第五話

 警ら課の部屋に帰ると、日野の武勇伝が署内に伝わっていた。増岡署長のワンマンぶりは有名だった。行動は奇矯で府警三奇人の一人といわれ、好悪が激しい。署内に派閥を作り、自分におべっかするものは猫可愛がりに世話を見るが、自分に盾つく者は、徹底的に苛め抜く。

 加えて、剣道自慢であった。いつも署内対抗の剣道の試合に大将か副将で出たがった。署長が出ると審判は判定に苦労する。署長に恥をかかすわけにはいかない。試合は延長戦になり、多くは引き分けに終わった。

 増岡署長の気質をよく知る警ら課の古参幹部はひそひそと噂話をした。

「あの署長、必ず仕返しするぜ。日野君も大人げない。今に思い知るぞ」

 囁きが日野の耳にも届いた。

 日野はわざと知らぬふりをした。


 広岡が剣道衣姿で帰ってきた。広岡は補欠である。つかつかと日野のところに来ると、馴れ馴れしく日野に声をかけた。

「日野さん、やりましたね。高慢ちきな署長が亀の子のように、ひっくりかえったのは、面白かった。は、は、は」

 広岡は道場の隅で一部始終を見ていたらしい。

「だが、日野さん、あれはまずいよ。剣道自慢の署長の自尊心をずたずたに傷つけた。署長はきっとカンカンだよ。すぐ、署長室に謝りに行った方がいい」

 日野は広岡をきっと睨んだ。

「なんで、俺が謝らんとならんのだ」

「たかが、剣道の稽古じゃないの」

「たかが剣道だと。剣道を冒涜ぼうとくするのか」

「そんなに拘るのは、子供っぽいよ」

「勝負は神聖だ。強い者が勝つのが道理だ。俺は六段、署長は五段。俺が署長に勝つのは当然だ。俺は自分を曲げてまで、署長に媚びたくない。西成の大署長なら、こんなことで腹を立てるのは、度量がなさすぎる」

 広岡は冷笑した。

「日野さん、あんたの信念は立派だが、そんな考えでは、これから先、警察界では出世できませんよ」

 日野は応酬した。

「君は警察ではキャリアかもしれんが、俺の生きざままで、君の指図は受けん」

「分かっちゃいないな。なんなら、僕が署長に口をきいてもいいと思ってたのに……」

 恩にきせた言い方である。

「ご心配、ご無用」

 日野は言い捨てた。

 広岡は呆れたような顔をして、

「日野さん、あの署長、このままでは済ましませんよ。いいんですか」

 日野はもう何も応えなかった。

 しかし、日野の心の中に、傲岸ごうがんな増岡署長の顔が不気味にかすめた。


 また、やらかした。いつもの俺の悪いくせだ。広岡の言うように大人げないかも知れない。しかし、剣は俺の心の支えだ。このプライドを捨ててまで、署長に媚びたくない。


 日野は襲い掛かってくる、署長の執拗な黒い影を無理やりにふり払った。


*  *


 広岡の予言は当たった。

 道場の事件があって、一週間ほどたったある日、日野は警ら課長に呼ばれた。

「明日から君は、防犯コーナーに行ってもらう。明朝、署長へ申告してくれ。広岡君も一緒だ。広岡君は警備課だ」

 温厚な警ら課長は、署長に睨まれている日野が、警らから出てゆくので、ほっとした様子だった。

 広岡は昨日の出来事はけろっと忘れたように、

「日野さん、防犯コーナーだってね。僕は警備だ。さあ、しっかり腰を据えて、あいりん地区を勉強するぞ。将来、このノウハウは警察幹部としての僕の有力な武器になる」

 と、ご機嫌だった。

 日野は手放しに喜ぶ、広岡を見ながら、暗い予感がした。


 翌朝、午前九時半、日野と広岡は署長室の前に集った。

 まず、広岡が署長室に入った。五分とたたず、広岡はにこにこして出て来た。次は日野の番である。

 広々とした署長室の中央に、がしいりとしたマホガニーのテーブルがあり、署長は横向きに座っていた。

 二、三歩さがって、防犯コーナーの室長、西野警部が待立している。

 西野は、以前Ⅾ署防犯課長をしており、日野の元上司である。Ⅾ署時代は日野を可愛がってくれた。

 署長の様子がおかしい。横を向いたまま、日野を見ようともしない。日野は申告を続けたが、途中で言葉がとぎれた。署長は横向きに椅子にふんぞり返り、無表情である。

 かっと、日野の頭に血が上った。


 畜生……、署長の奴、嫌がらせ、しやがって。


 日野は言葉を失って、棒のようにつっ立った。

 西野室長も慌てた。署長と日野の双方を見比べながら、顔面蒼白になり、凍えで

「署長……」

 と、促すが、増岡署長は知らぬ顔である。相変わらず横を向いたままだ。

 西野は慌ただしく、日野の肩を抱きかかえるようにして、署長室の外に連れ出した。

 外に出るなり、西野はほっと一息ついた。

「日野君、今日は署長は、ご機嫌が悪い。今日のところは、黙って引き揚げてくれ。後は必ず俺が善処するから」

 西野の顔面には深い苦悩が漂っていた。日野は、黙って西野の顔を仰ぎ、頭を下げた。無念がこみあげてきた。





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