつこいの。昨日も電話をかけてきたわ。一度、デートしないかって」


(あの上級職め、仕事を何と思ってやがるんだ)


 日野は、かすかな憤りを胸に抱いた。別に広岡と恭子がデートしたって、俺には関係ないが。と思いながらも。



 






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