雪の妖精

@miyanohra

第1話 雪の妖精

 山腹に黒々と口を開けたトンネルから吐き出された列車は雪に閉ざされた山間の無人駅についた。

 隣接したスキー場は営業を休止して久しいが、クロスカントリースキーでホームに滑り込んでくる様は初見では二度見してしまった。またスノーシューハイクのベースとしてもよく使われている、しかし平日はおおよそ人影はない。木造で多角形の駅の待合室はロッジとさえ呼べるほど可愛らしい。この趣のある待合室は暖房設備はないが風雪をしのげるだけでありがたい。ここで装備を整えて山に入る。

 見上げても午後の太陽は位置も定かでないほどの曇天だった。時折吹き付ける風にのって雪の針が頬へ突き刺さる。下手に晴れて雪目(紫外線による目の炎症)になったり突風に身体が吹き飛ばされたりしない良い天気だ。決して負け惜しみではない。年に一度はこの地に訪れるのは身体の慣らしのつもりである。


 アルミ製の輪カンジキの紐を締め上げる。このときの駆け出しそうな高揚感がたまらない。


 輪カンの歩き方は少し独特で雪に潜った脚を引き上げヒザから外に振りながら踏み出す。いわゆる花魁歩きで歩を進める。真っ直ぐに足を出せば軸足に絡んで簡単に転ぶ。危険な箇所ではまずやらかさないが逆に危険な箇所を抜けた後の平地では気を抜いて転ぶ。

 それより重要なのは汗をかかないことで、歩速の乱れから発汗すると風冷えでたちまち体温を奪われる。一定の歩幅を心がけながら無心に歩けば修験者や荒行の片鱗に触れられそうな気がする。

 急な斜面の登坂は爪先を下げた状態で反動をつけて蹴り込む。爪先が上を向いていれば谷側に滑り落ちるのが道理である。爪先を下げていれば山側に食い込んで足場が確保される。こうして僅か数十センチの高度を稼ぎこれらを延々と目的地まで繰り返す。


 辺り一面の視界には白か黒で色彩がない。空はたいてい灰色。地には雪の白か、針葉樹の葉や落葉樹の木肌も低い太陽光では黒にしか見えない。寂しい限りの光景だが振り返れば自分の歩いた足跡がぼんやりと青く淡く光を返してくれる。神秘的な色合いに細やかな満足を覚える。


 この足跡もいずれは雪に埋もれるが周囲に比べて僅かに窪む。この窪みが夏の登山道になっている。たいていは立木や枝にピンクのテープが巻き付けてあり、道しるべとなっている。登山道には人間以外にもカモシカやウサギも足跡を残す。野生動物は気まぐれに登山道から外れたりもする。等高線に沿って楽な道を選ぶのでうっかりすると道に迷いそうになる。もっとも彼らのトレールをあえて追随したり、我が道を行くのもスノーハイクの醍醐味でもある。


 道に迷えばスマホのGPSは山間でも受信する有用なツールである。しかし低い気温ではバッテリーから電源を供給しながらでないと役にたたない。多用して電池の傷みによる不具合を電話会社の代理店で頼む手間を考えると昔ながらの紙の地形図で現在地を照合した方がましかもしれない。


 日没でも夕焼けは望むべくなかった。雪灯りで明暗の境界がひどく曖昧で夜のとばりはゆっくりと訪れる。元よりテント泊の予定で出発時刻も昼を過ぎていた。決して朝に起きられなかったわけではない。

 ちょっと広いところを野営地と決める。水場は周りの雪を使う。組み立て式のスコップで表層の軟らかい雪で風避けに壁をつくり雪面をならす。テントを組み立て一日を終える。

前述で偉そうに記したのは数々の失敗談に他ならない。これらの問題に直面し解決法を探るのが実に楽しい。また自然の猛威に触れれば生存本能が頭をもたげ、生きている感動が味わえる。


 失敗談とは異なるが最も驚いた話を披露したい。


 幕営での楽しみに夕食がある。マッシュポテトは平地の気圧のままでパンパンに膨らんでいた。かじかんで上手く動かない手で爆発しないようにシェラカップに静かに入れる。ベーコンはビニールごと刻んでから取り出す。チーズは開け口を無視して真っ二つに割ってアルミ箔を剥がす。天然のフリーズドライになったパセリは袋ごと揉むと粉微塵になる。カレー味のカップ麺の残り汁をかけて完成させるつもりだった。

 湯を沸かそうとしてリュックのポケットからペットボトルを取り出した。容器内の気圧もパンパンで自宅で汲んだ水道水が八分目ほど入っている。例年の気温では氷ついていてもおかしくはなかった。今日の気温は高かったのかといぶかしみつつキャップを開けた。「プシュッ」と空気の抜ける音がした。


 コッヘルに水を注ぐと「うわぁ」と驚きの声が出た。


 コッヘルからペットボトルめがけて氷筍が生えてきた。注ぐそばから水が氷ついたのである。底に溜まった水もトロリとして動きが鈍い。雪女などのオカルトめいた妄想が脳裏を過った。


 落ちついてアルコールストーブに火を入れる。ほとんど見えない青い炎は陽炎ばかりが目について不気味だった。だが狭いテントはすぐに暖まった。


 よく考えればただの過冷却現象である。低地での大気圧が高地に移動して相対的に加圧されて凝固温度が低下し容器内の水道水が液体を維持していたが開栓され圧力の低下と同時に容器を移し変えたさいの衝撃で急激に固体化したに過ぎなかった。


 歳を重ねてモノに動じなくなったと思っていたが声を出すほどの驚きがまだあったと恥ずかしさとともに嬉しさがあった。妖精のイタズラの正体などを考察するのもまた一興と思う。善悪を越えた現象として妖精の存在を推したい。


 以上が面白山で明かした一夜である。

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