第四話

 警察署の前で傍若無人の振る舞いを止めない労務者。

 巡査は、その襟首を両手で掴み、ぐらぐらと左右に揺さぶったが、次の瞬間、投げ飛ばした。一本背負いだ。綺麗に決まった。起き上がるところをまた投げる。労務者は完全に伸びている。

 尚も獲物を狙う猟師のように飛び掛る巡査に、日野が分けて入った。

「もう、それ位で勘弁してやれ」

 へばって、泥だらけになった労務者を助け起こし、泥を払ってやる。

 巡査は、不服そうに言った。

「主任さん、私は西成は初めてですが、先輩に言われたんです。初めての派出所に行ったら、必ず、近所の汚れが悪戯わるさをしかけてくる。その時は、徹底的に痛めつけろ。やつらは今度来た派出所の主が、どんな巡査か試しに来るんだ。一度、なめられたら、おしまいだぞ。やる時は徹底的にやれ」

 なるほど、それが西成流かと、日野は思った。労務者の方を振り向くと、もぞもぞと起き上がり、けろっとして、

「うん、今度来たこの派出所の先生は、しっかりしとる」

 と、日野の方を向き、にやにやと笑った。笑うと、目がくるくるとして愛嬌がある。労務者は、人懐っこく日野を見上げ、

「先生、いい人やなぁ。ワシ富井いうんや。人はワシを”かま頑鉄がんてつ”ていうが、覚えといてや、そのうち会いに行くさかい」

 頑鉄は、スタスタと何も無かったように商店街の人ごみに消えた。


頑鉄がんてつか……」

 日野は、何故かこの男のことが気になった。警ら課の部屋に帰ると、広岡も帰っていた。例の調子で、周囲の者に長口舌を振りまいている。

「あいりん地区を巡視して、つくづく思ったこの町の警備の力点は力だ。力がすべてを解決する。それをやれるのは、警備課だ」

 力だけで果たして、釜が崎は平穏に治まるだろうか。日野は疑問に思った。


*  *


 二ヶ月がたった。広岡は署長の推薦状を持ち、警察庁の口述試験を受けた。採用はほぼ確定したようだ。時期は来年三月になるらしい。

 西成署では、秋の各所轄対抗柔剣道大会に向けて練習が始まった。署員五百名を擁する西成署は、曾根崎署と並び、大阪府警の強豪である。管内にあいりん地区を持つ西成署員には、各署から猛者が集まっていた。署長も優勝すれば署の評価が上がるので、練習には力を入れた。


 日野は剣道六段、西成署の大将である。九州大分のT高校剣道部で、国体で優勝し大阪府警にスカウトされた。そして、機動隊の剣道特別練習生に編入された。それは、通称『特練』といい、全国警察官剣道大会の選手要員でもある。

 日野は大学の分科に行きたかったが、父が死亡して諦めた。文学が好きだった。中学三年までは大阪で育ったが、父の死後、母の実家のT市に引き揚げ、T高を卒業した。機動隊で六年を過ごし、その時に剣道六段を取得した。だが、肝臓を患い、選手生活をあきらめ、D署防犯係に転出した。D署では三年勤務し、昭和五十四年、本部の防犯課に引き抜かれた。


 日野は防具をつけ道場に立った。久方ぶりの剣道である。

 部員が挨拶する。日野の剣名は各署に轟いていた。日野は鷹揚おうように頷き上座についた。いい気分である。制服を着た時は巡査部長で下っ端警察官だが、剣道衣をつけると、この署で日野より強い者は誰もいない。胸が脹らむ。竹刀を構え、相手を睥睨へいげいする。

 1メートル76、65キロの小柄な体ながら、稲妻のように打突を繰り返すと、面、胴、小手と面白いように業が決まる。ひっきりなしにやってくる稽古相手は赤子の手を捻るようだ。到底プロ級の日野の敵ではない。

 一服していると、道場の扉を開けて、恰幅のいい五十男が入ってきた。後ろに面を持った男がうやうやしく着いてくる。

「署長だ……」

 道場内の空気が一瞬、引き締まる。

 署長の増岡昌雄は当然と言わんばかりに、日野の上座にどかっと座った。日野は複雑な気持ちで署長を迎えた。


(署長は確か五段、俺の方が上位だ)


 生来の反骨精神がむくむくと首をもたげる。

 お供がかいがいしく署長が面を付けるのを手伝っている。お供は副将の福田だ。庶務の警部補である。

 署長が道場に立つと、今まで日野に稽古をつけてもらおうと列を作っていた部員が署長の前に並び始めた。日野が憮然としていると、署長のお供をしてきた福田が日野の肩を叩いた。

「君も一本、署長に稽古をお願いしたらどうだ……」

日野は、かっとした。


(いかに署長でも、俺は六段。署長は五段だ。何で俺が署長に稽古を願わんとならんのだ……)


 見ていると、みんな要領がいい。動きの悪い署長にわざと打たれ、「参りました」と頭を下げ、引き下がる。

「くそ」

 忌々しいが、日野も「お願いします」と言って、下座に立った。

 竹刀を合わせる。鋭い剣気はない。隙だらけだ。どうせお情けの『名誉五段』だろう。むらむらと怒りが込み上げてきた。


(制服を着れば署長だが、ここは道場だ。ここの主は俺だ)


 日野は、何の緊迫感もない署長の剣突を殺し、突如行動を起こした。腹の底から振り絞る気合とともに、獣のように飛んだ。

「小手、面っ」

 得意の二段打ちだ。

 署長は身を仰け反らせ、日野の打撃を避けようとしたが、避けきれず、後ろにたたらを踏む。そこに日野の怒涛のような体当たりが襲った。たまらず、署長はもんどりうって転倒した。はずみで面が抜けた。

「日野君っ、何をするっ」

 福田が悲鳴のような声をあげて、署長を助け起こした。

 日野はやりすぎたかな、と思いながら、肩ではぁはぁと息をしている署長の前に手をつき、

「失礼しました」と、軽く一礼した。

 署長はそれには応えず、日野を睨みつけ、荒々しく道場から出て行った。





 

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