泥中の蓮

弓月いのり

第1話

 どうやっても消せないものがある。

 大怪我の傷跡、懐かしい思い出、スプレーで書かれた壁の落書き、家族との血の繋がり、犯罪者の前科、失恋で流した涙。

 みんな、刻まれている。個人に、あるいは普遍的に、まるで玄関に飾られた写真のようにそこにある。それはただそこにあるだけなのに、どうしようもなく強制力を伴っている。

 きっとそれは、誰にでもあるはずのもので、そして、もちろん僕にだって例外ではない。

 消えないそれは、まるで呪いのように。

 僕の体に、あるいは、心に。

 こびりついて、息づいている。







 多くの学生が学校帰りに寄り道をする金曜日。

 野暮用を終えた恐山零治は、待ち合わせの校門へまっすぐ向かった。


「兄さん、お疲れ様です」


 場違いなほど恭しい所作で零治を迎えたのは、妹の輪廻だ。

 肩口をくすぐる程度のところで切り揃えた黒髪。日本人形を思わせる静謐な美を湛えた顔立ちで、体の線は細いが陶器のような白い肌が艶めかしい。

 街を歩けば性別など関係なく誰もが振り返るであろう美少女。

 唯一欠点を上げるとするならば、表情の変化に乏しいことか。


「ごめん輪廻、待たせた」

「いえ。では、帰りましょう」


 帰路に踏み出す二人。先を歩く零治と、一歩後ろから追従する輪廻。やや古めかしいその構図は、けれど二人からすると自然なことだった。

 ただ、零治としては普通に隣を歩いてもらいたいと願っているが、このようになったのは数年も前のことなので、半ば諦めの気持ちでいる。


「そういえば、今日、姉さんは帰りが遅くなるそうです」


 優しい追い風が後頭部を撫でるように、輪廻の柔らかな声音が零治の耳に届く。


「もしくは、帰らないかもしれない、と」


 零治の肩が僅かに跳ねる。

 社会人の姉は25歳で、金曜日に帰らないからといって周りが何かを心配するような年齢ではない。それどころか、人によってはそろそろ結婚という考えが頭をよぎるであろう。

 そんな彼女が、今日は家に帰ってこないという。


「……そうかい」


 それがどういうことを意味するのか。

 予測、あるいは想像。零治の脳裏には、男性と親しげに夜の街へ繰り出す姉の姿が映った。そしてそれは、零治の胸の内に様々な感情を発火させた。嫉妬、羨望、焦り、苛立ち、怒りなど、それらはどうしようもなく不快な感情だった。

 けれど零治は、妹の前で取り乱すまいと唇を噛み、衝動をぐっと堪えた。知らずに拳を固く握り、手のひらには爪がくい込んでいた。


「理由は聞かないのですか」

「聞いて、何の意味があるんだ」


 吐き出す言葉に怒気が混じる。

 零治はしまったと目を見開き、申し訳なさそうに眉を寄せ、輪廻に振り向く。しかし、輪廻と目が合うと、慌てて逃げるように顔の向きを改め、唇をより一層強く噛み締めた。


「兄さん、失礼しました」


 見られもしないのに、輪廻は頭を深く下げる。

 顔を上げた輪廻は、零治の後ろ姿を、ただじっと見つめていた。




 二人が帰宅すると、家の中は暗かった。ただいま、と発した小さな声は、廊下の奥の闇に虚しく吸い込まれていった。

 基本的に、恐山家に帰りを待つ人はいない。母は輪廻を産んでからしばらくして亡くなった。父は仕事で忙しく、滅多に帰ってこない。姉も、今は社会人だが、大学生になってから帰りが遅くなった。

 ほとんどの日々において、零治と輪廻は二人で生活をしてきた。


「では、私は夕飯の準備に取り掛かります」

「よろしく。僕は風呂を入れて、洗濯物を片付けるよ」

「はい。それと、兄さん、疲れたら休まれて構いません。残りは全て私が引き受けます」

「あぁ、ありがとう」


 一見、仲の良い兄妹の家庭的な会話だが、その実態はエゴの押し付けと諦めの応対だ。

 二年前まで家事のほとんどは輪廻が担っていた。それはただ一心に兄のためを想う献身からだった。

 けれど、零治はそれを快く思っていなかった。気持ちはありがたいが、尽くされてばかりでは居心地が悪かった。それに、与えられるだけでは、輪廻に対して不誠実だと思った。

 そこで零治は家事の分担を提案したが、当初の輪廻はそれを拒否した。結局、数日に及ぶ説得に輪廻は折れたが、毎日決まり文句のように「兄さん、疲れたら休まれて構いません。残りは全て私が引き受けます」と言い続けていた。

 飽きるほど聞いた台詞を、零治はいつしか適当に受け取るようになった。


 それぞれの分担する家事を終えると、やがて二人は食卓を囲んだ。

 食事の時間は静かだ。もともと二人とも話すのがあまり得意ではない。静寂を紛らわすために付けたテレビからは、予定調和のように笑い声が漏れ出ている。

 零治は食べるのが遅い。いつも先に輪廻が食べ終わる。輪廻はただじっと零治を見つめている。零治は食事の最中に見つめられると居心地が悪くなり、食べるペースは遅くなる。


「ごちそうさま」


 しばらくして、食べ終わった零治がそう言うと、輪廻はいつもの無表情を僅かに崩して、微笑を浮かべた。


「お粗末さまでした」


 輪廻が感情を見せるのは、ほとんどが零治の前でだけだった。


 食事を終えると、二人は各々の時間を過ごす。

 風呂と歯磨きを済ませた零治は、二階の自室で勉強をしていた。受験生の彼は宿題が多い。

 宿題に、授業の予習と復習、自主学習を終えると、すでに日付を跨いでいた。

 固まった体をぐっと伸ばす。翌日、というか、今日は土曜日だ。遅くまで勉強しても支障はないので、もう少し続けようか。

 そう思案していた零治の部屋に、控えめなノックの音が響く。タイミングを見計らったかのような来訪に、零治は困ったような表情をした。

 近づき、扉を開く。やはりというか、そこに立っていたのは輪廻だった。

 輪廻から縋るような上目遣いを向けられ、零治は胸が締め付けられるように苦しくなった。


「兄さん。今日も、お願いします」

「……あぁ」


 恐山零治は、どうしようもなく、恐山輪廻に抗えない。







 どうやっても消せないものがある。

 それはまるで楔のように、心に深く打ち付けられていて、決して切り離すことはできない。

 後悔するにはもう遅く、何かを変えるには行き過ぎた。

 ただ、深く。全身が底のない沼に浸かる感覚に、逃れようもなく慣れてしまっていた。

 ベッドのスプリングが軋む。それはまるで薄氷にひびを入れるかのように、しんとした暗闇の中で断続的に鳴り響いていた。

 淫らな水音と打ち付けるような肉の音が、僕の意識をどこにも行かせないように、この場に縫い付けている。

 虚空を見つめる僕の上で、少女の華奢な体が跳ねている。ピクリとも動かない僕に跨って、熱い息を吐き出すその姿はいっそ健気だった。

 日に日に増していく罪悪感。けれど、今日もまさったのは欲望の方だった。


「……ぁ……にい、さん」


 それはまるで、呪いのように。

 消えない罪が、いつまでも、僕の心に巣くっていた。

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泥中の蓮 弓月いのり @allalone

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