第三章

 橘は眠る信乃の頭の方にまわった。信乃の上座にすわる格好で、例の水晶玉を両手で掲げ、それから眠り続ける信乃の額にそれを乗せた。

 ぶつぶつと唱えながら、信乃の額に乗せた水晶玉に、自らの額をつけた。

 水晶玉から、あふれだしそうになる巫女姫小夜と信乃の記憶が、橘の心をよぎる。

 今はそれを見ているときではないと、その記憶を払いのけた。

 水晶玉の記憶を――。

 この娘の力を封じたときの、あの、記憶を、今一度――。



 風の勢いが緩み始めた気がして、藤吉郎は書物から顔をあげた。

 暗い部屋の中で行灯に火をともしていた彼であったが、外の気配に耳を傾けると、立ち上がった。

 雨と風がやんだなら、少しの時間でも戸を開け放ったほうがよかろうか。いやいや、湿気がひどく立ちのぼっているかもしれないから、このまま閉じたままのほうがよいか。

 彼は外の様子を見ようと、部屋を出、家の表口へと向かった。行灯のともされた暗い廊下を行くと、すぐに表口についた。表口さえも板戸をたてきってある。

 藤吉郎は履きものを履いて土間に下りると、障子戸をあけ、板戸をあけた。

 家の中より明るい外の景色を期待して扉を開けた彼は、すぐさま、その視界がさえぎられるのを知って、思わず後ろに飛びのいた。

「わあっ!」

彼は即座に身をひいて腰をひくく構えた。すると、見覚えのある大男の顔が目に入る。

「六佐!」

岩のようにごつくむさくるしく顔は、その顔の大きさには不釣合いなほどに小さな眼をたたえていた。六佐はその目を藤吉郎に向けることなく、まっすぐ前を向いたまま、懐を探って何かを取り出した。

 藤吉郎に無言で差し出す。

「や、ふみか?」

六佐は小さくうめき声をあげながらうなずいた。

「橘の君に?」

またうなずいた。

「わかった、すぐにお渡ししよう。お前は旅装を解くがいい。」

そういいながら家の中にむかってあきを呼んだ。



 娘の寝ている居室へと藤吉郎は向かった。

 部屋の前で藤吉郎が「失礼いたします。」といって戸を開けると、途端に兄嫁の佐保が「しっ」と人差し指を唇の上に立てた。

 義姉・佐保の真剣な顔を見ていると、佐保は橘の居る方に視線を送った。視線にしたがって部屋の中をのぞきこむと、橘は寝ている娘の頭の方で何かしているらしい。

 何か小さなものを抱えて筆を動かしているように見える。

「よい、もう終わる。」

橘はそう言った。

 それから筆と、持っていた何かを自分の隣に置くと、藤吉郎へと視線をよこした。

「六佐が帰ったか?」

「はい。それで、これを。」

そういうと藤吉郎は部屋へ入って橘に六佐から預かったふみを手渡した。橘は黙ってそれを受け取ると、おもむろに包みを開き始めた。

「どんな具合です?」

と藤吉郎は佐保に小声で尋ねながら入っていった。

 佐保は「それがまだ、なんとも。」と返事をするばかりである。寝入る娘の顔をみつめながら、先程より赤みが差してきたかと思って腰を下ろそうとした矢先、ふみに静かに目を通していた橘が、「藤吉郎」と呼びかけた。

「はい。」

「藤吾どのを――父君を呼んできてはくれぬか。」

「父をですか?」

「そうだ。」言って橘がふみから顔を上げた。「早う。」

そう言われて藤吉郎は慌てて立ち上がった。

 橘は部屋を出て行く藤吉郎をみつめていたが、藤吉郎が出て行くと、今度は信乃に視線を向けた。信乃の額に手をのばし、静かに額の上の髪をなでた。

「なるほどの。道理で…」

話しかける間もなく、廊下に足音が近づき、障子の戸が開いた。

「巫女殿、お呼びとか。」

「藤吾どの。」

「して、何と。娘は目覚めましたかな。」

「いや、まだ。それよりこれを。」

眠る娘の顔を見ながら枕元に腰を下ろす藤吾に、橘は今読んでいたふみを渡した。

「これは?」

「さきほど六佐が持ち帰ったものにございます。」

「さて、どなたからの? 蓮女(れんにょ)どのからでございますか?」

「いや、おふくろさまからではございませぬ。昨日空席だった諏訪社の社主におふくろさまの息子御が一時的にという約束で入られた。その者からです。」

 そういわれて、藤吾は首を傾げながらそのふみを読みはじめた。

 すぐに「むっ。」と声を上げた。読み進めるうちに「くうーっ」と声を立てる。

「高階隆明の兵が、大木村に。」

藤吉郎と佐保がはっと顔を上げた。

「攻め入ったのでございますか?」

藤吉郎は身をのりだした。ふみを読み、未だ返答のおぼつかない藤吾に代わって橘が、

「攻め入ったかはわからぬが、踏み入ったのは確からしい。今朝方夜もあけやらぬ頃、大木村の民数十名が諏訪社に助けを求めにやってきた。将小坂靭実が大木村に兵を連れてやってきて、大木村の民を人質に巫女をよこせと迫ったらしい。」

「巫女ですか?」

「巫女と書いてあるな。」

藤吉郎の質問に、今度は藤吾が答えた。

「なぜ巫女を?」

藤吉郎の又の問いに、橘は答えなかった。

 藤吾も答えるよしもないという風情であったが、「これは…」と小さくつぶやくと、「戦が始まりますな。」と続けた。

「このふみで大木村の村人のいう事が本当なら、ですが。」

橘が返すと横から藤吉郎が、

「ふみはなんと? それですべてですか?」

いうので、

「お前も読んでみるがよかろう。それ以上のことは書いてはおらぬ。」

と橘が答えた。それでその言葉に気付いたように藤吾が藤吉郎にふみを手渡すと、藤吉郎はそれに目を走らせた。


「橘の君

 懸念であった諏訪社社主の件であるが、母者が稲賀殿の頼みゆえ我蛇穴が一時的に社主に収まることとあいなった。これにてそなたの懸念事項一時の解決ということでよろしかろう。

 さて、それより急ぎの件がある。大木村の巫女のことである。

 昨夜六佐とともに諏訪社に到着早々、ある一団の来たりて眠るをえなかった。一団は大木村の民数十名、村から逃げてきたとのことである。大木村に高階隆明の手勢が押し入り、巫女を連行いたしたしと、村長と巫女に答えを迫ったらしい。将は小坂靭実、兵は五十。村に押し入り村人を人質にとったが、巫女は奇策を弄し夜兵を皆眠らせ、村人を逃がしたということである。

 急ぎこのこと知らせんと六佐に預けおく。詳細は後日また。

蛇穴」

「このへびあなというのは?」

藤吉郎は尋ねた。

「へびあなではない。『さらぎ』と読む。兄者の名前だ。」

橘が言い終わるのが早いか、という勢いで、佐保が声を立てた。

「橘の君! 娘御が…。」

その言葉に、一同の視線が娘の顔に注がれた。横たわる信乃が、ぼんやり薄目を開けている。

「気付いたか。」

橘が声をかけた。

 娘は薄目を開けたまま動く気配はなかったが、ぼんやりとした表情で、

「どこ…。」

ききとれるかとれないかの声を発した。

「ここは…。」

続けた。

「稲賀政秋どのの領国、玉来村だ。」

「いながど…の…。」

一同は息をひそめてその続きを待っていたが、そのまま静かに目を閉じ、すぅーっと意識が沈んでしまった。

「なぜでしょうな。」藤吾が尋ねた。「この娘御はなぜこんなに眠り続けるのでしょう。」

「精も根もつきておるのでしょう。何、そのうち目覚めましょう。」

巫女・橘の君の言葉をききながら、藤吾はうーんとうなった。それからはっと気付いたように、

「もしや、この娘、大木村の」

藤吾の言葉に佐保と藤吉郎がはっとした。

 橘が娘の顔から藤吾の方へ視線を移し、

「一人でですか?」

「必死のことで、逃げる一団から離れたということもありましょう。」

「なるほど。」

一同はしばらく沈黙した。

 それから橘が、「よい面汚しですな。」と口火を切った。

「村が襲われたことが、でございますか。」

「国境の兵は何をしておったのでございましょう。」

「ふむ」と藤吾が答えてから、彼はやや考える素振りを見せた。

「あのあたりの峠は、お館さまが整備され警備が厳重でございます。したがって、五十の兵を連れ峠を越えたのであれば、見張りの兵が気付かぬはずはございません。もし越えたとすれば山でございます。しかし峠でさえ、整備される前には越えがたしと歌われたところ、さらに山を越えたとなると」

「越えたのでしょう。」

橘の言葉に、藤吾は首をひねった。

「兵を連れて、でございますか。」

「土地のものなら道も知っていよう。五十の兵を連れて、戦のための進軍となれば身動きしがたいでしょうが、それ以外が目的となると」

「巫女ですか。」

橘は答えなかった。

「それが解せませぬ、なぜ巫女が――大木村の巫女は、蓮女殿の一門ではございませぬのか。」

「わが一門であれば高階がわざわざ攻めてまいる必要もございますまい。おふくろさまに直談判すればいいだけのこと。といっても、今の高階には貸しますまいが…。――大木村の巫女は、地下上がりだと聞き及びます。」

「地下上がり――それではなおさら、なぜ。」

「さて、――いずれ劣らぬ美姫か」

藤吾が途端に満面の笑みを浮かべた。

「高階隆明所望の美姫を、小坂靭実が強奪しに参ったわけですか、いやっ! はっ」

と大声で笑いかけ、橘の表情が変わらぬので、表情を戻して口を閉ざした。

「ともかく」橘が口を開いた。「村の民が逃げたのは事実。それなら、兵が攻め入ったのも事実でございましょう。」

ふむと藤吾が腕を組んで丸くなり、考える素振りを見せた。その間を見計らって藤吉郎が、

「橘の君。」

「なんだ。」

「お館さまは攻めましょうか。」

「高階を、か? 今度のことが理由でか。」

「そうです。」

「証拠はないがな。」

「は?」

「証拠がない。おそらく本当に攻め入っていたとしても、小坂は痕跡すら残してはおらぬだろう。」

「でも村人が。」

「村人がなんといおうと証拠がなければいいがかりにすぎぬ。第一、村人の言っていることはおかしくないか? 巫女をよこせと敵将小坂靭実が乗り込んできた。なぜ巫女を? しかも峠の兵は誰も小坂らを見てはおるまい。ではどうやって? どうやって領国内に入り込んだのだ。」

藤吉郎は黙った。それから、「しかし事実が」と続けた。

「そうだな。」橘はそれを受け、「事実は残るな。」

横で藤吾がため息をついた。

「挑発ですかな。高階の。」

「さて」橘は蛇穴のふみを仕舞いにかかった。「次の報を待ちましょう。今の段階では、まだなんとも申せませぬ。」



 橘は藤吾と藤吉郎、佐保の去った居室で、あきと二人、信乃に付き添った。

 もう一度先ほどの、蛇穴のふみを開けてみる。

 ――ねらいは巫女姫――

 高階はおそらく、巫女姫のことも、その力のことも知っていたのだろう。

 知っていたからこそ、奪いにいった。

 しかし、あれは、村と稲賀の秘密ではなかったか。

 なぜ高階が知ったのか。

 我らとて、稲賀にきかされねば、知らなかったのに――?

 どこから情報を入れたかとは思ったが、いくら頭の中を探しても出るはずもない。

 橘は思いなおした。

 高階は、本当に巫女を奪う目的で兵を向けたのだろうか。

 つまり、あの、巫女姫と知って――?

 知らなかったとしたら――知らなくてあの位置にある大木村の巫女を狙う意味があるだろうか。

 何のために――。

 橘は先ほどの藤吾の言葉を思い出した。

 ――挑発ですかな。高階の。

 しかし、村人に脱出されたところを見ると、失敗したということになるか。

 いや、それも想定のうちか――挑発が目的ならば逃げ出されることも想定していよう。

 それでも、どちらにしても、そんなことのために、わざわざ大木村の、巫女をねらう必要があるだろうか。

 どう考えても偶然とは思えないし、どう考えても巫女姫の力を知っているとしか考えられない。

 かつて唐土の戦で神風を呼び、あの地に逃げ延びた巫女の子孫の――今の巫女姫は、この乱世にあって希代の巫女姫といわれるほどの力を持つという――

 それを、知っていたとしか考えられない。

 何かで、あの巫女姫の秘密を知ったのだ。

 そして、この巫女の力を知っていたならば、それが目的で、本気で奪おうとしたのだろう。

 しかし、地下上がりの巫女を連れ出して敵地で使うなどとは無理な話。従わせようとしても自害するか、言うことをきかないのが落ちだろう。

 それを高階ほどの武将がわからないことがあるだろうか。

 あるいは、わかった上で奪いに行かせたのか。

 奪って従うかどうかは別として。

 そこまで考え及んで、橘は唇をかんだ。

 あるいは――

 橘は前をみすえ、拳に力をこめた。

 ――敵方にいる、この「希代の巫女姫」の排除にかかったか。

 橘はさらに拳に力をこめる。

 いずれにせよ、だ。

 いずれにせよ、――それが、挑発であろうと、排除であろうと、あるいは本気で、奪いにかかったとしても、だ。

 相手は神に仕えるものではないか。

 巫女に立ち向かうは神に立ち向かうも同じ。たかが欲にかられて天下を目指す、人の分際で――



 下衆が――という声が、信乃の頭をよぎった。

 なんだかどんより重い頭の中で、その言葉さえ遠く消えていく。

 なんだかどんよりとして、なんだかとても重たかった。その重さが、また信乃を意識のふちへとひきずりこもうとする。

 その中に、甲冑をつけた武士が、うつむいて泣いている姿が見えた。

 その姿に覚えがあった。

 小阪靭実だ。

 出立する前にいた、あの本殿の中で、靭実の抱いている、あれは――姉だ! 

 床を血が染めている。傷を負うたのか? 

 いや、違う。

 あれは、あれは――!

 ふいに信乃の意識が舞い上がった。

 眼の向こうの白い光――なんだこのまぶしさは。

 それにしては、まぶたが重い。

 重い。

 この光の主は何か――玉か――姉が持ち出した、あの、箱の中から取り出した。

 力を封じるために用いたという、あれ、か。

「肩の力を抜け。」

 姉の姿が甦った。

 しばらくして小夜の目、美しい目、それが閉じられて、集中したかと思うと、信乃の頭にビリビリとした感覚が――途端に、すさまじい衝撃――

 ああっ!と叫びかけて、信乃は無理にまぶたを開いた。

 しかし重い――薄目を開けているのが、やっと。

 閉じようとする力に抗って、この白い光の主を確かめねば――まぶしい。

 あまりにもまぶしい。

「目覚めたかや?」

 誰かの声がきこえる。

 目覚めたとは異なことを。私はこのまぶしさに、目を閉じているだけではないか。

 私のお部屋はこんなに明るくはない。私のお部屋は女神山のふもとの――

 信乃ははっと目を開いた。

 私の、お部屋?

「どれ、まだ声が出ぬか?」

 そう言って、女の顔がのぞきこんできた。とたんに、先ほどまでのまぶしさがかげる。

 長い髪が少しずつ肩からたれ落ちてきて、光を背負った顔がかげになり、瞳が目の中で部屋の中の光をうけて光るのがわかる。

「誰?」

女は信乃にそう問われて、顔を近づけるのをやめた。

「わらわか、わらわは橘という巫女よ。」

「巫女…さま?」

そういって、信乃は横向きに寝返りを打った。布団の中に沈みこみながらまたウトウトと目を閉じると、

「まだ眠るのかや? 何か口に入れぬと体によくないぞ。」

その声にはっとなって目を覚ました。

 横向きになった姿から身を起こそうとした、が、体が重くて持ち上がらない。

「いや、まだ無理はせぬほうがよい。――これ、六佐! あきを呼びなさい。」

橘は信乃の頭越しに声をかけた。

 橘の声に返事はなく、廊下で少し人の動く気配がしたかと思うと、みしみしと音を立てて誰かが歩いていく。

 無理はしないほうがいいといわれたものの、横になっているとまた眠りそうなので、信乃は体を起こそうとした。

 やはり重い。

 起き上がる腕に力をこめていると、横から橘が手を貸した。その力を借りてなんとか起き上がると、布団の中で足を投げ出したまますわった。

 起き上がると、ガランとした二間続きの部屋だった。

 障子越しに、まぶしいほど光がさしこんでいる。

「ここは、どこですか。」

「稲賀政秋どのの領国、玉来村で、由良藤吾どののお屋敷だ。」

「由良…さま…。」

すると、廊下を誰か歩く気配があって、すぐに「失礼いたします」と声がかかった。

 ふすまが開く。振り返ると、年配の女が部屋をのぞいていた。

「橘の君、お呼びで…まあ、気がつかれましたか。」

「ああ、さっそくで悪いけれど、何か食べ物を。それと玄水どのをお呼びせよ。」

「わかりました、しばしお待ちを。」そういって引き下がろうとしたが、「あ。」と声を上げ、ややあって、あきはそそと部屋に入ってきた。

 信乃の背後に近寄ったかと思うと、背中から上着をかける。

「失礼いたしました。今、食事をお持ちいたします。」

そういうと、またそそと出て行き扉を閉めた。

 かけられた上着をみつめながら、信乃が考えにふけるかと思った瞬間、

「そなた、名は?」

と尋ねられた。

 ギクリとして顔を上げた。

 名を…答えるべきかとしばし迷ったが、

「しの…と申します。」

「うん。」橘はそういいながら、信乃をまっすぐにみつめた。

 信乃はおそるおそる橘の姿を見た。

 目のあまりの涼やかさに射られるほどだ。

 姉の目よりもするどい。

「では、しのと呼べばよいかの。しの、どこから参った。」

橘のこの質問に、信乃はうつむいて目を泳がせた。

 橘はしばし答えるのを待ったが、返事がないので、

「そなたは、このお屋敷の裏手、神社の横手の林のふちに倒れておったのを、昨日の朝、私と藤吉郎で助けた。藤吉郎とはこの家の息子である。――それから、一昼夜眠りどおしであった。さて」

そこで一度橘は言葉を切った。

 信乃の出方を待っているというふうであったが、信乃が何も言わないので、

「生国がわからぬと、流れ者として届けねばならぬが」

信乃は慌てて顔を上げた。急いで橘の顔を見ると、目があった瞬間、橘が、

「大木村かの?」

驚きで息がつまるかと思った。

 橘が表情を変えず信乃をみつめるので、思わず視線をはずすと、

「昨日のことである」と橘が話し始めた。「この土地の丑寅の方角に諏訪神社というお社がある。そのお社に、大木村の村人が大挙して押し寄せ助けを求めた。」

 信乃は思わず橘の顔を見た。そして、笑顔になった。

 すると、橘はふふふと笑って、

「大木村だの。」

信乃はこくりとうなずいた。

「なぜにおぬしだけ離れた?」

橘の視線は、笑っていても鋭い。

 信乃はとたんに笑顔を戻した。

 判じかねていた。

 敵か味方か、信用できる相手かそうでないか。嘘をつくか、本当のことをいうか。話はどこまで進んでいて、この相手はどこまで知っているのか。

 ただ一つわかることは、分かれて逃げた一団の一つが、無事諏訪社にたどりついたということだ。

 判じかねて、信乃は、

「夜道ゆえ、遅れ、一人迷いましてございます。」

「信乃。」

「はい。」

「警戒せずともよいぞ。ここは稲賀殿の領国で、私は巫女だ。」

信乃は再び橘の姿を見た。

 錦の小袿を羽織り、髪は半分を結い上げ、残り半分はたらしている。結い上げたところを、色とりどりの布で結んでいた。

 巫女というよりは姫御の姿だった。

 その視線に気付いたのか、橘は、

「巫女というても、そなたの姉御とは違うておろう。」

 信乃は、愕然とした。

 前かがみだった姿勢を、思わず後ろへひいた。手を床について、後じさりし始める。

 橘は信乃のそんな姿を見て、またふふふと笑う。

「信乃、そんなに怯えずともよいというに。」

そういうと、橘は真顔になった。

「だから、巫女だと言うたであろう。知りとうもないことまで知るのが、我らのさだめ。」

 その言葉に、信乃は後じさりをやめた。

 そのまま、橘をみつめ続ける。

 ――知りとうもないことまで知るのが、我らのさだめ。

 姉の姿が心をよぎった。

 後じさりの格好のままで、視線を落とす。

「巫女姫は、そなただけを別の方角へと逃がしたのであろ。」

信乃は巫女・橘の君へと視線を向けた。

 この巫女は、すべてを察している。

 ここで、この姿で、この体で、たとえこの巫女が敵であろうと、かなうはずはなかった。

 かなうはずがないのであれば――。

 信乃は後じさりの姿勢から体を起こすと、布団の上に正座した。

 まだ体が相当重い。動くたびに激しいめまいがする。

 それでも、布団の上に両手をそろえて三つ指をついた。

「お助けいただき、ありがとう存じます。」

橘に頭を下げる。

 目から涙があふれた。

 理由もわからぬのに、涙がぼろぼろとこぼれる。

 ここは玉来村、由良の館。目の前にいるのは巫女・橘の君。大木村は既に遠く、姉巫女姫は――。

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