第六話
署長に防犯コーナーへの申告へ行ってから三日後、西野室長が再び日野のところに来た。
「日野君、今日は大丈夫だろう。署長によく言っておいたから、もう一度申告くてくれんか」
そういったものの、西野は自信なさげだった。日野は西野の好意が身に沁みた。黙って西野の指示に従った。
だが、署長の態度は前よりいっそう悪かった。署長は、日野の申告を尻目に新聞を読んでいる。横を向いたままなのだ。
(くそ……)
日野は怒りで煮えくり返り、席を蹴った。西野が追いかけてきた。
「すまん、日野くん、この通りだ」
西野が頭を下げた。
「いや、西野室長が謝ることなんてないですよ」
笑いかけたが、日野の表情は凍っていた。
日野は道場に出た。今日の日野は荒れていた。竹刀が火を吹き相手かまわず、片っ端から打ち据える。その剣幕に恐れをなして、誰も前に出ようとしない。日野は獲物を探した。
(いた……)
道場の隅に、補欠の広岡が身を隠すように座っている。こと、剣道に関する限り、広岡は無能力である。
「広岡、こい。かかり稽古だ」
日野は道場の中央に仁王立ちになり、八双に構えた。かかり稽古とは稽古の総仕上げで、上位が受けて立つのを下位が一方的に仕掛けてゆく。もっとも、きつい稽古である。
広岡は仕方なく、かかってきた。だが、すぐへたばった。足がふらつき、日野の動きについてゆけない。
「どうした……広岡、もうへたばったのか」
日野の心に残酷な激情がこみ上げてきた。
(こやつキャリアで、もうじき、雲の上の人になる。署長まで、ごますりやがって。おのれ、叩き上げの力を見せてやる)
新幹線と各駅停車。悲哀と怒りが日野の心を野獣にした。日野は倒れて立てない広岡を打ち崩した。
「日野さん、もうそれ位に」
心配そうな顔をして、他の部員が止めに入った。日野は竹刀を引っさげ、倒れて起き上がれない広岡を冷たく見下ろした。
「ふん」と鼻で笑ってやる。だが、心には苦い味が広がっていた。
家に帰ると妻が食事の用意をしていた。妻は気立てのいい明るい女だった。日野はぼんやりと妻の姿を眺めていた。苦しさが蘇ってくる。
「どうしたの」
「……俺、警察を辞めてもいいかな」
妻は平静を装って日野を見た。日野が上司に睨まれることは日常茶飯事だった。曲がったことが嫌いな一本気な性格、生意気な物言いが組織の中では浮いてしまう。今度の署長とも上手くいってないことは薄々気づいていた。
「あんたって、つくづく、警察には向かないのかもね」
妻は気を取り直し、微笑んだ。
「元気を出しなさいよ。そんなに嫌なら、大喧嘩して
日野は妻の言葉に心が軽くなった。
「よし、明日、署長の出方次第では、辞表をたたきつけてやる」
けれども、そうはならなかったのだ。
* *
翌朝の朝礼後、西野室長が日野を呼び止めた。防犯コーナーの部屋によってくれという。
西野はにこやかに日野を迎えた。
「署長に言ってやったよ。広岡の申告は受けて、なぜ、日野のは受けれないのかって」
署長はこう言ったらしい。
「広岡は上級職で優秀な男だ。日野は根性が曲がっている。懲らしめてやったんだ」と。
西野は笑い、
「俺は反論しといたよ。西成の署長ともあろう人が、感情で人事をしていいのですか、って。署長は厭な顔をしたが、他の署員の手前もあったんだろう、しぶしぶ、君の防犯コーナー入りを承諾した。もう、署長への申告はいいから、明日から、うちに来てくれ」
日野は西野室長の好意に涙ぐんだ。
「でも、室長、今後室長に迷惑がかかるんじゃないですか」
「は、は、は、俺は万年警部でいい。今更、警視にして貰おうと署長にごまをする気はない。君同様、俺も世渡りは下手だ」
日野は蘇ったような気がした。俺は孤立無援ではなかったのだと。
西野室長は言った。
「日野くん、君の身柄は俺が預かった。安心して防犯コーナーで働いてくれ」
「有難うございます。……実は今日は辞めてやろうと思っていましたが、ご好意に甘えさせていただきます」
「良かった。西成の主役は警備だが、荒れ切った民生を安定させるのは、コーナーの仕事だ。我々は自分の仕事に誇りを持っている。俺は君のような奴が好きだ。しっかり頼むぞ」
「分かりました」
日野は力強く答えた。
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