第三話

 日野は、他の六人とともに、警ら一係に配属された。広岡も一緒である。

昇任者は一応、警ら課に配属されることが慣習のようになっていたからだ。広岡は馴れ馴れしく、日野に話しかけてきた。どこで聞いたのか、日野の名も知っていた。

「日野さんは本部から来たそうですね。僕はⅮ署の警備からだが、間もなく警察庁に行く予定です」

 もう僕のことは聞いているだろうと、言わんばかりの口調である。

「僕、広岡といいます。しばらくの間だと思いますが、どうぞよろしく。まあ、本庁も僕に大阪警備の最重要点、をよく見て勉強しておけという親心でしょう」

 言わずもがなのことを、ぺらぺらとよくしゃべる。

「よろしく」

 日野は、当たらず、さわらず、返事した。転入者には、三日間、管内情勢の説明があった。重点は釜ヶ崎の警備である。

 がっちりした体格の角顔の警備課長が壇上に立った。五十に手は届くまいが、警視である。

「諸君、西成署赴任、おめでとう。釜ヶ崎は、大阪の火薬庫だ。我々は力でそれを制圧しなければならん。ワシは第一次西成騒動の時、ここに来た。釜ヶ崎は凄惨な戦場だった。あれ以来、幾多の先輩たちの血と汗が、この地に流れている。我々はその伝統を守り抜かねばならない。

 西成の最重要事項を三点あげる。


1.  迅速な処理。事件、事故が起こったら、十分以内に事案を処理し、本署に迅速に引き上げよ。

2. 単独行動は絶対にするな。労働者に気を許すな。気を許すと、彼らは狼のように襲い掛かってくる。

3. 石が飛んできても、絶対にそちらに背を向けるな。背を向けると、かさにかかって、投石が集中する。

 

 釜ヶ崎は、いつ爆発するか分からぬ休火山であることを忘れるな。

 以上。諸君の検討を祈る」


 警備部長は、自信にあふれた口調でそう締めくくった。日野は今日、見てきた無気力そうな労務者が本当にキバを向いて、襲い掛かってくるのだろうかと、訝しんだ。


 しばらくすると、署長から広岡に呼び出しがかかった。広岡は署長室から戻ると、日野に自慢げに署長室での話を披露した。

「署長の奴、話があるというから行ってみたら、来月、僕が警察庁に口述試験に行く時、前大阪本部長で今、本庁の総務部長をしているFさんに、僕の推薦状を書いてあげる。と、言うんです。頼みもしないのに、ここの署長さんも僕にごまを摺っているのかな……」

 そう言って、広岡は得意げに笑った。

 日野は憮然として、広岡のおしゃべりを聞いた。広岡の話では、上級職の採用は十五人で、現職からの採用は今年で終わりとのことだった。

 日野はため息をついた。

「二十代の初めに、ただ一度の上級職試験を合格しただけで、半生をエリートとして過ごす男がいる。それに比べて俺は、十五年かかってやっと、巡査部長か……」

日野は、本部に入る時見たキャリアの様子を思い出した。


日野と同じ三十代のキャリア課長は、まるで”若殿”であった。叩き上げのベテランの課長補佐が”家老”として常に付き添っていた。彼らは、若殿の任期二年をいかに傷をつけず、本庁に帰すかに腐心していた。

 巡査から見た場合、こんな若殿が高い視野と見識を持ち、警察運営に携わっているとは到底思えなかった。

 そのくせ、叩き上げのノンキャリアたちは陰で、キャリアのことを

「あいつら、何も知らないくせに、いつも新幹線や。わしら叩き上げは、各駅停車や」

と、批判し、自嘲するのだった。

 広岡も今にそうなる。と、思うと、言い知れぬ反感と羨望が、日野の心を覆った。広岡は、日野の心中など露知らぬげに、相変わらず傍若無人に振舞っていた。


 午前十時。日野は担当の警ら区の巡視に出た。担当区は、萩ノ茶屋方面である。

 巡視とは、担当区にある派出所を回り、巡査の勤怠を監督するとともに、担当区の警察事案の処理に当たることをいう。

 最重点の”あいりん地区”は、西成の北東部に位置し、面積0.六二平方メートルと狭い地域にある。ここに約五百の簡易宿舎、日払いアパートが密集していた。

 その中に、過激派、密入国、シャブ屋、ノミ屋、極道などがごった煮のように巣くっている。日頃は、まとまりのない烏合の衆だが、一度火がつくと、巨大なエネルギーになって騒動を起こす。

 日野は南海本線のガードをくぐり、萩ノ茶屋派出所に立ち寄った。


 派出所の中では、若い巡査が事務整理をしていた。

 日野を見ると立ち上がり、挙手の礼をする。よく見ると、日野と一緒に赴任して来た巡査だった。見るかに筋骨逞しく、柔道でも強そうな巡査だった。

 日野は「ご苦労さん」と言って、勤務表を点検した。

 突然、巡査が「こらっ」と、大声をあげ外に飛び出してゆく。日野があっけに取られて、外を見てみると、古びた帽子をかぶり、よれよれのジャンパーを着た小柄な労働者が、目に入った。

 大股を広げ、一物を取り出し、派出所の正面に向け小便をじゃあじゃあ放出している。年齢は四十くらいであろうか、焼酎焼けした髭面で、煙草をくわえ、悠然と用をたしている。

「こりゃー、何をするか。ここを何処だと心得てるんじゃ」

 労務者は、巡査の警告をどこ吹く風と、小便を止めなかった。






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