残った絵画 壱
「おはようございます。」
「おはよう、……………………ふわぁぁ…藍琉。」
寝癖の付いた髪を掻き回しながら、師匠は大きな欠伸をした。
「師匠、また夜中にテレビゲームをしていましたね?」
私は呆れながらぼそりと言った。途端に師匠の顔がムンクの叫びのように縦に伸びて固まった。顔にはしっかり、「何でわかるんだ!?」と書いてあった。
ブリキの玩具のようにかくかくした動きで、
「何のことかだか、さっぱり分らないな、ところで今日の予……。」
「師匠の顔にあるクマの出来方で分りますよ。時間帯で言うと午後十時から午前三時位まで、五時間もぶっ続けで出来るゲームと言えば対戦ゲーム。何故ゲームに限定するかというと、昨日は月曜日、師匠が好むアニメ番組やノンフィクション系の科学番組はやってない。確か、昨日から星屑館に戻ってきたゲームクリエイターのエオさんが師匠に話し掛けていましたよね??????????????」
最大限まで口角を上げ、私は師匠を見上げた。
師匠は、紙のように白い顔で、
「すいませんでした。」
と、敗北を宣言した。私はまだまだ言いたいことがあったが、
「仕事との兼ね合いを考慮して頂けるとありがたいです。」
とだけ言った。
「ああ、ばれなかったら今日も遊べたのに。」
心底残念そうにぼやく師匠を置いて、私は歩き出した。慌てて師匠が追いかけてくる。
「ばれないように遊べばいいじゃないですか。そもそも私は、夜更かししてまでゲームをすることについて申し上げただけです。睡眠は大事ですよ師匠。」
「じゃあ、ゲームは没収しないんだね!?」
「そんなに仰るのなら、没収しましょうか!?」
嬉々と声を上げる師匠に向かって私は声を張り上げた。
私は師匠の弟子であり、秘書のような補佐役であるのであって、保護者ではない。大体、中学三年の女子が高校二年の男子のゲームを取り上げるなんて、そんな奇妙な話、本を割と読む私ですら見聞きしたことがない。あってたまるか。
朝の冷たい空気の中、優美な階段を下りる足音がやけに大きく響いた。
数段ほど上から、師匠が、
「その観察眼はどこで身に付けたんだい、藍琉?」
と質問してきた。
観察眼も何も、普段から一緒にいる相手のことくらい分るだろう。
そう思って私は、
「誰でも分りそうなものですが?」
と聞き返してみた。階段を下りる足を止め、後方に目を向けて、立ち止まった。
師匠を見上げる形は普段と変わらないが、階段の段差がある分、師匠がより大きく見えた。師匠は、不可解なものに遭遇したような、言い表しにくい表情で言った。
「誰でも分らないから訊いてるんだよ。目のくまで、夜更かししていることは分っても、時間帯まで分らない。僕のスケジュールを完璧に把握してても、夜の空き時間は、午後九時から起床時間の六時までの約九時間だ。それも日によってばらつきがある。それなのに、僕の顔を見ただけで全部見抜くなんて驚きしかないよ。」
私は、何だかもやもやした気分になった。たまに、言われる言葉で、あまり納得出来ない言葉の一つだ。
「何で分るの?」
誰だって分るでしょう?
私は気付いたら、師匠に対し、あからさまに不機嫌な態度をとっていた。
返事もせずに、階段を足早に下り、正面玄関に続く廊下を歩いていた。
そんな私の後を、何も言わずに師匠はついてきた。
蚊の鳴くような雨小さい声で、
「才能だと思って言っただけなんだなけどな。」
というのが背後から聞こえたが、私は気付かないふりをした。
何が才能だ。
芸術の世界では、名前すらない。普通の公立校に通う、恐ろしく運動神経の悪い生徒。それが私だ。出来ることと言えば、他の芸術家の仕事の補佐くらい。お客様にお茶を出したり、書類を片付けたりする程度だ。
あとは、師匠の仕事に同行するくらいだ。
今みたいに。
そんな自嘲と嫌悪が混ざって私の心を覆い尽くした。
道中の車の中で、私は師匠に今日の予定を確認した。
「今日は、秋山先生のお宅に訪問。共同で作り上げる個展の詳細の確認と、画家同士のお茶会です。」
「大部分お茶会だよ。秋山先生だもの。」
私の膝の上に乗っている土産物のお菓子の袋を見ながら、師匠は言った。
無類の甘味好きである画壇の秋山先生を思い浮かべているようだった。
細身のスーツに身を包んだ、粋な老紳士の秋山先生は、御茶目な性格をしているのだが、気に食わないことがあると子供のように機嫌を悪くするので、師匠はかなりやり取りに気を使っている。
私は窓の外を流れる景色を見て、気持ちを整えようとしたが、分厚い鉛のような雲が空を覆い始めていることに気付き、傘を持ってこなかったことを後悔した。
一番弟子の悩み事 梅庭 譜雨 @sakura20021102
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