モトコさんと整形男(3)


白羽原子しらばねもとこ

大学四年生 十秒あればペンで描けるシンプル顔

先端恐怖症という程ではないが、注射をはじめ針が嫌い。



香山璃香かやまりか

大学四年生 原子の知人、ライブ明けは九割むち打ち

小中で散々からかわれ通したので、リカちゃん人形が嫌い。



整形男せいけいおとこ

美と変化を併せ持つ自分の顔が大好き。身体も好き。



***


 突如ピアスの開いた原子の右耳は、原子本人にとっては、例え時間が多少経過しようと、およそ容認しがたいものだった。それは、傷口よろしく疼く度に、彼女の睡眠を浅くするものであり、皮膚に針で穴を開けられるという、最悪の夢見に寄与していた。しかしその一方で、彼女の周囲には、概ね好意的な印象を与えていた。エッ、モトコさんイメチェン? にあうー。といった具合。原子の周囲に存在する人間の一人、彼女とゼミを同じくする香山璃香は、原子の耳朶を貫通した金を目に留めると、きゃらきゃらと声を上げて喜んだ。曰く、

「絶対シューカツしないぞっ!って感じがしてサイコー」

 それは確かに、原子の事実であった。しかし、桜の蕾が膨らむような頃合いまで、麦穂の如く煌めき靡いていた頭髪を、今や過剰な黒染めにし、定規で揃えたように切りそろえ、すっかり後ろで一つ結びにしている璃香を前に、原子は曖昧に笑って、その言葉を流した。

「てゆうか、大学来んのマジで久々だわ。さみしかったー」

 ゼミ終わりにそのように原子へ話しかけた璃香は、それから、図書館に本を返し、珍しく無人だった学生控室で史料読解を進める原子の後ろを着いて歩きながら、彼女が話半分に相槌を打っていることを承知の上で、訪問した先のOGがどうの、お祈りすら寄越さない企業がどうの、先の説明会で登壇した男が、まんまスーツ着たゴリラで笑いを堪えるのが大変だっただの、他愛もないような話を続けた。原子にとっては、はっきり言って邪魔であったが、「こんな気を遣わないでっていうか、人と話すの自体なんか久しぶり! 家帰っても、誰もいないし」と、そう言ってあっけらかんと笑う璃香に、少なからずほだされていた。


 結局璃香に付き纏われたまま日が暮れ、原子の作業はろくに進まなかった。まぁそういう日もあるだろうと、溜息を飲み込みつつ、いそいそ帰り支度をしていた原子は、折角だし夕飯でもという璃香の提案に乗り、駅前のファミリーレストランに立ち寄った。居酒屋では璃香のスーツに臭いが付くし、カフェでちょっとしたものを食べるという程の、浮かれた元気さは最早無かった。どちらも、ここが良いと意思表示をする訳でもなく、何かに押し流されるようにして、トリコロールを彷彿させるラインの入ったガラス戸を潜る。

「最近全然バイト入れてないし、お金出ていくばっかだわ」

 案内された席につきながら、璃香はそう呟き、快活というには力の抜けた、どこか空回るような笑い方をした。原子と璃香が二人きりで食事をするのは、初めてのことだった。これまで一年間同じゼミでやって来た間柄ではあるが、それ以外に、大した共通点がある訳でもない。璃香の呟きにぎこちなく頷きながら原子は、事実として淡々と、誘いに乗ったのは失敗だったなと思った。

 おたおたと注文を済ませた後、璃香は率先して席を立ち、ドリンクバーから水を汲んで帰って来た。水を汲む数分間で何があったというのか、璃香の顔の上からは、例の疲弊した空元気が頬を引き攣らせているような笑い方は、すっかり消えていた。その表情こそ厳めしく、口元は強く引き結ばれていたが、瞠られた目には、生気の光が満ち満ちていた。彼女は両手に持ったコップを机の上に置くと共に、重々しくライトグリーンのソファに腰を下ろし、油がうっすらと残っているように生光るテーブルの天板に肘をついて、向かいの椅子に座る原子を縋るように見て、そして一言。

「イケメンが、居る。」

「はい?」

 曰く、店内の壁という壁にプリントされた壁画から、そのままうっかり出て来たような、西洋絵画なイケメンがいるらしい。そこからは堰を切ったように、まだデカンタで頼んだスパークリングワインが届く前から、璃香はアルコールで湿ったような舌で、しきりに「世界観が違う」と熱弁を振るっていたが、ある瞬間を境に、彼女の口紅が少し褪せた唇はぴたりと止まる。舌でも噛んだ? と、原子が茶々を入れるように尋ねるより先に、彼女らのテーブルに、デカンタを携え、一人の店員がやって来た。

「こちらデカンタになります」

 すると店員は一瞬、チェーンのファミリーレストランにしては不適当にその場に留まり、文字通り、完璧に微笑んだ。お馴染のトリコロールがあしらわれたキャップの下、店内の蛍光灯に照らされた白金の髪が緩やかに波打ち、男の微かに尖った耳先を薄く隠していた。プラチナに縁どられた細いシアンブルーの瞳は、その明度だけで人を射貫くような存在感がある。高く上品な鼻筋から、すっきりとして清潔な印象を与える小振りな顎先まで、うっすらと青白い程の肌が、心なしか憂鬱な雰囲気を伴わせていた。その男の眉尻は困惑の兆しを見せるように微かに下がり、そのことが男の、ともすれば威圧する程の美しさを微かに気安いものにし、美しいと素直に感嘆できる程の心の余裕を、見る者に与えていた。

 それが、ファミレスチェーンの制服を着ていた。全く似合っていない。モナリザに宇宙猫パーカーを着せたような、不釣り合いな感じがあった。存在と場が、恐ろしくちぐはぐな印象を与えた。これは、星付きホテルのロビーやレストランに行って、ようやく初めてお目にかかるような類のホスピタリティだった。この顔面ホスピタリティが、唐突にファミリーレストランなんかに現れると、人は却って不安になる。


「ヤバい。」

 店員が去ってから数分後、深くソファに腰かけ直しながら、しみじみと呟く璃香を前に、未だ原子は、息も吐けていなかった。

 あれは、間違いなく、男である。原子は確信すると共に、何としてでもアレにピアスを外させなければと強く思った。神出鬼没を地で行く男だ。これを逃せば次は何時になるかわからないのだ。シャワーを浴びながら恐怖に涙する暮らしから、原子は一刻も早くおさらばしたかった。

 ここ数週間、シャワーの度に、この世の終わりを思いながら、こうまで思い悩むならばいっそ、覚悟を決めて、自分で取り外せばいいじゃないかと、そう自身を奮い立たせたところで、見えないところに刺さっている、針を、手探りで引き抜くことほど、原子にとって恐ろしいことはなかった。いや、冷静に考えれば、ただ、抜けばいいだけの話ではある。裏側にあるであろう留め金を外して、そう、ただ、抜けばいい。しかし何だ、留め金の仕組みも、よくわかっていないのに? そうやっていたずらに手で弄び、ようやく瘡蓋のようになって、乾きつつある耳朶の穴を再び揺り起こすことこそ恐ろしかった。

 けれどもだ、男に外させるにして、この状況で、どう切り出す? それも問題であった。しかも問題はそれだけに留まらない。更なる問題は、璃香が、男を視認していることにあった。これまでも男は平然と実在し、あらゆるサービスを受け、物質を器用に扱い、果てに原子の髪に必要以上にハサミを入れ、挙句耳の肉を穿ったが、元々原子と面識ある人間が、このようにはっきりと男を視認している場に居合わせるのは、これが初めてのことだった。こうなるといよいよ、この男は、もしかすると、私が見ている幻覚ではなく、実在する美形の変質者ということになるのか? そこに至って原子は、心臓に鳥肌が立つような不愉快を感じ出した。あの男が、現実らしからぬからこそ、原子は、やたらと話しかけてくる男をそのように処理し、ある種、許容していたのだ。それが実在の男となると、どうなる? いや、無い。それでもまぁいいだろうと靡くには、あの男、余りにも怪しすぎる。しかも傷害罪。

 それから五分と経たず、原子の注文したドリアと、璃香の注文したパスタを運んできたのは、至極まっとう、いたって普通の店員だった。これといって目を引く所のない目鼻の配置に、マジックでぎゅっと引いたような口元。品物をテーブルに置きながら伝票入れに伝票を挿し込み、「ごゆっくりどうぞ」を片言に口にしつつ、既に臍を別方向に向けて歩き始める。ファミレスにおいて、模範的な店員の行動だった。この場に相応しい店員の対応に、先刻の緊張感を期待していたらしい璃香は、マセた子供のするような調子で唇を尖らせた。

「さっきの店員さん、どっかにいるかな」

 そして良くも悪くも自由な傾向のある璃香が、スマホを片手に四方八方をきょろきょろ見回しているのを他所に、原子は習慣的に力なく手を合わせてから、色のついた米を匙で掬い、モソモソと口に運び始めた。

 駄目だ。考えてはしてみたけど、この場は詰んでいるとしか思えない。あの男は店員なんかじゃないだろう。けど、いずれにせよ仕事中みたいだし。とりあえず、このピアスについて、連絡先を知らないどころか、いつどこで現れるかもわからない、あの男を宛てにするのはもうやめよう。諦めて、医者にかかろう。ピアス外来とか、なんかあるらしいし。


 割り勘の段になって、その日は札しか手持ちの無かった原子は、一円単位でしっかり出してきた璃香から代金を受け取り、トイレに立った璃香と別れ単身レジへと向かった。先客は居らず、レジには制服を着た店員が立っている。何も言うことはない支払の場面だった。原子はレジに向かって伝票を置き、小銭を握ったままの手をトレーの上でそっと開きながら、自分の財布の口を開いた。

 釣銭が399円、トレーに千円札を置きながら、原子は一人頭の体操をしたが、答え合わせのタイミングが中々来ない。見たところ、店員の手元でのレジの操作はすっかり終わっていた。しかし、店員は「399円のお返しです」とも「ありがとうございました」とも言わず、互いに黙り込んだまま五秒。

「あの、」

 ついに視線を店員の顔まで上げた原子は、レジの向こうに、先刻出くわした、完璧な微笑みを見た。やはりベルニーニの彫刻が、クソダサクリスマスセーターを着ている。あまりのミスマッチに、美的感覚というものを大して持たない原子ですら、眩暈を起こした。大理石のごとく滑らかに白い唇が、美しく緩やかな谷を描いていた。微かに憂鬱の影を持つ、青白い程の頬の形。原子が視線を逸らすよりも早く、シアンブルーが、原子の目を射るようにして焦点を結ぶ。

「こちら、399円のお返しになります。変化は愉快なものでしょう?」

 そして、小銭を持っていることに違和感を覚えるようなしなやかな手指が、原子に向かって伸ばされた。399円。

 とっておきの贈り物のようにして、レジ越しに掛けられた明るいテノールに対し、原子が「いえ、普通に迷惑でした」という、丁度良い返事を思いついたのは、受け取った小銭を握りしめたまま、「またお越しくださいませ」と退店時のテンプレートな挨拶を背に、一刻の猶予も惜しんでせっせと、人並みの長さの足を出口に向かって動かしている、その最中のことだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る