第四章

 庭先で高階隆明が弓の稽古をしている最中だった。

 家臣の一人が「失礼いたします」と声をかけて中に入ってくると、足早に近づいて何か耳打ちした。

「何? 靭実が?」

「はい、どういたしましょう。」

隆明はしばらく考えるようだったが、すぐに「通せ」と返した。

「こちらに、で、ございますか。」

「そうだ。」

「はっ。」

男はそう答えると、またそそくさとその場を去った。

 ややあって足音の近づく音がきこえると、先ほどの男と、簡易な戦装束をつけた小坂靭実が足早に現れた。

 少し疲れた様子を見せている。

 隆明に足早に近づき、少し手前で片足だけついた状態でひざまずいた。

 頭を下げる。

「ただいま戻りましてございます。」

隆明は靭実の方を見ずに、弓をひきながら、

「うむ。して、どうなった。」

靭実はその言葉に即答しなかった。それからさらに深々と頭を下げると、

「申し訳ございませぬ。しくじりましてございます。」

隆明はひきかけた弓をやめ、靭実の方に視線を向けた。

「仔細を申してみよ。」

「お館様のお言いつけどおり、五十の兵をつれ山越えし、村へと侵入いたしました。夜明けとともに村を襲い、村人を人質にとり、村の長老と巫女姫と交渉、巫女姫は村人の安全確保を条件に我らの元へ参ると約束いたしました。」

「それでなぜしくじる。」

「はっ、それが…。その夜我らの兵は何らかの手を使って眠り薬をかがされ」

「眠り薬? どうやって。」

「判明いたしておりませぬ。」

「――続けよ。」

「はっ、その隙をみて村人は一斉に村を脱出いたしましてございます。翌朝、一人残りました巫女姫を生け捕りにせんと試みましたが、激しく抵抗、結果この靭実がうちとりましてございます。」

隆明はそこまできくと、持っていた弓と矢をそばに仕えていた小姓に手渡した。

「村人に逃げられた。眠っておる隙にか。」

「はっ。申し訳ございませぬ。」

高階隆明は静かに靭実をみつめた。

 頭を下げたままの靭実の、その頭を見ながら、

「巫女姫はなぜ村に残ったのだ。」

靭実はぎくりとした。頭を下げたまま答えずにいると、

「巫女姫はなぜ逃げぬ。そやつは空を飛べるのだろう。」

 その場がやけに静かになった。

 隆明も、小姓も、靭実をつれてきた男も、誰も黙っている。

 靭実は答えなかった。 

 いや、答えられなかった。

 小夜はなぜ逃げなかったのか、なぜ、討たれたのか、それを即答できるだけの言葉を靭実が持たなかったということもある。

 靭実は固く口を結んだ。それから、

「申し訳ありませぬ。巫女姫が一人村に残ったわけは、私にも判然といたしませぬ。ただ、残りましたので、生け捕りにしようといたしました。しかし、激しく切りかかってまいりましたゆえ」

「切りかかった? お前に?」

隆明は笑いをもらした。そしてことさら大声で

「女の巫女姫がか!」

言うと、はっはと笑い声を立てた。

「わしは、お前の剣の腕は、敵方にも知れていると思っておったがな。巫女姫が? 切りかかったと?」

「は、しかし、巫女姫もなかなかの使い手でありまして、その剣を避けて生け捕りにすることかなわず」

「殺したと」

靭実は大きく息を吸い込み、ことさらに大きな声で、「申し訳ありませぬ。」と発した。そして袂から白い布包みを取り出すと、隆明に差し出した。

「巫女姫の遺髪にございます。」

「遺骸はなしか。」

「はい、村人が逃げました以上、敵の追っ手の不安もあり、その上遺体を抱えて山道を越えるにはあまりにも兵の負担になりますゆえ。」

「ふん。」

 隆明は小姓に目配せすると、小姓は靭実からその布包みを受け取った。小姓がそれを隆明に渡すと、隆明はその包みを開いてみた。

 血のついた女の髪だ。

 血は、白い包みの布にも付着している。

 隆明はその布包みに目を落としながら、つぶやいた。

「判然とせぬな。」

「はっ。」と答えて靭実が顔を上げると、

「判然とせぬ、と、申した。」

靭実は隆明と目があう。

 その隆明の目は、怒るでもなく、蔑むでもなく、ただ、静かに靭実をみつめている。いや、そこには何か理解できない、納得できないという風情の色が浮かんでいた。

「なぜ、逃げられるものを逃げぬのか。なぜ、お前に勝負を挑んだのか。」

靭実は隆明に向けた視線を、彼からはずした。そのまますぐと下へ落とした。隆明はしばらくその靭実の姿をみつめていたが、手に持っていた巫女姫の遺髪を布包みごと地面に投げてよこすと、

「よい、この後の詳しい消息は、敵方から漏れきこえてこよう。とりあえずは、敵方の脅威は消えた。下がれ。大儀であった。」

「はっ。」

靭実は一礼して、布包みを拾いあげ、懐にしまった。

 立ち上がり、また一礼して、その場を後にした。

 立ち去り、門へと歩を進める靭実の心の中で、さきほどの隆明の言葉が心の中によみがえる。

 ――なぜ、逃げられるものを逃げぬのか。なぜ、お前に勝負を挑んだのか。

 その高階隆明の問いは、小坂靭実自身の問いでもあった。

 村から山を越え、この館へ到着するまでの間中、ずっと考えていたことでもあった。

 なぜ、小夜はあの時、逃げなかったのか――村に残ったのか。

 あの時は、はめられたがために、気持ちがたかぶって、落ち着いて考えようともしなかった。

 残っていたこと、それ自体がおかしなことだと。

 ――私はどこへ逃げても同じだからだ。

 私は、心乱せば気を乱し、見とうもない先の世まで見えてしまう。所詮私は、運命からは逃れられぬ。どこへ逃げても、真には自由にはなれないのだ。

 ――知らねば良かったのだ。普通の生き方になど、運命になど、気付かねばよかったのだ。そうすれば、大木村の巫女姫として生き、村人達に言われるがまま、ふさわしくその職をまっとうしたであろうに――お前のせいだ! お前がいなければ、私は自分自身に疑問を抱くことなどなかったのだ。こんなことにも、ならなかったかもしれない。

「『お前のせいだ』――だから俺を殺してから、行くと――」

靭実は一人ごちた。

 考えてみればおかしな話だ。たとえ本当に殺すことが目的であったとしても、わざわざ靭実が最も得意とする剣を持ち出すことはないだろう。小夜のもつあの力でもってすれば、殺意があれば人を殺すこともたやすいはずなのに。

 おかしな話――本当なら、あの小夜が剣を持ち出したときに気付いていなければならなかった。

 そして、そこからどうつながれば、わざと斬られた理由が――そう、わざと斬られたのだ。

 ――なぜ、わざと斬られた、小夜!

 ――皆が…幸せにならねばの。だから…私は…だから、お前に斬られたかったのだ…。

 「お前に斬られたかった」――俺に殺されたかった――と?

 言葉の意味がさっぱりわからなかった。

 自分に斬られることで、何が幸せなのか。

 それではまるで、そのために残り、剣を持ち出したようなものではないか。

 殺されるために残っていたようなものではないか。

 それが幸せだと?

 俺に斬られることが幸せだと?

 帰途につきながら、靭実はずっと小夜のこの言葉を頭の中で繰り返し、その理由を探ろうとしていた。

 そしてなぜかはわからない、今更小夜の真意が汲めるはずもないのに、彼はなぜかずっと、その真意をつかまなければ、何かとてつもなく大きな罪を――間違いを犯したような気持ちから、逃れることができないような気がしていた。

 これは何なのか――あの女は自分に、何を残したのか――。

 かつて惚れた女の、その死の悲しみよりも深く、何かが、大きなくさびとなって自分の中に残ろうとしている。

 囚われようとしている――。

    


 由良の館の横手にあたる由良神社からなら、この村の位置が少しはのみ込めるだろう、巫女・橘にそう言われ、まだ体の思うようにならない信乃は、六佐に抱えられて館を出た。館の外に出ると、北東に開けた土地が一望できた。由良の館は少し高台にあり、土地も視界の開けた明るい土地だった。東と西の違いはあるにせよ、背後に山がそびえているのは大木村とかわらない。しかしこの地は、大木村よりも標高が低く、南に下るせいか、見渡す限りの村の中に雪が一つも見えなかった。

 館も、大木村の長老の家よりもずっと立派で大きい。

 その当主に挨拶しようと橘に尋ねたが、当主は大木村に敵が侵入した一件で朝からお館に召集され、不在であるとのことだった。

 布団の上でとった朝食の途中、当主・藤吾の妻が信乃の様子を見にきたが、顔色が悪く体調もすぐれぬようですぐに部屋に戻ってしまった。

「あれはの」と、橘は、藤吾の妻が去った後で言った。

「あれは、心の病よ。自分の実家が稲賀に攻め滅ぼされたに、未だにこの地が稲賀の領地で、稲賀につかえているのが受け入れられぬ。その心の歪みが生んだ病で、ずっと伏せっているのだ。」

「いつのことでございますか?」

「さて、五年ほど前のことかの。」

ちょうど稲賀がいくつかの領地を新たに手中に収めた頃だった。そうした恨みが募ったものが何人かいても、それも仕方のないことではある。

 橘は食事の間、この由良の家のこと、村のことなどを信乃に説明した。

「この土地は稲賀の領地の未申(ひつじさる)の位置にある。佐伯との国境に面し、鬼門の守りとしても要衝の地としてもある土地である。ゆえに警護も固く、他国のものなど侵入する余地はない。由良どのはその要衝の地を守るお方であり、また、由良はこの地には古くから長者として誇った家柄でもある。由良どのの伯母上は稲賀政秋どのの弟君の乳母も努められた。稲賀との縁故も深い。」

「故に、安心せよ、と?」

「そうだ。」

 この食事の最中にも、信乃はいったいこの巫女は、どこまで姉のことを知っているのだろうと考えていた。巫女だけが知っているのか、それともこの家のもの全員か、村の者全員が知っているのか。

 もし巫女だけが知っているなら、今給仕の手伝いをしているあきがいる手前、そのことを聞き出すわけにもいかなかった。この巫女はさておき、『巫女姫』としての力を知られていれば、村人に自分がその妹であることを知られることは危険かもしれない。

 信乃は直感的にそう思ったのだ。

 橘は土地のことに加え、由良の家族構成を一通り説明し終えると、しばらく目を閉じたまま動かなかった。

 ところが、信乃の朝食が終わり、あきが部屋から出て行くと、目を開き、「さて」と言って姿勢を改めた。

「話をするだけの力はあるかの?」

その問いに、信乃はうなずいた。

「ふむ、まあ無理はせずともよいて。」

そういいながら橘は笑った。

「そなたの姉御のことじゃ。巫女姫小夜どののことだが」

そう言われたところで、信乃はまた愕然とした。それに橘は気付いたふうで、またふふと笑った。

「何、それほど動じることはない。我らは稲賀どのより各地に遣わされた巫祝ゆえ、稲賀どのより大木村の巫女姫どののことは聞き及んでおる。巫女姫の力が、村の秘密であり、その秘密は外にもらさぬという、約束もな。」

「だからといって、私がなぜ巫女姫の妹だと」

「おぬしの持っておった玉に尋ねた。」

そこでまた、信乃はこの目の前にいる女が巫女であり、特別の力を持つ女であることを思い出した。

 この人も、姉のように、気を操ることはかなわなくても、人知の及ばぬ力を持つことに代わりはないのだ。

 要衝の地に遣わされた巫女であれば、その力も強大であるのだろう。

「何があった。」

橘は唐突に尋ねた。

 信乃は思わず、橘の顔を見た。

「高階隆明が家臣、小坂靭実が五十の兵を率いて村へ入り、巫女を引き渡せといったところまでは聞き及んだ。それで、巫女が奇策を用い、村人を逃がしたこともな。高階は、おぬしの姉君が特別な力を持つことを知っておった上で、おぬしの姉の身柄を求めたのか。」

 信乃は橘の顔を見ながら、その目元のキリリとした表情と同じく、体にまとう空気もまた、清涼なものなのだと思った。

 でも、姉とは違う。

 近年の姉の冷たさとはまた違い、冷たくはないが聡明で、どこか策士めいた政のにおいがする。

 こんな巫女もいるのだと思った。

「信乃よ。どうだ。」

再び橘が問うので、信乃はこくりとうなずいた。

 その信乃の答えに、橘は「ふむ」とだけつぶやくと、やや間があって、

「高階は、どうやってその秘密を知ったのであろうの。」

と尋ねた。

 途端に、あの日の小坂靭実の姿が脳裏によみがえった。

 大声で叫びそうになる衝動がふいに起こり、ここで叫んではならぬという気持ちと戦った。

 その叫びを飲み込む。

 口に手をあててこらえたが、体から汗が噴き出した。

 とまらない。

「ああ」と声が漏れて、息が激しくなった。涙がこぼれる。

 それを見て橘が、慌てて近づいた。

「すまぬ。」

橘が背中に手をかけながら、声をかける。その声とともに、涙があふれてきた。

 こらえようとするのに、まだあふれてくる。

「すまぬ、まだ無理だの。今目覚めたばかりでは、無理か。」

橘は信乃の背中をなでた。

 まるでその場にいるかのように、小坂靭実の姿がよぎる。

 目の前に、ほんの数日前村に再び現れた、敵将の姿が、いくつも、いくつもよぎり始める。

 あの精悍な顔立ち、精悍な姿の男が、信乃の脳裏をかけぬけていく。

 すべてを壊した男の姿が――。

「いつかは必ず――」信乃は涙を抑えて橘に訴えた。「いつかは、いいえ、近いうちに、必ず、お話いたします。話さねば――ええ、必ず…。」

 そういう信乃の涙は絶えることはなく、息は荒かった。

 橘は、信乃の体から、ほのかな憎悪を感じ取った。

 今芽生えたろうか――それはそれは、小さな小さな憎悪だった。

 

 

 結局、その後橘は信乃に尋ねることをやめた。

 気晴らしを兼ねてこの村を見たらどうかと言った。まだ歩くには体も耐えぬであろうから、六佐を使えと。

 大木村は山の陰になって見えぬだろうがの、とも断った。

 言われるままに信乃は外に出ることにしたが、この六佐の存在ではじめて、この巫女が歩けぬのだということを知った。

 由良の館の脇にある由良社への石段を、六佐の両腕に抱えられてのぼっていく。

 六佐は身の丈六尺はゆうに超える大男で、軽々と信乃を抱えあげていた。

 石段は狭く、思いのほか長かった。一番上に到達すると、さほど広くない境内があって、社殿が見えた。

 「由良神社」と書かれている。

 そういえば橘に祭神を尋ねなかったと思い、抱える六佐に尋ねようかとも思ったが、先ほどから見るに、この男にきいても答えはきけないように思えた。

 境内から、石段の前に立って村を眺めた。

 思いのほか、石段の脇の木が茂って、よくは見渡せない。ただ、稲賀の領地が広がる盆地の、一番南西のどんずまりにこの土地が位置していることだけはわかった。

 大木村は、見えようもなかった。

 ざあっと木々をゆらして、風がふき抜ける。

 信乃の髪もゆらした。

 同じ神社の境内であるのに、女神山と由良とでは、なんと景色の異なることよ。

 行方も知らぬ――

 ふと、そんな歌が心によぎった。

 由良の門(と)を渡る舟人かぢを絶え行方も知らぬ――

 その歌に、信乃の目からはたはたと涙がこぼれた。

 姉さま――!

 あの夜の、小夜の姿がよみがえる。

 ――行く当てもなく、不安で、苦しい日々が続くだろうが、耐えて、生きていけよ。やがて幸福も訪れよう。

 姉さま――!

 ――達者でな。

 姉さま、姉さま、姉さま、と、心の中で何度も姉を呼んだ。

 その声は届くはずもなく、ただただ涙ばかりがあふれて落ちる。目の前の村の景色は変わらず、ぼろぼろと涙が頬を伝った。

 おそらくここからでは、姉とともに眺めた夕日も見えぬだろう。

 ふと、信乃の頬を布の気配がよぎった。左腕で信乃を抱えている六佐が、哀しそうな顔をしながら信乃の涙をぬぐおうとした。

 六佐の持っていたのは、白い手ぬぐいだった。

 六佐は「うー…」と声を上げて困った顔をした。

「泣く、からだ、よくない」

 信乃は驚いてしばらく六佐の顔をみつめていたが、六佐からその手ぬぐいを受け取って涙をぬぐった。

「ありがとう、優しいのですね。」

と礼を言った。

 途端に六佐が赤くなって恥ずかしそうにした。

 純情なよい男だと信乃は思った。

 思うとまた涙があふれてくる。

 確かにひどく体もだるくて、つらい。

 「もう戻りましょう」と信乃が六佐にいうと、六佐はうなずいて石段を下り始めた。

 と、その時、石段の下から大勢の人の気配がした。見ると、若衆が神社に集団でやってくるのが見える。ほうきや布などの掃除道具一式を持ってあがってくるようだ。

 その先頭になって歩いてきた少年が、信乃の姿に気がついた。

 ぱっと嬉しそうな表情に変わるのがわかる。

 石段を下りる信乃と六佐、上がる若衆の一段が、ちょうどすぐのところに近づいたとき、先頭の少年が、「お目覚めになられたのですね、体は大丈夫ですか。」と声をかけた。

 信乃がわからないという感じで戸惑っていると、少年はああと声をあげ、

「その、そこの、由良の家の、二番目の息子です。えーと」

「あ、藤吉郎、さま。」

「え」

「お助けいただきありがとう存じます。」

言って信乃は六佐に抱えられたまま頭を下げた。

「いや、そんな、助けたなんて、藤吉郎、さま、なんて、そんな、そんな…」

藤吉郎がしきりに照れていると、横から別の少年が、

「おい、六佐、いいな。鼻の下がのびてるぞ。」と声をかけた。

六佐は六佐でぎょっとし、思わず鼻の下を手で隠した。

 その姿に少年達がわっと笑い声を上げる。

「皆で、新年の準備に今日から社の掃除なのです。無理をされぬよう、早く元気になってください。」

そう言って藤吉郎が頭を下げると、信乃もつられるように頭を下げ返した。

 一団もめいめいに頭を下げ、階段を上がって行く。

 藤吉郎は今由良社の社主である藤吾の叔父に男の子がないために、その後を継ぐだろうといわれている子供だと教えられた。

 時勢上、戦場にも出るのだとも。

 石段を下りるとき、六佐の肩越しに藤吉郎をもう一度のぞき見しようと顔を上げると、一団の若衆全員がこちらを見ていて、驚いて顔を隠した。

 「かわいい」「かわいい」と密かにささやく声が聞えてくる。

 ところが、「失礼だ」という藤吉郎の声とともにごちっという音がきこえてきて、その声は一斉に静かになった。

 それでもう一度肩越しにのぞきこむと、こちらを見ていた藤吉郎と目があう。

 思わず頭をさげると、藤吉郎も下げて返した。



 井戸から水を汲み上げて、日の光の中でみてみると、見ようによってはその水の表面に顔が映る。六佐は由良の館の庭先にある井戸から水を汲み上げて、冬の日の陽射しの中でああでもないこうでもないしながら、自分の顔をのぞきこんでいた。

 六佐の気になるのはただ一つだった。

 本当に鼻の下がのびたのかしら…。

 光の中でああだこうだとのぞいていると、見るうちに、本当に鼻の下がのびたように見えてくる。元に戻らないのかしらん、橘の君に叱られるかしらんと思いながらみつめていると、

「六佐、何をしているの。」

後ろから声をかけられ、心の臓が縮みあがりそうになった。

 ふりむいた。

 この家の娘、きよらである。

 村の娘たちの集まりに出た帰りなのか、大きな布の包みを抱えて立っていた。

「そんな桶とにらめっこして何か楽しい?」

しばし呆然とした六佐であったが、質問の意味がわかると、慌てて首を横にふった。

「お前今日は暇そうね。私がでかける前からそこにいるじゃないの。」

 一昨日から昨日にかけて、橘の君のお遣いで長旅をしていた六佐にとって、今日は休息の日なのだ。午前中は昨日助けられたとかいう信乃をつれて神社まででかけたが、午後はこれといってすることもなく、橘の君にも「控えずともよい、休んでいよ」と言われたのでここにずっとこうしている。

 別に疲れてはいなかった。

 昨夜の睡眠で十分元気になった。

 それで午後は午前中から気になっていた「例のこと」を確かめるために、腐心していたのだ。

 ところがきよらが声をかけたので、やっと我に返ることができた。

 それで六佐は、自分の鼻の下が本当にのびたのかと、きよらに尋ねようかと思った。

 しかし、さて、本当にのびていたとしても、どうしたらよいか不安なので、しばらくためらっていると、

「何よ、何か言いたいことでもあるの?」

ときよらがかえって詰問するような口調で尋ねてきた。それで仕方なく、

「鼻の下、のびた」

おずおずと言った。

「は?」

「六佐、鼻の下、のびたか」

その質問にきよらは最初何を言っているかわらかぬふうだった。

 が、すぐにうふふと笑うと、

「そうねえ、のびてるわ。う~ん、…二寸ほどはのびてるわよ。」

 きよらは右手の親指と人差し指で二寸の長さを形作ってみせた。

 その瞬間、六佐に衝撃が走った。

 思わず「えっ」と口を開ける。

 それは、雷鳴がとどろき、地が震えるような衝撃だった。

 桶を抱える六佐は、呆然とその場に座り込んだ。

 そこへ、どうっ、どうっという声とともに蹄の音がきこえてくる。

「父上!」

きよらは馬上の藤吾に叫んだ。当主の由良藤吾だ。

「おかえりなさいませ、父上!」

「ああ、きよら、今帰ったぞ。」

言いながら馬から降り、その手綱を同道した共の者に預けた。

「昨日の娘御はまだ目覚めぬか。」

「一度起きられました。玄水さまがおいでになり、お薬を処方していかれました。今お休みですが、父上がお帰りになられましたら、起こしてほしいと。」

「何、休んでおればよいものを。」

「でも、一言お礼が言いたいと。」

「そうか。…娘御は、名はなんと?」

「しのどのです。」

「ふむ」

「お起こしして参ります。」

そう言うと、きよらは急いで屋敷の中へ入って行った。

 六佐があんぐりと口を開けたまま呆然とその二人の様子を見て入ると、その様子に気付いた藤吾が六佐に声をかけてきた。

「六佐、昨日はご苦労であったな。して、そんなところで何をしておる。」

声をかけられても、しばらく呆然としていた六佐だったが、はっと我に返ると、

「は、は、鼻の下…のびた!」

「何?」

「六佐、鼻の下、の、のびた」

変なことをいうと思った。

 それで、藤吾は近寄って六佐の顔をしげしげと眺めた。

「のびてはおらんぞ。」

そう言い放った。

 六佐は我が耳を疑った。

 しかし、六佐の記憶の中では、藤吾は嘘を言ったことがない。

「まことか」

と問うと、藤吾が、

「まことだ。よき男の面構えよ。」

 六佐はしなしなと力なく肩を落とした。

 またきよらが何かふざけたことを言ったのかと藤吾は思ったが、いつものことかと六佐に問いただすのをよした。

「さて、おぬし、そんなところで寒くはないか。橘の君を交えて大事な話があるゆえ、そなたも中へ参ろうぞ。」

 そういって藤吾が屋敷の方へと向かうので、六佐は慌てて立ち上がった。

 その時である。

 家の脇、背後のしげみに、人の気配がした。

 六佐は反射的に振り返った。

 目をこらしてみつめるが、誰もいない。

 いざとなれば、その勘や俊敏さは、忍びにも劣らぬ六佐である。

 いや、そうであるように訓練されたのだ。

 しかし、振り返ったときには、さっき感じた気配はもはや消え、人の気配は何も感じられない。

 「六佐!」と藤吾が呼ぶ。

 それでも六佐の動く気配がないので、藤吾は、「鼻の下はのびておらぬぞ!」と続けた。

 それで、六佐はその追究をあきらめざるをえなかった。

 しかし、自分の勘のめったと揺るがぬことを考えると、どうしても捨てきれず、去りぎわもちらちらとしげみの奥を盗み見る。

 もう一度人の気配がせぬかと、しげみの奥に気をはりめぐらせ続けた。

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