モトコさんと整形男(2)


白羽原子しらばねもとこ

大学四年生 十秒あればペンで描けるシンプル顔

どちらかというと質実剛健でありたい



整形男せいけいおとこ

日々顔の変化を楽しんでいる




***



 原子の本籍は長野県にある。しかし、彼女にとって、そこはただ生まれただけの場所であり、何がしかのゆかりがある訳ではない。ある夫婦の国内旅行中、予定日よりも半月早く産気づいた子供が、原子であった。営業職の父の転勤に合わせ、小学校六年間を様々な学び舎で過ごし、中高は、母の地元でもある富山で、六年間を過ごした。居所を転々とする日々は、彼女に一つの処世術を教えた。人に過剰な深入りをしないこと、同時に、させないことである。当時の彼女にとって、人間関係とは構築するものではなく、およそやり過ごすものだった。人当りは悪くなく、ノリもそう悪くはなく、しかし自己の安寧の継続、その不変を第一義に据える。ままならぬ移動を日々やり過ごした彼女は、やがて県立高校に入る。そこの校風である文武両道、何であれ随一を目指す、酷く禁欲的な雰囲気をやり過ごし、彼女はなあなあに、多数と同様の方向を目指した。結局、本命の試験当日に試験会場キャンパスを間違える大ポカを仕出かしはしたものの、彼女なりの努力の結果は、第一志望外で実を結び、四年前の三月、彼女は親元を離れ、晴れて上京をした。

 原子はそれからもこれまで通り、息をするように人間関係をやり過ごしながら、広く浅く生きて来た。二年前から、実家には帰っていない。正月に帰るにも、未だ共働きの仲睦まじい両親は、ここぞとばかりに海外旅行になんか行ったりするものだから、そんな彼らの邪魔を、わざわざしたいとも思わない。それに、交通費だって馬鹿にならない。嘘だ。交通費ぐらい、求めれば出るだろう。それは、わかっていた。

 比翼鳥の如き両親を見るにつけ、巣立った原子が思うのは、自分は、このようには、ならないだろうという、そのことばかりだった。故に原子は、ここ二年「部活仲間とスキーに行く」という嘘を吐き続け、正月にも実家へ近寄らないようにしている。両親と自分を比較すること自体おかしい。それは彼女も分かっていた。しかし当人にとって切実極まりないことは、他人からすると、得てしてそのような、至極自明でどうでもいいことであることが多い。家庭のことなど、その最たるものだろう。

 身近なロールモデルである模範的な彼彼女らを前に、原子は長らく、打ちのめされ続けていたのだ。まるでパズルのピースか何かのように、互いが互いの為に誂えたようにして合わさり、かように支え合う人間があるだろうか。人間は皆、かつて生き別れた、背中の半身を探し求めるものであると、アリストファネスの語るそのままが、肉を持って生きているような。かように、連理の枝の如く睦まじい彼らは、しかも良識を持った大人であった。彼らはその枝で原子を慈しみ、育て、そして彼女を家庭に絡め取ろうとはせず、巣立つ大人として遇し、新天地へ見送った。そして家は、支え合う二人の為だけの場となっていた。

 巣立った原子には、顔見知りは多い。知人も多い方だ。人見知りをする性質ではないが、気を許せる友人が、特別にいる訳ではない。一線を引いた付き合いを、人は大人な対応というが、何ということはない、それ以外の手段を知らないだけだ。

 孤独、ではある。しかし、酔える程のこともない。いっそ酔っぱらって、叫び出したくなるようなことが、一度も無かったかといえば嘘になる、が、それをするには、原子は愛されたことに自覚的だった。彼女は、誰に必要とされるでもない、誰の唯一になるでもない、誰に選ばれるわけでもない、しかし、自分には、価値があることを知っていた。変わる必要はない、合わせる必要もない、愛されようとする必要はない。無論、そのままを愛してくれるような、都合のいい何かが居ると、それを信じている訳でもない。しかしいずれにせよ、愛されず選ばれずとも、自分には紛れも無く、無根拠ながらも、価値がある。原子にとってそれは実感のある真実だった。自分を生きよう。そうすれば、人はいつのまにか、違う野原を歩いているように、日々を送れば、やがて、何かが、上手い具合に、仕合せな軌道に乗るのではないだろうか、と、例えその淡い望みが裏切られてこのまま、凪の中に死ぬのだとしてもだ。


 院進学を決めてからというもの、原子の日々は、日付や曜日の感覚を失い、目の前に茫洋と流れる、一筋の帯と成り果てた。日々の発表、書類の締め切り等、厳めしい区切りがあるにはあるが、スーツで身を固め、ゼミを中途で退座していく学友と比較すれば、何ということはない、原子は未だ、過ぎる自由の渦中にあった。

 身に余るほど自由な、しかし〆切に追われるばかりで、先行きの展望がいっそう見えない不安な日々の中で時間を使い、原子は髪を切ることにした。伸びるがままに任せ、後ろで括っていた髪は、日に日に強くなる日差しを受けて、うんざりするほどの湿気を帯びていた。思い立ったが吉日、インターネットで検索し、値段の適当な、もとい安価な店を予約した。

 翌日の火曜、麻の七分丈ワンピースに袖を通した原子が、雑居ビル五階のある美容室を訪れると、剥き出しのコンクリートに所々、金属的な質感を重視しているに違いない機材やインテリアが置かれ、デザイナーズマンション風に仕上げられた雰囲気の店内には、美容師が、一人きりでいた。閑散としているところを狙って予約した原子であったが、一人きりというのは意外だった。そういうようなことを思いながら原子がガラス戸を潜ると、受付に一人佇み、心なしか退屈そうにぼうっと俯いていた美容師の枯れ葉色の頭が動き、男が顔を上げた。一口にいえば、爬虫類系の顔だ。しかし不気味と切って捨てるには、妙な違和感がある、と、原子は思わずしげしげと男の顔を見てしまってから、はたと気付いた。あ、これは、「男」だ。

 くすんだ前髪は男の顔を遮ることなく左右に流れ、異様に細いが全体によく調和した眉毛の下、月光に照らされる夜の浅瀬じみたグレーの嵌った、巴旦杏型の瞳、その眦は微かに垂れ、男の顔立ちに、一つの調和を与えていた。通った鼻筋が、全体的に平たい印象の男の顔に、微かな影を落とす。その筋の上にいくつか打ち込まれた銀のピアスが、時に火花のように、強い光を散らした。その下、白く薄いばかりの唇をジッと、トカゲのように注意深く閉じているさまは、ひとつの前衛芸術に似た、張り詰めた緊張感を持っていた。そうしたギリギリの均整を保った顔立ちの男は次の瞬間、その均衡を大きく崩し、まさしく破顔といった調子で目を細め、鼻の上に皺を寄せて、上がった唇から尖った八重歯を剥き出し、しかし尚も奇妙な美しさを纏った笑顔で、原子を正面から指さした。

「ワッ! 簡単な顔ォ!」

「間違えました」

「ゴヨヤクのオキャクサマですよね?」

 レジ奥の椅子を降り、原子の腹と言わず胸に至る程の長さの足でもって、ほんの二歩、あっという間に原子の目の前にやってきた男は、細身でありながら、その長身ぶりからして、一個の壁のようにも見えた。

「ご案内しまぁす♥」

 糸のように目を細めた笑い顔のまま、男は、原子が平生右肩に掛けているトートバックの持ち手を、模範的に骨ばってはいるが、彫刻というにはいささか細い腕で掴んだ。

 かくして質を取られ、原子は鏡の前に座っていた。めぐる頭の中には、これといった走馬燈もなく、しかしここで人生が終わるのかもしれないという、悲観というには乾いた想像だけがあった。

 埋め込まれたようなピアスが鼻筋に光る男は、原子の懸念を他所に、心なしか擦れたテノールで、原子に尋ねた。

「本日は、いかがいたしましょうか?」

「あー……髪を、短くして貰えますか。顎のラインが隠れるぐらいまで」

「カラーの方はいかがされますか?」

「……プラン外ですよね」

「お似合いになると思いますよォ」

「予算があるので……」


 しかして男の勤務態度は、原子の予想を越え、遥かに真面目なものだった。シャンプーからヘアカットまでの手付きには、一定の熟練した、無駄のない落ち着きがあり、全くの素人である原子から見ても、ああ慣れているんだなということが一目でわかるほどだった。

「美容師だったんですね」

 櫛を当てられ、心なしか指定よりも数センチ短い位置に毛先を揃えられながら原子が言うと、男は鏡越しに、とぼけるように小首を傾ぐ。

「ご指定よりも短めにしておきました、よくお似合いでしょ」

「あ、やっぱり短くしてましたか……えぇ……」

「長らく同じ髪型されてますよね? もう校則がある訳でもなし、いいじゃないですかァ 変化を楽しみましょう! 前髪はどんな感じにします?」

「……眉毛が隠れるぐらいで、」

「かしこまりましたァ」

 似合うも何も、眼鏡を取られている以上、原子から見えるものといったら、鏡に映った、ぼやけた人型でしかない。しかしまぁ、「美容師」がいうのなら、悪いようにはなっていないんだろうと、そう信じるほかはない。切られた髪はすぐ生える。一瞬覚えた不愉快をそのようにして呑み込み、眉毛よりも明らかに上に入っていったハサミに目を瞑れば、快適な時間ですらあった。当初、このまま顔の皮を引き剥がされるに違いないと、恐ろしい妄想をしていたのもつかの間、前髪から全体の毛先を揃えられている内に、知らず知らず舟を漕ぎ、「お客サーン」と、男から窘められるぐらいにはなっていた。成程そうだ、この男は、美容師だったか。そういう職業ならば、美意識の高さにも納得がいく。いや、事あるごとに整形を勧めるのは、どうかと思うけど……


「はい、サッパリしましたよ ついでに目元を涼し気な形にするのは如何です?」

「……結構です、えーと」

 心なしかぼんやりとした意識の中で、原子は促されるまま鏡の前の台に手を伸ばす。しかし、眼鏡らしきものは見当たらない。

「コンタクトとかにされないんですかぁ?」

 サービスのほうじ茶を倒さないよう、原子がいたって慎重に、台の上に手を滑らせているのを眺めながら、店員口調で男は問うた。

「いや、眼鏡の方が、気楽なんで」

「不便じゃありません? じきに季節も変わりますしィ、案外その方が、お似合いになるかもしれませんよ? アッ、余計顔が簡素になる?」

「眼鏡が良いんで……あの、眼鏡どこですか。」

 口端を曲げる原子をクスクスと細やかに笑いながら、男は先刻、切った髪が掛からないよう隣席に置いた、眼鏡の入ったプラスチックケースを手に取った、が、一旦それを置き直し、

「眼鏡の前にお客様、ひとつ。ちょっと毛先を、整えますので、」

 ああそうか、と、原子は腰を上げかけた椅子に、深く座り直した。相変わらず、はっきり見えるのは手元ばかりで、鏡も何もかも全てが、水彩で描いたように靄掛かっていた。それにしても、静かだ。いや、さっきから、何かしらの音楽は掛かっている、ような気がする。平日だからだろうか。それにしても、美容師で一人きりのシフトって、あるんだろうか。この人、店長とかだったりするのかな。バチン。猛烈な音によって、原子の思考は遮られた。遅れて右耳の耳朶に何か、弾かれた、みたいな? いや、叩かれた? 何にせよ、これまでに感じた覚えの無いような強い熱さが、耳朶の上を走り過ぎた。あまりに唐突、前触れの無いことで、声も出なかった。声帯が引き絞られ、急速な緊張に冷えた息が、じっとりと喉を降りていく。何が起きた? ついに耳にハサミが入ったか? 椅子の肘掛に何気なくかけていた自分の腕が、小刻みに震えている。

「折角ですしもう一つ、こちらサービスになりますから、 ね、 恐れてはいけません。様々な存在、様々な在り様、様々な可能性を、  変化を、 楽しみましょう! 」

 ひたすら熱い耳元で、ゆったりと澄んだテノールが、歌うみたいに笑って言った。



 そこからどのように帰宅したのか、原子には記憶がなかった。ベッドの上に寝そべり、気を失うように眠ってから、ようやくひと心地が着いた。恐ろしい夢だった、というには、全ての感覚が、いやにはっきりとしていた。頭は軽いし、すっきりとしている。右耳はまだ微かに、じくじくと熱い、いや、痛い? もしかしてこれ、何か変な形になっているんだろうか、整形って奴を喰らってしまったのかと思い、原子は絶望的な心地で鼻を啜り、ベッドに横たわったまま、枕元に転がっていたスマホを手に取り、痛む右耳を自撮りした。そうして見たところ、一見して、耳の形は正常だった。となると、散髪に行ったことは現実であったにしても、途中からのアレは、微睡みと覚醒の最中にある、ぼんやりとした頭の見せた、ひとつの白昼夢だったのだろうか。

 しかし、まぁ、いずれにせよ、確かに髪は切れているし、財布が妙に軽かったから、代金もちゃんと支払っている。耳にしっかり違和感が残っているけれど、そこに整形を加えられた訳でも、なさそう、で。

 インカメラのまま冴えない自分の顔を眺めていた原子はその時、あるべきではない場所に存在する色に気が付いた。不審に思い、少し顔を傾ける。それに合わせて、耳朶が不自然に光る。金色。

「あ゛っ」

 原子は針を嫌っていた。これには、何という訳もない。嫌いなものは、ただ嫌いなのだ。その原子の右の耳朶に今嵌っているのは確かに、間違いなく、これは、たぶん、ピアスだ。言われてみれば耳朶にある痛みは、弾かれたとか切られたとか焼けたとかいうよりは、貫通したというもののような気さえしてくる。今、右耳に、針が、突き刺さっている! 原子はどうしようもない現実から逃げるように布団を被る。しかし針に突きさされた右耳は当然、原子について回っていた。恐ろしい、今すぐ除去したい。無理だ、自分で外せるわけがない。しかし、折り入って頼む相手も居ない。親に頼む? わざわざ実家に戻って、それで、無意味に心配を掛けるだけだ。医者にかかる? どこにかかればいい。だいたい、アレは何だ。どういう訳で唐突に、しかも不本意に、右耳に穴をあけられてしまいましたと言うんだ? そもそもこれ、傷害じゃん。しかし訴えるにしてもだ、あれは、誰だ? 先日の予約サイトから、かの美容院の情報を検めたとて、スタッフ一覧の中に、あの顔らしいものどころか、あの顔に少しでも近いようなものは、一つとて見当たらなかったのだ。

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