ものすごく家庭的なドラゴンと暮らすことになりました。
桜木良輔
プロローグ
家事ができないというのは実に不便なことだ。これは一人暮らしを始めた大学生のときから現在までの約六年間、俺、
まず料理。これができないと毎日がコンビニの弁当に彩られてしまう。美味ければいいという問題ではない。サラダも買えばいいという栄養面の問題でもない。みすぼらしく、また空しいのだ。特に、食べ終えた直後が。毎晩まったく同じ見た目のプラスチック容器を水ですすぐ生活を送っていると、そろそろ違う容器を見たいな、などといった思考がちらと脳裏を掠めては渦巻くのだ。今ではゴミ袋の八割が燃えないゴミに占められている有り様である。
次に洗濯。これについてはまったくできないというわけではないが、いかんせん手際が悪く、一人分の洗濯物を処理するのに一時間はかかってしまう。俺はニートなどではなく、ちゃんと一般企業に勤めているいち社会人だ。洗濯物ごときに一時間も持っていかれるようでは仕事にも支障が出かねない。せめて三十分程度で済ませ、できる限りさっさと寝てしまえるのが理想的だ。
そして最後。これが一番厄介なのだが、俺は掃除が大の苦手だった。せっかく部屋中を片付けても三日後には同じような惨状が繰り広げられているというのはもはや日常で、いっそ才能なのではと最近になって疑い始めている。
とまあこんな具合で、俺は現在、ものすごく不自由な生活を送っていた。お手伝いさんを雇えるような経済力は俺にはないから、家事のできる女性と結婚すること以外にこの生活を脱するすべは俺にはないが、残念ながら生まれてこの方告白したこともされたこともない俺には望み薄だ。
「突然のことですまんが、この“ドラゴン”をもらってやってはくれんか」
それは、あまりにも唐突で、またあまりにも突飛な頼み事だった。ドラゴンというのは、あのドラゴンのことだろうか。RPGなどでよく見かける、炎を吐いたり空を飛んだりするあのドラゴン? あれはあくまで空想上の生き物で、おとぎ話の名悪役に過ぎないはずだ。それが今目の前にいると、この齢九十はいっていそうな老人は言っているのだろうか。
「その顔、信じておらんな。よかろう、見せてやろうではないか」
そう言って、謎の老人は足元に置いていた小ぶりなバスケットを持ち上げると、掛けられていた毛布をそっと捲りあげた。中を覗き込んだ俺は、そこでもぞもぞと動くイグアナほどの大きさの爬虫類の姿に戦慄した。
サイズこそイグアナほどだが、口もとから覗く牙はワニのそれよりも鋭く、背中からは確かに翼のようなものが伸びていた。咳でもしたのだろうか、たった今口から炎を吐いた。
「どうじゃ、本物じゃろう?」
たしかに本物のドラゴンだ。信じたくはないが、ここまで見せつけられてしまっては認めざるを得ない。──だが、本物かどうかは問題ではなかった。
「いや、たしかに本物っぽいですけど、ドラゴンの育て方なんて知りませんよ」
むしろ知っている人がいるならぜひここに連れてきてもらいたい。そしてこのドラゴンはそいつに押し付けてやろう。
「問題ない。何もせんでも、こいつは勝手に育っていく。それに、こいつは小型竜じゃ。大人の全長はざっと三メートルほど。1Kでも飼えるぞ」
なるほど、そうやって退路をたっていくつもりだな。俺が暮らす“アパート”はちょうど1Kだから、老人の言う条件には一応当てはまる。だが、生憎とその手は俺には通用しない。
「俺、アパート暮らしなんです。ペットは厳禁なんですよ」
「それについても特に問題はない。まあこれについては、明日の朝くらいにならんとわからんことじゃがな」
俺の勝利を確信した反論に対する老人の切り返しは、いささか理解しがたいものだった。犬猫を禁止してドラゴンを許可する奇天烈アパートを借りた覚えはないし、実は他の人間には見えていないというのも考えにくい。どういうことか問いただそうと顔を上げたころには、老人はすでに去っていた。代わりに、置き手紙を見つける。『名前は自由に決めてやってくれ。ちなみにその子は女の子じゃ』という、なんとも無責任な内容に思わずため息がこぼれた。
「まあ、しょうがねぇか。明日考えよう、休みだし」
正直、会社帰りで疲れていたから、早く寝てしまいたかった。バスケットの中にとんでもないものを隠している手前、必要以上に外をうろつくのも控えるべきだろう。いつの間にかぐっすりと眠っていたドラゴンをそっと撫でてから、俺はバスケットを片手に帰路についた。
* * *
鼻腔をくすぐる味噌の香りに目を覚ます。ベッドから起き、台所に目を向けると、そこに広がっていた光景に、俺は自分の目を疑った。
まず、一人暮らしであるはずの俺の部屋に、人が立っていた。それもどうやら、少女のようである。少女を家にあげた覚えはないし、そもそもこの状況は少しマズい。客観的に見れば『独身男性が女子高生を自宅に拉致した』と言われても反論できない。
少女は俺の存在に気付くと、太陽のような笑顔をパッと咲かせてこう言った。
「おはよう京介さん。ごはん、できてるよ」
お前は俺の嫁か何かか。喉元まで出かかった複雑な心境を、俺はどうにか抑え込んだ。いや、抑え込んだというよりは、唖然としすぎて言葉がうまく出てこなかったというほうが適切かもしれない。というかそもそも。
「えっと、誰?」
「わからない? 私だよ、昨日あなたに引き取られたドラゴン」
「わかるわけねぇだろ」
予想の斜め上をいった少女の珍解答に鋭くツッコミを入れる。ドラゴンの存在自体がそもそも規格外だというのに、そのドラゴンが美少女に姿を変え、朝食を作っているのだ。この状況をはいそうですかと納得できる超人はおそらく世界中探しても一人としていまい。
「はあ……まあいいや。とりあえず君、名前は?」
「あなたが付けてくれる予定になってたと思うけど」
少女のその言葉に、俺は老人が残した置き手紙を思い出した。
「あー、そういえばあの爺さんも名前を付けてやってほしいみたいなこと言ってたな……どういう名前がいいんだ?」
「んー、普通の、日本人らしい名前がほしいな。ほら、こういう見た目だし」
日本人らしい名前、か。たしかに彼女の容貌は日本人のそれだし、つけるなら日本人の名前が適切だ。ならば──。
「──
「え?」
「志穂ってのは、どうだ? いやなに、ガキの頃、俺がもし女に生まれてたらどういう名前だったのかってのを聞いたことがあってな。それが志穂って名前らしいんだよ。悪いな、ネーミングセンスとかねぇから、こういうのに頼るしかなかったんだけど」
小学生のときの話だった思う。今でも出題の意図はさっぱりわからないが、担任の教師が自分の名前の由来と、もし違う性別に生まれていたらどういう名前だったのかを聞いてくるよう言われたのだ。まさか今のような状況を当時の担任が見通していたわけではないだろうが、意外なところで役に立った宿題だった。
「……ううん、うれしいよ。えへへ、志穂、志穂かぁ~」
「お、おい、恥ずかしいからあんまり連呼しないでくれよ」
「そうはいっても私の名前だし。京介さんだって、これから私のことは志穂って呼ぶんだよ」
そういう問題ではない。というか、先ほどからずっと気になっていたのだが、このドラゴン──志穂は、いったいなぜ当たり前のように俺の名前を知っているのだ。
「んー、ある程度のことはわかるよ? 名前、年齢、勤め先の上司の名前とか」
「おいこら、人の心を読むな」
「京介さんがわかりやすいだけ。お隣の西山さんの心は読めませんよー」
そんなことより朝ごはん、とやや強引に味噌汁を押し付けてくる志穂に押し負けて、俺はしぶしぶ茶碗に口を付けた。
「美味い……なにこれメチャクチャ美味い……」
ドラゴンたちの間に味噌汁なんて文化があったのかと絶句する。もう苦笑するしかない俺と、笑顔がまぶしいドラゴンとの同棲生活じみたものが、こうして幕を開けた。
ものすごく家庭的なドラゴンと暮らすことになりました。 桜木良輔 @Ryosuke_Sakuragi
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