第九話
日野はコーナーでの仕事に慣れてきた。
西野室長のおかげか、剣道で優勝したためか、署長の嫌がらせは少なくなった。防犯コーナーは、西成署独特の係である。防犯の業務の他、労務者たちの心の荒れを和らげ、騒動の火種を消してゆく仕事がある。警備が力による制圧なら、防犯コーナーは民生の
広岡は日野の痛めつけにもめげず、しゃらしゃらとコーナーの部屋に出入りする。
九月下旬のある日、日野に電話がかかった。T高校時代の剣道部の先輩、市村からであった。彼は京都の大学を出て、大阪の商社に勤めていた。
「元気かい。ちょっと頼みがあるんだけど」
「やあ、お久しぶりです。何ですか、突然に」
女房の大学の級友で、稲田恭子という女がいるんだが、なにわ放送専属のシナリオライターで刑事ドラマの脚本なんかを書いている」
「それで、俺に用とは」
「その女が、釜ヶ崎を見たいっていうんだ。西成の警官か誰か、知り合いはいないかって頼まれたんだ」
「そこで俺を思い出したってわけですか」
「そう。えらいご執心なんだ。釜ヶ崎に」
「危ないですよ。女の来る所じゃない」
「そこを何とか頼むよ」
「仕方がないな……先輩には世話になったし。明日は昼から暇だから、二時ごろ来てくれるなら。受付で、コーナーの日野と言えば分かりますから」
「ありがとう、恩に着る。彼女、美人だぞ。惚れるなよ、は、は、は」
市村は含み笑いし、電話を切った。
* *
昼から報告書を書き上げ、日野はほっと一息ついた。ふと、市村が言っていた女、釜ヶ崎を見てみたいなんて……どんな女かなと、思った。
コーナーの部屋には広岡が遊びに来ていた。見聞でも広めてるんだろう。この男は食えぬ奴だ。俺にも、悪びれず愛想を振ってくる。室長は話相手になっていたが、日野はできるだけ広岡を避けた。
部屋の戸が開いて、受付が入ってきた。
「日野主任、女のお客さんです。ここに通してよろしいか。綺麗な人でっせ」
「あぁ、通してくれ」
女が入ってきた。殺風景な部屋が、一瞬、華やかに色づいた。皆の視線が女に集った。広岡が椅子から中腰になった。
ジーンズの上下に、すらりとした肢体。長い髪を銀色のパレッタで一つに束ね、細面で目がきらきらと輝いている。
「こんにちは」
そう言って、女は日野に名刺を差し出してきた。
「稲田恭子です」
いずれを見渡しても、部屋の中は薄汚れた服装のいかつい男ばかりである。西成署の内勤は、署に出所する時は普通のスーツ姿だが、署につくと、釜ヶ崎の労働者と同じ、薄汚れた服装に着替える。およそ警官らしからぬ、荒くれ男の集団に、恭子はかなり驚いた顔をしている。
日野はそら見たことかと、少しぶっきらぼうな声で
「それで、釜ヶ崎のどんなところが見たいんですか」
けれども、恭子は瞳を輝かせて言った。
「今度、書き下ろす刑事ドラマの舞台になるような、これが釜ヶ崎っていうことろを見たいんです」
「……分かりました。あなたの期待に
「お世話をかけます。あの……それで、私、車を署の玄関脇に止めたままなんですが、いいのかしら」
「そりゃいかん、車はすぐ、傷つけられますから、裏庭に回しましょう」
日野は恭子を促して玄関に出た。恭子の前を通る時、甘いコロンの香りがふわりと流れてきた。日野の心がかすかに時めいた。
驚いたことに、広岡もついて来る。一部始終を聞き、彼自身の好奇心がうごめいたらしい。
「厚かましい奴だ」
日野は眉をひそめた。
玄関に出ると、真っ赤なスポーツカーが派手に居座っている。
広岡が驚いた声を出した。
「アウディA3だ。いい車だが、ここは危ない」
日野は広岡を無視し、
「キーを貸して下さい。俺が裏庭に回します」
と言って、恭子からキーを受け取り、車に乗り込んだ。
部屋へ戻ると、恭子が室長を交え、広岡と親しげに話していた。日野は少し不快感を覚えたが、強いて平静を装って言った。
「じゃ、行きましょうか。まず三角公園かな。釜ヶ崎らしいとこと言えば」
すると、広岡から声がかかった。
「あそこは、西成でも一番危険なところだ。僕も護衛について行ってあげよう。いいでしょう、室長」
「いいだろう。万一ということもある。日野くん、そうしてもらいたまえ」
(広岡は余分だ)
日野はそう思ったが、室長の好意なので断るわけにもゆかず、申し出を受けることにした。
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