第八話
九月十八日、大阪府警所轄対抗剣道大会が中央体育館で行われた。
試合のルールは、署員数に応じ、一組から四組に分けられる。西成署は一組、二十五人のメンバーで大将は日野である。
この日は、日ごろ存在感の薄い日野にとって最も輝く日だった。体育館の各署の応援の大歓声で割れんばかりに沸き立った。
一組は予想通り、曽根崎署と西成署の対決になった。経過は一進一退で、勝負は大将戦に持ち込まれた。
曽根崎の大将、浦田六段は、かつて、機動隊の特錬で一緒に稽古した相手である。実力は日野と互角だが、強敵である。
日野はこの勝負をどうしても勝ちたかった。自分の力で西成を優勝させたかった。署長に対する意地もあった。
大阪府警所轄ナンバーワンを決める。曽根崎署 対 西成署、大将戦の幕が切って落とされた。
「勝負三本」
審判は三人制である。
両者はさっと、左右に分かれた。どよめきが一段と高まった。浦田は一メートル八十の大男である。浦田はすばやく、竹刀を左上段にとった。巨大な体躯に高々と竹刀をかかげ、仁王のように日野の前に立ちはだかる。日野は俊敏に動いた。右半身に構え、右に右に回る。上段対策はまず、相手の描く輪の中から脱することである。そして、相手の死角から左͡小手を狙うのだ。
小手は、日野の得意の技である。
日野は、くるくると右に独楽鼠のように動いた。
浦田の左小手がちらりと見えた。日野は猛然と床を蹴った。
「小手……」
だが、ずしんと浦田の豪快な
「面だ」
自信に満ちた浦田の声。
「面あり」
審判の白旗が二本、さっと上がった。赤旗は一本、浦田の勝ちである。
どっと、曽根崎署応援席の歓声が上がった。「あと、一本だ」
日野は焦った。懐の深い浦田に、どうしても小手が届かない。このままでは、また面をやられる。試合時間の五分は、すでに四分を過ぎようとしていた。
あと、一分だ。
「くそ、浦田、俺は絶対負けられん。敗けてたまるか」
日野は浦田を睨み、大胆にも浦田の真正面に飛び込んだ。同時に矢のような突きが、相手の喉元を襲った。その刹那、日野の打突が浦田の左小手を痛烈に叩いた。
「小手だ」
日野は渾身の力をこめて叫んだ。
赤旗が三本上がった。日野の勝ちである。
試合は振出しに戻った。「一本、一本」の応援の声。
だが、「始め」の審判の重々しい声に、観客は静まりかえり、勝負の決着を見届けようと固唾を飲んだ。
剣突がカチカチと鳴る。浦田が一歩出れば、日野が一歩引いた。日野が出れば、浦田は下がり間合いを慎重に測った。
重苦しい戦いが続いた。
日野は焦った。何とかこの局面を打開しなければ……勝つのだ。とにかく勝つのだ。
その時、場内の一角から奇妙なチャルメラの音が聞こえてきた。夜鳴きそばが吹かすあのラッパの音である。続いて、間延びしたダミ声が響いた。
「日野、頑張れ」
おぉ、頑鉄だ……。日野と対面する三階北の観客席に、頑鉄と釜労働者数人が陣取り、チャルメラを鳴らし、旗を盛んに振っている。
(頑鉄よ、ありがとう)
日野は心の中で叫んだ。体から力が抜け身軽になった。
いくぞ……。
日野は、左右に小刻みに動き、突如行動を起こした。すばやくスピードのある内小手を打ち、身を仰け反らせた浦田の上に、竹刀を振りかぶり、大上段から面を思い切り叩いた。
「面だ」
日野は叫んだ。赤旗が三本上がった。日野は勝った。
西成署は大将戦で一組の優勝を制したのだった。
ぐわんと、うなる大歓声の中で、日野は、三階上段で狂ったように旗を振る頑鉄を見た。
* *
翌日、西成署はトラック一台を借り上げた。トラックの上には、稽古着姿の剣道優勝選手全員が乗り込んだ。日野も選手の真ん中に乗った。トラックはあいりん地区を流し始めた。西成署恒例の優勝パレードである。
その狙いは、あいりん労働者に対する示威でもあった。お前たちの住む、あいりん地区を守る警察は、こんなに強いんだぞ、騒動を起こしてもすぐ、鎮圧されるぞ。
ある意味、それは、労働者に脅しをかける戦術でもあったのだ。
若い選手がトラックの上から優勝旗を振った。すると、道路にたむろしている労働者が、一斉に拍手をした。日頃、警察を目の敵にし、憎しみを顕にするアンコたちが、惜しみなく選手を祝福するのである。(*アンコ:労働者のこと。普段はじっとしており、目の前にエサ(仕事)が現れると飛びつくことから、魚の
その心中は実に単純で、『どうだ、わしらの西成署は、こんなに強いんだ』という、素朴な誇りと喜びであった。
トラックが三角公園に差し掛かった。すると、公園の中から、旗を持った頑鉄と数人の労働者が走ってきた。
「西成優勝万歳」と叫びながら、走ってトラックを追ってくる。日野は大きく手を振って、頑鉄の声援に応えた。
数日後、西成署剣道場で、優勝祝賀会が開かれた。幹部と選手全員が出席し、口々に日野の活躍を讃えた。しかし、署長は祝勝会が終わるまで姿を見せなかった。
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