モトコさんと整形男(終)


白羽原子しらばねもとこ

大学四年生 十秒あればペンで描けるシンプル顔

しかし変われない自分を愛している



整形男せいけいおとこ

顔が変わる

絶えず変わりゆく自分を愛している




***



 原子は男について記録をつけることにした。記録を蓄積し、男を警戒するためだった。しかしメモアプリを起動してから、最初の遭遇も記憶にないことを思い出すと、すぐに諦めた。一時、視覚を皮切りに著しく変調をきたした体調は全く平常通り、試しに医者に掛かってみても、「問題ない」という結果が出るばかりだった。それと同様に、耳朶に開いた穴は塞がり、必要以上にハサミを入れられた髪は伸び、続々と落ちていく葉を横目に、伸びた髪をゴムで括りながら、原子は日々、論文執筆に勤しんでいた。髪は伸びるが、〆切は伸びない。アレが出現したところで、何をする訳でもない。だいたい、いつの間にか消えているようなものが、まともらしい実体を持った存在である筈がない。原子はそのように結論付け、あの毎回顔の違う、美しい、そして美しい者のどこか超越的な視点から、原子の簡素な顔立ちに言及する、あの男について考えようという姿勢を取るのを止めた。

 男は、時に原子が深夜に訪れたコンビニエンスストアの店員、時に、男が実体のないものであるにしても、流石に幻覚がこの頻度で見えるのはマズイのではないかと思い立ち、原子が訪れた学内カウンセラー、時に学生、時には通りすがりの人間に扮して、原子の前に現れた。そのどれもが違う顔でありながら、いずれも抗いようのないほどに美しい顔であった。原子としては、毎度足を止めさせられることは癪であったが、得てして「簡単な顔」と、透き通る程の声で、しかし不躾に原子を呼び止める、造作の整い過ぎた顔はどうにも、不可抗力に近かった。

 原子がその抗いがたい魔力から一番短時間で抜け出したその記録は、数えて十秒、男の豊穣を思わせる黄金色の長髪を、靡かせる西風の一吹きようにその脇を抜け、足早に去る原子へ、「そんなに急いでどちらへ?」と、実に呑気に問いかけるテノールに、流石に原子は苛々と、聊か刺のある調子で、「学務!」と返事をした。十二月中旬、卒業論文提出日、締め切り時間まで、残り三時間を切ったところだった。いいよなぁお化け、就活も院試も何にもないし。

 美しいこと以外、特段分かることもない。強いて言えば、ろくでもなさそうということがわかる男について、原子は分析も対策も諦め、基本的に、在るがままに任せていた。しかし、受動的に声を掛けられ続けている内に、彼女は、男の行動様式について、いくつか新しいことに気が付いていた。毎度顔の違う美しい男は、名乗らない、自分を語らない、男は常に原子を呼び止めるが、原子から男を見つけたことは、考えてみれば、皆無に等しい。いや、あったか? しかし、度を越えて美しい者からジッと、明らかの過ぎる視線を寄越されるというのは、それだけで十分、名乗られている程の圧を感じるものだ。あれは、声を掛けられたと考えていいだろう。


 幽霊やプラズマの類にしては激しい存在感があり、しかし実在人物と結論付けるには不気味に存在感の無い男が、原子が自宅とし、親に家賃を払ってもらっている学生マンションの四階、四号室の玄関前に現れたのは、院試直後、二月のことだった。

 原子は履きなれないパンプスを手提げに入れ、ジャケット、シャツ、スーツスカート、ストッキングにスニーカーという出で立ちだった。試験日程二日目、面接試験を終えてやれやれと帰宅し、彼女が鍵穴に鍵を挿し込んだ所で、薄い影が降って来た。

 振り返る、平均身長にわずかに届かない原子を、背後より見下ろす男は、見事な八頭身だった。薄いセピア色の髪は絹糸のように直線的な流れを作り、一つの意志の強さを思わせるしっかりとした形良い眉と、彫像を思わせる男の顎のラインに合わせ、それぞれ見事に揃えられていた。直線に切り揃えられた前髪の下、夏の夜明けを思わせる浅葱色は、余すところなく縁どられている。その下のラテン的な薄い隈が、日本人形的な平たい行儀の良さを連想させるその容貌に、微かな凄みと奥行きを与えていた。着ているハイネックのニットは、背後の夜に馴染む程黒く、男の肌の奥深い雪原のような白さが、浮いて見える程に際立っていた。

 それが、戸を挟んで原子の背後に立つその様は、まるきり不審者で間違いなかったが、気配を感じた直後は押し込み強盗を想像していた原子は、その存在感の無さに、いっそのこと心底の安心すらしていた。夏場の恐怖は、飲み下してしまえば最早どこにも残っておらず、二月の、寒さは兎も角として、ひりつくほどの乾燥にうっすらと割れた唇を、無精をして舐めながら、原子はドアを開け、何事も無かったように帰宅した。そして、意外にも、原子の後を追って敷居を跨がず、不自然にその場に立ち尽くす長身に、どうもひっかかりを感じながら、男を見上げる。

「……あら、入ってもよろしいので?」

「はぁ、まぁ、いいんじゃないですか」

 これは、来客ではない。現象だ。夏場に玄関の前で死んでいる蝉や、ドアノブに止まっている巨大な蛾よりはいいだろう。気味は悪いが、見ていて悪いものではない。それに、このプラズマに、言葉の強制力がどこまで通るかという話もある。自宅近辺に現れたのは、意外にもこれが初めてではあるが、どうせ今回ここで止めても、遅かれ早かれ、入って来はするだろうという、諦念があった。かくして返された、溜息にも似た呆れの滲む原子の返答を前に、男は戸惑い一つ滲ませず、小首を傾ぐようにして、多少愛嬌のある微笑み方をすると、「では遠慮なく」と一言、原子が一目見て、履くのに五分かかりそうと考えた編み上げブーツで、衒いなく敷居を跨いだ。

 よく考えると、正気の沙汰ではなかった。玄関先で玉虫が死んでいるのは兎も角、それを持って家に入るか? ある種、人と話すことに飢えていたのかもしれない。或いは、人と顔を合わせることに。「これが相手であればまぁ、どうでもいいだろう」と、自分を許容できる程閾値の低い、自分以外の他人。どうせ次の瞬間には、霞のごとく消えているとも知れない。原子はそのように、早くも自省をしながら、取り敢えずコーヒーを出してみたが、案の定、男は口をつけなかった。弾む話題がある訳でもない。自ら入れてしまった手前、追い出しも出来ないが、矢張り自分以外の人型が居ると意識すると、この部屋は、恐ろしく汚い。

「掃きだめに鶴、って感じですか」

「仰る通りで……」

 思考を読まれた?

「居所はこんなにも複雑怪奇な様相でいらっしゃるんですから、顔ももう少し複雑にしても良いのでは?」

 男は優雅な素振りで身を乗り出すと、原子の高くも無ければ特筆して低いほどでもない平凡な鼻をつまむ。それを振り払った瞬間、男の存在感は文字通り、霞のように掻き消えた。後に残されたのは、レジュメに代表される紙束を床に追いやりなんとか作ったスペースと、そこに残された冷めたコーヒー。念のため玄関を確認したところ、例のブーツも、目の錯覚か何かだったかのように消えていた。つまりは、そういうことだ。あれはまともらしい実体を持たない、影のような存在であることは確からしい。


 あくる朝、虫の知らせのように原子は目を覚ました。時計を見ると、アラームをセットした時間より、丁度一時間だけ早かった。拍子抜けしながら、原子はベッドに横たわる。しかし自分の部屋に居ながらにして、知らない天井を見ているような違和感があった。強い覚醒と些細な違和感に急かされるように、ワンルームの窓際を占拠するシングルサイズのベッドから原子が体を起こすと、その正体はすぐに判明した。男が居たのだ。既視感どころか十二分に見覚えのある、原子の私用パソコンを、パスワードも教えていないのに、どういう訳だが駆使し、しかもイヤホンを使いこなして、何がしかを視聴している、男がいた。

 液晶画面とカーテン越しの微かな夜明けの気配以外灯りの何もない室内で尚、艶やかな黒髪は心なしか翠掛かって、烏の濡れ羽色とはこのことかと思わせるような様であった。液晶に照らされた横顔は透き通るように白く、原子が声を掛けるよりも早く彼女の覚醒に気が付いたらしい瞳は、視界のはっきりしない原子を射るように一瞥する。鳥肌の立つような深い夕焼けを思わせる、赤だった。

「…………えっ、何してるんですか」

 ベッドヘッドに置いた眼鏡を手繰りながら、発した自分の声の腑抜けた平常具合に、原子は却って安心した。一方の男は、イヤホンを外しながら、川を思わせるような長髪を、手で掻き上げるようにして背後に流しながら、実に事も無げに、それがさも当然であるといった様子で、堂々と。

「招いたでしょう?」

 男はそれから、原子の家にも出現するようになった。



 男がすることといったら、原子が眠っている内に出現し、彼女の顔面にペンで、整形予想図を描き入れ始めるぐらいのことで、男は何かを食べる訳でもなければ、風呂に入る様子もない。強いて言えば、勝手に原子のパソコンを使っていることがある。だから、掛かるといったら電気代ぐらいだろうか。そもそも、果たしてあれは、人間だろうか、人間ではないだろう。目の錯覚にしては存在感がある、実在しているようにも思われない。原子の感覚は、緩やかに麻痺していた。

 しかし、いずれにせよ、家にあげてしまったものの、名前も把握していないのは宜しくないのではないか。夕飯のカップ焼きそばの湯を捨てている最中に、原子はその問題を思い出した。迂闊としか言いようのない精神状態で男をここに招いてしまってから、実に数カ月近くの月日が経っていた。

「……そういえば、その、お名前は、」

 原子がカップ焼きそばの湯を捨てている様を、何が面白いのか、その後ろから眺めていた男は、褐色の肌によく映える、落ち着いたミルクティーブラウンの髪を、小振りで整った耳に掛けながら、白雲母の眼差しを微かに光らせつつ、いたずらっぽく眇め、瑞々しい程の唇を動かした。あぁ答えるのか。原子は少なからず驚いた。いつだったか(あるいはいつであろうと)、この男が向けられた問いにまっとうに応えようとしたことはなかったし、原子も常にああ、そういうものかと思わされ、同時に、そのようなものとして処理していたからだ。

 繰り返される男の唇の動きに合わせ、室内の蛍光灯がひっきりなしに瞬いた。男は確かに唇を動かしていたが、そこから発される音は、およそ原子に聞き取れる類のものではない。辛うじて、遠くで泡が弾けるような刹那的な音がぱちぱち、それが原子の辛うじて拾える音の全てであった。

 やがて男は歌うような調子で口を動かすのを止めると、ぽかんと口を開けていた原子の手元を指さし、小鳥か何かのようにクスクスと笑った。蓋の押さえを怠ったカップ麺からシンクに向かって、ふやけた麺がぶちまけられていた。

 一秒間の硬直、しかし続けざまに麺を雑に洗い器に戻して見せた原子に、男は目を瞠り、はっきりと言った。

「わっ、知的生命体にあるまじき摂食行動だ」

「いけます。」

「一応文明の発達したような、この生活圏でお目に掛かれるとは……」

 男は原子の意地汚さがツボに入ったようだった。麺に懸命にソースを絡めようとする原子を見ては笑い、そこそこの所でそれを諦めた様に笑い、テーブルに頬杖を突きながら、ソースを弾く白っぽい焼きそばを、やけくそに頬張る原子を一瞥するにつけ、肩を震わせ拳を手元に宛がい、引き攣る咳を堪えていた。どんだけ面白いんだ。聊か憤慨しながらも、原子は咀嚼を続けた。プラズマに向かって怒ったところで仕方がない。次の瞬間には消えるかもしれないし。そう思いながら水を飲み、不自然に瞬きを繰り返す原子に向かい、男は気品すら思わせる動作で佇まいを正し、彼女を正面から見据えた。自然と原子の喉も締まり、一度シンクにダバァした焼きそばを、こうも熱心に掻き込んでいることを、責められているような心地になる。いや、食べるけど。

「相当驚かれていたみたいですが、でもね、名前になど、大した意味はありませんよ。」

 その佇まいからすると、思いのほか軽やかに続く男の声は、丁度良く仕込まれた弦楽器のように、深い響きを伴っていた。

「名前、姿、形、同じことです。確かに、連続性と経験値には意義があります。しかしそれによって自らを定義する、その必要は無いでしょう。ただ生まれ持った姿等、ことに何の意味も無い! 我々が、理解できないのは、」

 心なしか熱を帯びた調子で、滔々と続いていた男の声が、冷静に途切れる。無窮の空を見渡すかの如く明後日を見上げていた男の、角度によって表面に虹の生じる、それこそ宝石の表面じみた眼差しが、むぐむぐと焼きそばを消費する原子の上に蟠った。

「同型の自己の存続に強く拘り、しかして特筆すべき点がある訳でもない。改造へのタブーを、規範として持っている訳でもない、他者の関心を得るに足る自己であるという自惚れもない、のに、あなたは、何故、自己を不足と認めながら、かように、可能性を制限するのですか?」

 生物というには塑像的な、創造された完璧を纏わせた男の手指が、原子の特筆すべきところの無い頬に伸びる。心なしか強張った喉で咀嚼した最後の麺の塊を飲み下しながら、原子はファウストを思った。二世紀前に一世を風靡した戯曲について、しかも対話の中で考えることがあるとは思わなかった。

「現状に満足しているので……」

 悪魔であるならば、誘いに乗るのは賢明ではない。創造物の悪魔にしては、悪意が薄いどころか、悪意らしい悪意を感じられないような男ではあるが。しかし、そうでなくとも、いずれにせよ、原子の答えは同じだった。

 孤独ではある、酔いしれる程はない。特別に愛されないことを知っている。それは、悲観するにはあまりにありふれた無様だ。かといって、他人に愛されることを求めようとは思わなかった。仕方がない。そのように生まれついた。そのように生きて来た。それを、否定したいとは思わない。だから、仕合せを求めながら、成るように自分を生き、自分を、愛するのだ。他の誰が、それをすることが出来るだろうか。

 今や原子の頬を掴むように触れ、滑らかな指の腹で押し潰しながら、男は影を落とす程の睫毛に縁どられた双眸を甘やかに細め、それは、慈愛という題材を思わせる程の柔らかな表情だった。

「あなた、考えたことがあるでしょう。もし美しければ、どうだったか。人の歓心を惹くことが出来れば、自己がそのように在るがままで、宜しいように回る世界であったなら、望まないのですか。可能性はもう、手に届くところにあるでしょうに」

「まぁ」

「明日、死ぬとしてもですか」

「そうですね」

 自分が高校生の頃に、この男に出くわしていたら、どうだったろうかと、考える。靡いた可能性は正直、十分あった。或いは、素性の全くわからない男への警戒心や、恐怖心が勝っただろうか? しかし、過去は過去、今は今である。かくして、一度として躊躇わなかった原子を前に、男は息を吐いた。

「ほう」

 そうです、か。と、言葉尻が途切れ、オパールの表面を思わせる、殊更に人間離れした美しいばかりの瞳が、特筆する所のない、原子の奥二重の瞼の奥の、黒いばかりの目を覗いたが、それも数秒のことだった。

 いっとき留まった分だけ、堰を切ったように男は、様々な言葉を一斉に続けた。そこには、バイオリンの弦を細やかに弾くような、神経質な響きがあった。

「……我々は、常に自己の可能性を希求し、それを追求するものです。同時に、選ばなかった可能性に対し、怯えているということは出来るでしょう。この姿でなかったら、違った行動をしていたら、もしこの言うべきことを、言わなかったら。試さずにはいられません。何せ我々には、それが可能だ。常に最高の自己を実現する。そこに至上の喜びを持つものです。 しかし、そのままでいいと。そのどうしようもない自分を、無根拠に肯定し、そこに固着できる。 あなたがたの内の一部が持つその傾向は、置かれた場で咲く他ないという、諦めの一種でしかないと、我々の内に捉えられていました。可能性があれば、存分に変化を選びうる。だがそれを実現できない、技術的な断念、消極的な決断にしかないと。 ですが、 あなたは、 それでも、確かに、愛しているのでしょう。 それだけは 」

 ひとつ、我々が、持たなかったものだ。続いた言葉は一瞬、空が青いというような、あまりに自明のことに、今初めて気づいてしまったかのような、実に頼りなく、若干弱弱しい程の吐息が混ざった。その刹那、感傷じみた喘ぐような息の混ざる時間も、二呼吸の内に過ぎ去った。男はすぐに持ち直し、原子の頬を指で押し挟む。潰され、タコじみた顔を晒しながら原子は、眼差しだけは不服そうに、男を見返していた。しかしそれもやがて、この状態でよくそんな、真面目そうな話が出来るなという、感心に取って代わられていた。いっそう身を乗り出し、原子の眼窩に何かがあるに違いないと思い込んでいるのか、彼女の目を覗き込みながら、彼女の訴える不服に全く気付いた様子の無い男は、調子を取り戻した明るい声で言った。

「いえ、むしろ、捨てたものだ。進歩は常に、先へ進まなくては、」

 男がここまで、手の内を明かすようにして、原子の容貌に関わりの無いことを矢鱈と喋るのは、初めてのことだった。それは、多数の人間同士の議論を、全て己一人の口頭でやっているような、せわしなさがあった。言葉はそのどれもが内側を向き、一つとして原子に向けられたものは無かった。ただ、眼差しだけが原子を観察し、見分していた。その瞳、真珠の表面というには硬質の過ぎる、殊更に人間味のない眸が、原子の目に映り、光の角度によって虹を孕むようなそれが、時折、何かを探すように、一握の炎のようにして揺らぐ。

 その時原子は、初めて、この男が、人であるかもしれないと思った。男の人を食ったような態度には、ひたすらな絶対的美しさと、余裕ばかりが付いて回り、それが男の存在感を、空気よりも軽いものにしていた。今、原子の顎を掴んだまま、食い入るように彼女を見通そうとするこの男の態度には、原子にとっては知る由もないところにあるのだろうが、しかしそこには確かな切実さ、熱心さがあった。


 やがて、男は合図をするかのように、いくぶん芝居がかった調子で、明るい褐色の瞼をゆっくりと降ろした。それと共に、原子の顔に掛けていた、あらまほしいように節ばった手を外す。そして、男は場を改めるように首を傾けながら、宣言をするようなしっかりとした調子で、何かを考えているようで何も考えていないような、相変わらずの簡素な表情でいる原子に言った。

「我々は、可能性を希求し、自己実現をする、我々を愛しています。アナタが、何者でもない、何者にもなれない自分自身を愛しているのと同じように、……あぁ、そうだ。アナタ、名前は?」

「……名前に意味はないのでは?」

「ええ、我々にとっては無意味です。ですがアナタにとっては、意味あるものなのでしょう。」

 やはり男は美しく、余裕を持ち、堂々としていた。しかしその気配は最早、得体の知れない、空気のような存在では無かった。この男は異なる理に生きる、何かしらの存在ではあるのだろう。いつになく輪郭を保ち続ける男を、原子はそのように思った。

「はぁ、……原子です。」

 そう言えば自分も、名乗ったことはなかった。当然だ、名乗らない不審者に、自ら名乗る道理があるだろうか。気付けば狐に抓まれたような、どこか釈然としない心地で名乗ると、男は不可解に片眉を上げる原子を前に、艶やかな程の健康的な唇を動かし、確かめるように繰り返した。

「モトコ、モトコ。ほう、悖ると」

「はい?」

「あははははっ! そうですか、モトコ。」

 次の瞬きの合間に、男はいなくなった。後に残るのは、ソース焼きそばの臭いだけだ。最早他人に掴まれていたという気配すら全く感じない頬を擦り、原子は眼鏡の弦を押し上げた。二度と見えることはないだろうと、不思議とそう確信していた。


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