第七話
今夜は、日野が防犯コーナーに配属されて、初めての宿直だ。相棒は、西成勤務五年の佐藤刑事である。
「主任、気をつけて下さいよ。この署、何が起こるか分かりませんから。そら来た……」
汗と垢で赤黒く汚れた年配の労務者が、玄関を開けてふらふらと入ってくる。目の焦点が定まらず虚ろだ。
「電波だ……主任、気をつけて。そら、飛び込んでくるぞ」
佐藤が構える。
労務者は、いきなり手を八の字に広げ、ダイビングするように、カウンター越しに飛び込んできた。
佐藤ががっしりと受け止めて押し戻す。労務者は、カウンターの下にへなへなと倒れたが、すぐ立ち上がり、ぶつぶつ言いながら出てゆく。あっけに取られる日野に、佐藤が、
「あれが電波です。アル中で、脳に電波が飛び交ってるみたいでしょ。所かまわず、飛び込んできて、冬など火があると危なくて」
「成程……」
日野は苦笑いする。
また、労務者が入ってきた。今度は前よりましな身なりだ。
「今晩は」
にこにこと人懐こい。
佐藤がつっけんどんに、
「なんや
「この先生に用があるんや。先生、先日はおおきに」
「えっ、誰だったか」
日野は首を傾げた。
「ほら、荻ノ茶屋派出所で」
「あぁ、思い出した。あの時の」
「それで、何しにきたんや」
佐藤がうるさそうに頑鉄に聞いた。
「この先生に、金を借りようと思ってな」
「なにぃー」
「この先生、いい人やから。なぁ、先生頼むわ、千円貸してーな。月末に返すさかい」
頑鉄は、目をくるくるさせながら、日野に向かって手を合わせる仕草をした。
「あかん、あかん。新しい人が来ると、お前はすぐ、それや」
頑鉄は口を尖らせて逆らう。
「あんたに言うとるんとちゃう。この先生に頼んどるんじゃ。先生、防犯コーナーやろ。わいら、弱い者の味方やろ」
日野は苦い顔をしたが、頑鉄の人懐こさにつられて、ついポケットに手を入れてしまった。たしか、昼飯を買った時の釣りの千円を入れっぱなしにしていたなと。
「主任、やめときなはれ。返ってきませんぜ」
頑鉄は、伸びあがって日野の手から千円を受け取り、
「やっぱり、あんたは、いい人や。競馬ですってもうたんや。これで、みんなと一杯やれる。ありがとさん」
頑鉄は頭をぺこりと下げ、帰りかけたが、くるりと振り返り、
「先生、剣道強いんやてな。西成は今度めっぽう強いのが来たんで、優勝するて、みな言うとるぜ。がんばってや。金は返すからな。ちょっと、ひまはかかるけど」
何となく憎めぬ男である。
「ドヤはあるんかい」(ドヤ:宿のこと)
佐藤刑事が茶々をいれる。頑鉄は忌々しそうに、
「五百円で、二畳の棚、取ったが、あんなとこ居ると息がつまるわ」
と、言い放つ。まだ、しゃべり足りないのか、
「先生、わいは役に立つで。シャブ、博打、密入国、何でもござれや。捜査で困ったら、わいに言いや。協力さしてもらうで。わい、先生が好きなんや」
言うだけ言うと、頑鉄は帰っていった。
佐藤が日野に言った。
「あいつ、堺で下町の職人でしたんやが、競馬、競輪ですってんてんになり、釜ヶ崎では、あな男を『ケタオチ』って言うんですわ」
「ケタオチ」か。
日野は、俺も警察の『ケタオチ』かも知れんと、ぼそりと呟くのだった。
* *
頑鉄が去って、三十分ほどたった。夜は十時を過ぎようとしていた。玄関の戸が少し下し開かれ、着物姿の女がおずおずと入ってきた。手に風呂敷包みを抱えている。
女は三十五・六の垢ぬけた美人である。西成界隈の住民には見えない。
「あのぉ……」
殺伐とした警察署の雰囲気に気押されたのか、女はおどおどしている。
佐藤が日野の肘をつつき囁いた。
「まさ子姫じゃないですか。人気落語家の奥さんの」
よく見ると、成程、テレビでよく見る円遊亭東楽の女房 ”まさ子姫”にそっくりだった。
佐藤が戸惑っている女に助け船を出した。柄になく優しい口調である。
「何かご用ですか」
女は佐藤の声に少し緊張がほぐれたのか、
「義父がこちらの署に保護されていると連絡がありましたので、引き取りに参りました」
佐藤は早速、保護室に連絡を取った。該当の老人はいた。すぐ、受付に連れて行くと保護室から返事があった。
保護されていたのは、円遊亭東楽の実父で、昔は名の売れた芸人だった。まさ子姫が、話してくれたところによると、実父は戦前から西成の芸人たちの町(てんのうじ村)に住んでいて、今では何不自由のない身分なのだが、八十歳を過ぎた頃から、ぼけだしてしまって、昔が懐かしいのか、西成界隈を度々うろつくのだそうだ。
保護室の巡査に連れられて、角帯姿の小柄な老人が、きょとんとした表情で出て来た。
まさ子姫は、少し疲れたような顔をしながらも、甲斐甲斐しく風呂敷包みから羽織を取り出し、老人に着せた。老人は無表情のままである。
まさ子姫は老人の手を取ると、
「お世話になりました」
と、何度もお辞儀をして署を出て行った。
日野は西成史で読んだ(てんのうじ村)の一節を思い浮かべた。
”西成区の東南の一角に戦災を逃れた下町情緒の漂う、通称(てんのうじ村)と言われたところがある。往時は、上方演芸発祥の地といわれ、多くの芸人がこの地に居住し、角帯姿や三味線の音に踊る影絵が障子に映り、稽古を励む芸人の姿があった”
西成にはさまざまの人々の顔があった。日野は、老芸人の小さく丸めた背中と、その背中に手を添える義理の娘の姿に、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
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