モトコさんと整形男(4)


白羽原子しらばねもとこ

大学四年生 十秒あればペンで描けるシンプル顔

素性に特筆すべきところはない



整形男せいけいおとこ

顔が変わるし口調も変わる

素性?



***



 七月も三週目に入ると、大学構内はいよいよ閑散とした。学務のカレンダーによると、前期科目の試験期間は、七月の最終週から八月一週目にかけてと設定されている。しかしきっちりとそれに則るのは、教職はじめ、資格関係の必修講義くらいのものだった。教授とて人間、可能ならば海の日前後にでも前期授業を終わらせたいというのが、少なくとも文学部棟における、一定の共通理解であるらしい。観測史上初の酷暑を年々塗り替えていく夏の厳しさも、その原因の一つとなっているだろう。

 老朽化しつつある設備の中、冷房の効きは甘い。併用される扇風機の起こす風ですら、いっそのこと生ぬるい図書館内で、滲む汗を忌々しく拭ったとき、原子はそれに気が付いた。

 本立ての影に隠れるようにして放置されていたそれは、一見して黒い板だった。スマートフォンをここに置くということは、複写料金を惜しんで、必要部分の撮影でもしていたのだろう。原子にとりそれは、同じ学籍を持つものとして、火を見るより明らかな状況だった。さて、これをカウンターに届けてやるか。でもスマホだし、流石にすぐ気づいて、じき引き返して来るだろう。時刻は午後六時を回りつつあった。ひとけが無いというその一点により、原子が学内拠点にしている地下開架書庫は、図書館閉館時刻より一時間早く閉鎖される。閉館時刻まであと一時間を切っていた。届けてやるのが、一応の親切だろうか。原子は何気ない手付きで、本棚に隠れていたそれを手に取った。

 持ってみて気が付いたのは、いかにもスマホ然とした見掛けに反し、異様に軽いということだった。何だただのケースかと、原子は拍子抜けしながら、手に取ったものを、蛍光灯の下でまじまじと確かめる。それは、黒い板状の、何かだった。プラスチックケースか何かのように軽いが、手触りはスマートフォンと変わりない。全面にガラスコーティングを施されているようで、触れたそばから指紋がくっきりと残っていった。普通、他人のスマートフォンであれば、わざわざ操作しようという気持ちはそう起きない。だいたい自分も、大なり小なり似たようなものを、日々操作しているのだから、わざわざ操作しようとしなくとも、どこを触ればどうなるのか、大まかな想像はつく。しかし、これは、何だ。ボタンらしきものが一切見当たらない、恐ろしくすっきりとしたフォルム。これが、最新式という奴だろうか? しかし一番そういうものを出しそうな所のリンゴマークのロゴが、背面どころかどこにもない。だいたいスマホか? これ。つやつやしているばっかりでどこにもロゴらしいものがないし、どこを触ってみても一向に、液晶が明るくなる気配はない。やっぱりこれ、ただのちょっとしたケースか、名刺入れにしてはサイズが大きい気もするが、それか最新式のポケットWi-Fiとか? ポケットWi-Fiなんて最近めっきり見ないけれども、学内LANの設備がお粗末なここならばまぁ、驚きはするけど、理解できない程ではない。

 手に持ったすべすべした黒っぽい板状の何かに、原子がいたずらに指紋をつけていると、不意に、液晶が明るくなった。あ、やっぱりスマホなのかと、原子は自然と液晶を注視し、そして、息を飲んだ。

 視線を介し無数の色彩が、彼女の目の奥を突いた。痛い。原子が瞼を閉じて視覚情報を遮断しても、神経に直接微細な電流を流され続けているような、不愉快な痙攣の感じは、原子の眼球の奥に焼き付き、一向に消えようとしなかった。多分そこは、いわゆる視神経と言われるのだろう、直接お目にかかったことはないが、そういった糸にも紐にも束にも似た何かを伝って、無理やり脳味噌にアクセスされているような、と、原子は感じた。強い光を直接覗き込んだ時と感覚は似ているが、感覚の鋭敏さは、今の方が遥かに勝っていた。

「あ、」

 何だこれは、歯の根が合わない、これは、何だ?

「あぁ、ここにあったか!」

 恐怖する思考の中で、不意に手を取られた。さながら開かれるような痛みに苛まれながら原子は、光った板を掴んでいた指に触れる、自分のものではない、骨の太い指に気付いていた。ここに、誰かいたのか? だが足音も聞いていない。地下書庫に続く階段は、恐らく設計ミスのせいか、やたらと足音を反響する。まっとうな手段でここに来たなら、すぐに気づく筈なのだ。つまりは、アレだろう。原子はなおざりにそう理解した。視覚による美しさの干渉が無ければ、未知との遭遇にも慣れたものだった。

 原子が右手に握っていたその板を、出所不明のその手によって、そっと引き抜かれる。すると、どうだろうか。先程まで異常な痛みによって、その存在を主張してやまなかった、脳味噌と眼球との間のつながりは、まるで今は、そこに何もないかのように静まり返っていた。刺を抜いた後でも、悪夢を見た後でも、もう少しは余韻があるだろう。けたたましい目覚まし時計を止めた直後のような、その呆気なさに、困惑さえしながら、原子は恐る恐る、目を開けた。

 床が近い。知らず知らずに、腰を抜かしていたようだった。そうと気が付けば何だか、打ち付けたかもしれない膝が、痛いような気がする。扇風機が首を回す音が、やけに遠くに聞こえた。微かに充血した目で、原子が取り戻した全く平穏な視界の前には、片膝をついて座る男が在った。

 Vネックから覗く鎖骨に、夏らしく程良く焼けた健康美があった。顔の中央に、薄いながらもしっかりと通った鼻筋は、男の顔全体に、清潔な印象を与えていた。硬い質感の真っ直ぐな髪は亜麻色、どこか物憂げな切れ長の瞳の奥には、一際明るいペリドットがあった。程良い厚さによって、ともすれば潔癖さすら思わせる顔立ちの男に、ある種の、しかし穢れの無い肉感を伴わせた唇が薄く開き、その奥に明るくつややかな桃色、至極健康な肉の色が見えた。しばらく男の唇はぱくぱくと動き、原子の耳を、テノールというには少し抑えられた音程の声が通って行ったが、わからなかった。今は平穏を取り戻した筈の原子には、言葉尻一つ、それを聞き取り、理解することが出来なかった。

 聴き、考え、理解する。普段一秒足らずで何気なく行われているそのプロセスが、突如全く瓦解してしまったかのように、原子は無力だった。その原因を突き止めようと、せめて内側で考えることすらできず、原子は真新しい埃が積もりつつある地下書庫の床の上で、呆然と座り込んでいた。その中でただ一つ、聞き取れたのは、「見て」と言う、橄欖石の命令だ。それを聞き取ると共に、理解する。指令を入力された原子は、顎を上げ、言われるがままに、男の目を見た。


「はい、できました。やったことはなかったんだけど、やればできるもんだね もう大丈夫」

 秒も満たさない程の刹那を、無理やりに引き伸ばしたような、周囲全てがスローモーションに見える異常な瞬間を経て、男はようやく、原子にとり理解可能な言葉を口にしながら、鮮緑の瞳を、伏せるようにして笑んだ。相変わらずその場にへたりこんだまま、原子は自身の無事を確かめるように、肩で息を繰り返していた。白と青が基調の長い丈のスカートは、プリーツも無残に原子の足に纏わりついていた。

 薄い布地越しに触れている書庫の床は氷のように冷たい。原子の顎を未だに、補綴するようにして掴む男の手には、原子と全く同じ温度があった。およそ高いも低いも、何も無い。全く異なる形をした、自分自身の手に触れられているような、これまでの人生で考えてみようともしなかった気味の悪い事実が、原子の顔を捉えていた。

「それにしてもこう、簡単だよねぇ」

 暗色のVネックの上に、黒地に灰色の縦ボーダーシャツを羽織り、いかにも学生といった出で立ちの男は、ひと際気安く言葉を続けている。

「この辺り、こういう風に弄った方が良いんじゃない?」

 そして程良い弾力を見せる口角を厭味なく、綺麗に引き上げながら、先刻の身体の違和を引き摺るあまり、全く無抵抗の原子の両の頬肉を掴み、引き上げ、ますます気安い調子で笑った。そしてふと、一方的なままにそれを止めたかと思うと、彼女の右頬を掴んでいた、逞しいぐらいの手で、彼女の耳を覆い隠す髪を、無遠慮なぐらいに掻き上げる。

「あれ、外したの。道理で変化がないと思った!」

 その穴の塞がっていることを確かめるように、男の指が耳元に伸びて初めて、原子は自分の肉体の存在を思い出した。だらりと体側に垂れ下がるただの肉と化していた腕で、自分の顔を掴む男の手を弾くように振り払う。元より、そう力を込められていた訳ではなかった。驚いたらしい男の手が止まった。その隙に、原子は上体を倒すようにして男の腕から逃れ、本棚を背に、後退るように腰を引き摺り、男から少しでも遠ざかろうと、左に向かって移動をした。そして、きょとんとした様子で、自分の正面から逃れた彼女を見る男を、原子はきっと睨んだが、睨み続けることは、どうにも難しかった。

 一体全体、訳が分からない、あれは何だった。私に、一体何をした。これは一体、何なんだ。押し黙る原子に合わせるように押し黙ったまま、男は肩を竦めながら、何の含みも無く、ただ原子を見返した。その涼し気な目元に、微かな影が落ちている。眦から涙の行く道を明らかにするような、星座にも似た二連の黒子。得体が知れない、が、害意は無さそうだ、無いのだろう。そのように、男を都合のいいように、或いは男の都合のいいように思考が流れていくことを自覚すると、余計に恐ろしい。これを、許容する訳にはいかない。しかし何故? 何をされたかもわからないのに。この顔を前に、確たる敵意を持ち続けることは難しかった。出来ることといったら、強いて言えば警戒。それだって、これまでにしていない訳ではないのに。本当に? 散らばる思考を束ねながら、原子は注意深く息を吐き、続ける言葉を選んだ。

「それは、何ですか。」

 そして、いつになくたどたどしい言葉で、原子は男の羽織る暗い色のシャツの胸ポケット、その少しばかり四角い輪郭を指さす。男は動く度にさらさらと流れる前髪の合間から覗く片眉を引き上げながら、原子のぶれる指先を視線で辿り、やがて、自らの胸元に行き着く。

「これ?」

 原子の問いを言い直した男の、感じよくふっくらとした唇はやがて、穏やかに歪んだ。

「     」


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