第五章
仮の祭壇のある自室で、橘が蛇穴への返信をしたためているときだった。
部屋の外、廊下から、藤吾の「橘の君、よろしいか。」の声があって、ふと我に返った。
橘は書きかけの文をやめ、それを畳み込んで文机の脇に押し寄せてしまうと、「お入りください。」と返事をした。
すると、外出着のままの藤吾の姿がのぞき、後ろに長子丙吾と六佐の姿が見えた。
三人が室内に入ってくると、橘は文机を脇に回し、三人と対面した。
「お帰りなさいませ。いかがでございました。」
三人が腰を下ろしかけるとき、橘は藤吾に話しかけた。藤吾は「ふむ」と答えたなり、次の言葉を続けなかった。
ややあって、
「信乃どののことですが」
そういわれて橘は少し驚いた。
「お名前を…?」
「ああ、さきほどきよらから聞き及びました。」
なるほど、と橘は心の中で納得した。
お館での集まりの席で信乃の名前が出たわけではないようだ。
「目覚められたようで――信乃どのから、何か仔細は聞かれましたかな、巫女どの。」
「ええ、少しなら。まだ体が本当ではないようで、あまり細かくはきいてはおりませぬ。」
その言葉に藤吾はまた一人「ふむ」と答えた。
お館から帰ったせいか、普段の藤吾ののんびりとした感じがあまりない。
橘は気をひきしめた。
「やはり、大木村からでしょうか。」
「の、ようですな。」
「一人はぐれたと?」
そこで橘は藤吾の顔を真正面から見据えた。
「由良どの。」
橘の真剣なまなざしに藤吾は少したじろぐ気配を見せたが、そのまま橘の言葉に聞き入るよう耳を橘に寄せる素振りを見せたので、橘は続けた。
「あれは」いいかけたところで、廊下から「失礼いたします。」というきよらの声が響いた。
それで少し緊迫した一座の空気がゆるむと、「なんだ」と橘は廊下へ向かって返事をした。
「信乃どのが、父上にごあいさつ申し上げたいと。」
そこで、橘と藤吾は顔を見合わせた。
「入るがよい。」
返事をしたのは橘だった。
ふすまが開き、信乃を先にして二人の娘が入ってくる。
信乃はうつむきかげんに一座に近寄ると、ひざまずき、腰を下ろして手を膝の前についた。
「由良様、この度は」
「何、固い挨拶はご無用。」
信乃の言葉を途中で切って、藤吾は挨拶を辞したが、信乃はそのまま藤吾に対し頭を下げた。
「我らは稲賀の領民として当然のことをしたまで。」
いう藤吾に信乃は、
「お助けくださり、ありがとうございました。」
言葉を続けた。
藤吾はしばらくその姿をみつめていたが、顔をあげた信乃に、どこか気押された風でもあった。
が、横にいるきよらに目をやりながら、少し表情をなごませると、
「信乃どのよ、そう、固くならずともよい。さきほども言うたように、我々は当然のことをしたまで。この度は、災難であったの。もう、起き上がっても大事ござらぬか。」
信乃がその言葉に言葉をつまらせながら「はい」と答えると、藤吾は、
「何、きよらと変わらぬ年頃ではないか。そう遠慮することはない。――そう、きよらと同じ年ぐらいかな。」
「十五にございます。」
「ふむ、きよらより一つ上か。藤吉郎より一つ下というわけだな。」
藤吾のその言葉に、信乃は答えず、さきほど神社の階段であった藤吉郎の姿を思い浮かべた。
「ところで藤吾どの、お館での話はいかがであられたか。」
橘に声をかけられ、そうであったという具合に藤吾は橘の方へと体を向けた。そしてまた、何かに気付いたがごとく信乃へとちらりと目をやると、橘が、
「大木村の巫女どのの、妹御だそうでございます。」
藤吾はそれで、驚いた様子で信乃に顔を向けた。
信乃は信乃で、うつむいたままである。
藤吾は信乃を見たまましばらく考えるようであったが、ため息をついて眉根を寄せ、体を丸くした。
体を丸くするのは、この藤吾の考え込むときの癖なのだ。
「藤吾どの、いかがされた。」
橘の言葉に、藤吾ははっと我にかえった。
「いや…」そこで少し藤吾は言葉を切ったが、何か思いついたようで、「それで、信乃どのは一人こちらへ逃げられたのかな。姉君が、別の方角へ逃がしたと。」
「といいますと、藤吾どの」橘が言葉を取った。「大木村のほかのものは」
「ふむ、今日のお館での皆の報告をきいておると、だいたい七手に別れて逃げたらしい。そのうち、諏訪社へ参ったものが一番早く逃げおおせたが、だいたいはお館のある北方へ向いて逃げたようで、信乃どののように南方へ向いたものはなかったようだ。」
そこで、一座の視線がいっせいに信乃へと向いた。
藤吾はそこで、
「姉君は、そなたを、別の方角へと逃がしたのだな。」
問われた信乃は顔をあげたが、その目が潤んでいる。
「私は、姉とともに残るつもりでおりました。姉と運命をともにと」
りんとした声であったが、わずかに震えている。
十五の娘が立ち向かうには、少し重い事態ではないかと、藤吾はその信乃から視線を落とした。
また、眉根を寄せる。
「藤吾どの」と橘が次の言葉を催促した。それでまた藤吾は我に返ると、
「おう、そうであった。――それで、村の逃げた一団のうち、一番遠くへ逃げたのはお館さまの居城へよ。村長の一族であり、それで仔細はすべて判明した。次々と各所から来る報告によって、すぐに大木村へと兵を向けたが、村は既にもぬけの殻、小坂靭実の兵は跡形もなく消え去っていたそうだ。」
そこで藤吾は、また言葉を切った。
信乃の方に気を使うように見えたが、それを見た橘が、
「藤吾どの、信乃どのに席をはずしていただきましょうか。」
と言ったので、それに反射的に信乃が、
「いえ! いいえ、お話しください! 村のことでございましょう。」
藤吾は返事をしなかった。
「わ、私が、きいてはならぬことならば」
信乃のその言葉に、藤吾はまた重い息をついた。
橘が藤吾の顔をじっとみつめ、
「藤吾どの、いずれ知れることでしょう。お話しください。」
藤吾は橘の顔を見た。それから小さくため息をつくと、
「大木村へ向かった兵はくまなく村の中を探索したそうだ。残った年寄りどもは村長をはじめ皆自害して果てておった。肝心の巫女どのであるが」
信乃は青ざめた顔で、藤吾の横顔をすがりつくように見つめた。
「姿が見えられぬ。」
「姿が見えぬ?」
橘が藤吾の言葉を取った。
「姿が見えぬとはどういうことでございます。」
「兵は村の中を、一通り探索しつくしたが、どうあっても巫女どのの姿が見えぬ。一人他所へ逃げたか、あるいは連れ去られたかと探しまわったが、どこにもおられぬ。そのうち、神社の本殿へと向かった。残るはそこだけだ。しかし社主もおられぬのに、開けたかどうかと迷ったが、入り口に、血の跡がついておったそうだ。」
そこで橘は顔色を曇らせた。
「本殿に血ですと?」
「ああ。それで、これは尋常のことではないと、兵は本殿を開けてみたそうだ。しかし、中は血の残り香がたちこめるばかり、床に、おびただしい血の跡が残るばかり。そして、巫女どのはどこにもおられぬ。」
信乃はガクガクと震え出した。
あの、大木村を離れるときに、ハヤテの上でよぎった姉と、小坂靭実の姿が脳裏によみがえる。
斬られたのは、姉だ。それを斬ったのは、小坂靭実だ。
はっきりとわかる。
誰よりも、はっきりと――。
しかし巫女・橘の君は、信乃とはまた別に動揺の気配を顔に浮かべていた。
「その血は誰の…いや、本殿を血で汚すなどと…そんな、馬鹿な!」
「どう考えても、斬られたのは巫女どのではないか、ということだが、どちらにせよ姿が見えられぬ。もし、巫女どのお一人の血であれば、――よもや生きてはおられますまい。」
橘はギリリと歯をならした。
膝に置いた手で、着物を固くにぎりしめる。
「巫女を、巫女を斬ったなどと――しかも、神社の本殿で――そんな、そんなことが、許されて、許されてなるものか!」
思わず声を荒げた。
「橘の君、おちつかれよ。とにかく、巫女どの本人の消息がつかめぬゆえ、まだ何ともわからぬのだ。」
「わからぬといっても、本殿が血で汚されていたのは確かなのでしょう!」
「ああ…ああ、そうだな、そうだ、恐ろしいことだ――なんとも、恐ろしいことである。我らだとて、小坂が、いくらなんでも、なぜそこまでおそろしい暴挙に出たのか、全く見当がつかぬ。」
そこで藤吾は言葉を切ったが、誰も何も語らぬのに、信乃の頭の中で「戦だ――!」という声が響いた。
この部屋の中の誰が思ったのか、それとも全員が思ったのか。
信乃の顔は青ざめ、体は固くしたままだった。
しかし、この時、不思議と動揺することはなかった。
姉の姿が見えぬ。
ただこの一事に、望みをつなぎたい思いさえ、芽生えていた。
小坂に斬られた姉は、まだ、この世のどこかに、生きているかもしれぬ、と。
夕暮れも近づくかと見えたが、信乃は由良の屋敷の前の庭に出て、空を見上げていた。
かれこれ、半時はそうしていようか――彼女とて、好きで空を見上げ続けているわけではなかった。
時に、気が遠くなりそうになって、頭がくらむことさえあった。
医師・玄水にもらった薬がきいて、体の重さがかなり楽になったからといって、まだ本当の状態に戻ったわけでもない。
それでも、見上げ続けなければならない理由があった。
ハヤテである。
風の精霊である、ハヤテを呼び寄せたかった。
一刻でも早く呼び寄せて、できるものなら大木村へと飛んでいきたかった。
それなのに、ハヤテがこない。
現れたかと思っても、大空高く旋回するばかりで、少しも下りてくる気配はなかった。
姉のように見事に、ハヤテを呼び、その背に乗りたかった。
いや、乗らなければならなかった。
そして、乗れないはずはないのだ。
あの時は――大木村からの山道を逃げるときは、確かに、ハヤテを捕まえることができた。
そして、大空高く舞い、途中で意識を失ったものの、うまくここまで逃げおおせることができた。
それなのに――。
これでは以前と少しも変わらぬではないか。
信乃は、ことのうまく運ばないのに、ひどくじれた。
それでも諦めはせぬ、と、中空のハヤテをみつめていると、
「もうお一人で歩けるのですか。」
そう声をかけられ、はっとなって声のするほうを見た。
由良の第二子、藤吉郎である。
神社での掃除が済んだのか、神社の方からやってきた様子だった。
「あ、はい、ご心配をおかけしまして…」
信乃がそういうと、藤吉郎は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
藤吉郎は、戦場へ出るために体を鍛えていることがよくわかる、精悍な姿だったが、この少年は、あの小坂靭実と違い、大木村の村のものとも違い、どこか快活な明るさがあった。
考えてみればこの人の兄の、丙吾ともずいぶん違うように思われる。
父親に似たのだと、信乃は藤吉郎の父母を思い浮かべた。
「こんなところで何をしておいでです。歩けるからといって出歩いておられると、こんな寒い中にいては体を壊しますよ。」
その言葉に、信乃は返答いたしかねた。
まさかハヤテを呼んでいたとはいえまい。
確かに、こんなところで小一時間も立って空を見上げていれば、おかしいと思われても仕方がない。――信乃はそのことに今初めて気がついた。
返答せずに信乃が黙っているので、藤吉郎が少し首をかしげ、
「そういえば、空を見上げておられましたな。」
そう言って顔を空へと上げた。
「や、イヌワシが飛んでおりますな。 この季節には珍しい。 あれを見ておいででしたか。」
藤吉郎の言葉に、えっ、と思って、信乃はもう一度空を見上げた。
しかし確かに、それは普通のイヌワシではなく、ハヤテである。
「なるほど、上を飛んで、下りてこれないのですな、ハハハハハ。」
ええっ!
声を上げそうになるのを、何とか飲み込んだ。
「はは、しかしこんな季節にいったい何であんなところを――巣でもあるのでしょうかなあ、ハハハハハ。」
えええっ!という信乃の驚きをよそに、藤吉郎は話し続ける。
頭の中で、この藤吉郎という男を整理しようとしたが、頭の中が混乱して整理がつかない。
「ところで、ええと、――お名前を」
そう藤吉郎がいって、信乃の方へと向き直った。
一つ上なだけといっても、男子の藤吉郎の方が背は高く、見下ろされる格好になる。信乃が答えぬので、藤吉郎は信乃の顔をのぞきこむように頭をさげてきた。
「いかがされた。」
信乃は藤吉郎の顔が間近くなって、さらに度肝を抜かれた。しかし、気持ちまではのぞきこまれてはなるまいと、慌てて平静を取り戻そうとした。
「はい! いいえ! 何でも、ございませぬ。あの、ええ…」
それで藤吉郎はにこりと笑って、
「お名前は、なんと申されます。名を知らねば話しにくく」
「ええ、『しの』と! 信乃と、申します。」
「信乃どの。」
この人はなんでこんなにニコニコしているのだろうと信乃は思った。
それがかえって心をあせらす。
心の中で、平静を、平静をとくり返した。
「信乃どの、大木村から来られたのか。」
「ええ、はい。」
『大木村』の言葉に、幾分心が元に戻った。
「そうですか。この度は、災難でしたな。」
先ほども、藤吾が言った言葉だった。
この言葉に、心の線がゆるみそうになる。
思わず顔が泣き崩れそうになるのを抑えて、ただ唇をかみ締め、一心に視線をとどめた。
その様子に藤吉郎が、
「何、何も、心配はいりません。きっと、お館さまがうまく決着をつけてくれます――といっても、私も村に高階の兵が押し入って、村人が逃げたということをきいただけで、その続きはまだ知らぬのですが――どれ、もう中へ入られませぬか。ここは風も冷たい。」
ここは西側が山で、夕暮れ時も迫っているこの時刻は、既に太陽の日も見えず、あたりは冬の色あせた夕焼け色に包まれていた。
信乃の髪を風がなびかせていく。
藤吉郎はなぜか、信乃の顔を――その半ば潤んだ瞳をまぶしそうにみつめていた。
「さて、イヌワシはもういなくなりましたかな。」
話題を変えようと思ったか、藤吉郎が空を見上げながらいった言葉に、信乃はまた度肝を抜かれそうになった。
「うむ、さすがにもう見えませぬな。さあ、我々も中へ入りましょう。」
藤吉郎の言葉に、本当に見えぬかと空を見上げてみたが、やはり本当にハヤテの姿は見えなくなっていた。
ハヤテはなぜ思い通りにいかないのか、という思いよりも強く、この目の前の少年になぜハヤテが見えるのだろうとの思いがわきあがった。
風の精霊が見えるのは――以前姉にきかされたことがある――一族の者か、霊能力の強い者、修験者、一定の事情にひどく感性の磨かれたもの。
藤吉郎の、いったいどれがこれに当たるのだろう。
由良神社の社主の血縁であったれば、そのような能力も持ち合わせているのだろうか。
「信乃どの」と藤吉郎が屋敷の入り口で呼ぶので、信乃はその言葉にしたがって入り口へと向かった。
屋敷への入り際にもう一度、空を見上げてみた。
しかし、ハヤテの姿は見えず、空はあざやかな落日の色も失せ、濃紺の気配が押し寄せている。
外気の冷たい空気とは裏腹、屋敷の中からは暖かなぬくもりが押し寄せ、夕餉の支度をするそのにおいが鼻腔をついた。
屋敷の中に入るとすぐに、昼間きよらに案内されて向かった巫女・橘の君の元へ信乃は直行した。
ふすまの外から橘に声をかけると、すぐに中から橘の声があって、戸を開けると、橘は文らしきものを手にして文机の前に座っていた。
既に外の戸は閉まっている。昼間の光を失せた暗い部屋の中、行灯の火のみで作業しているらしかった。
それでも、部屋の中は十分明るく、また、暖かかった。
信乃が入っていくと橘は、「もう随分ようなったようだな。」と声をかけた。「若いものは回復が早いものだ。」とも続けた。
橘に近づき、その前に腰を下ろすと、信乃はじっと橘の顔をうかがった。先ほどの激昂したあの気配はもはやなく、信乃の視線にちらりと目をやると、「なんだ。」と問うた。
信乃はいいあぐねて視線をうろうろとさせたが、意を決すると、
「藤吉郎様のことでございます。」
橘は文を手にとりながら、意外な話題だと思い、改めて信乃の顔を見た。
「藤吉郎さまのこと、とは、いかがした。」
問われて信乃は、
「あの方は、霊能者でございますか。」
その言葉に、橘はふっと笑顔を浮かべた。
「今なんと?」
「藤吉郎さまは、霊感がおありなのですか。」
「藤吉郎に、霊感、とな。」そう言いながら顔をさらにほころばせる。「あやつに霊感があるように見えるかや?」
「しかし」
「何があった」
そこで信乃は言葉を飲み込んだ。しばし言葉を告ぐことに躊躇したが、信乃は声を落とし、
「我々の一族は、風の精霊が見えまする。我々はハヤテと呼んで」
「聞き及んでおる」
またそこで信乃はぐっと息を飲んだ。
「イヌワシの姿をしておるのだろう? わらわもそなたを助けた時にその姿を見たわ。」
「ええ、ですから、その、お姿を、藤吉郎さまが」
「見たというのか。」
信乃は答える代わりに、じっと橘の顔をみつめた。
橘は文机の上の筆記用具を片付けながら、しばらく考える様子を見せたが、
「何、そなたらの一族でのうても、霊能者でのうても、見えることはあるであろう。世の不思議ごとに、そう堅苦しい決まりごとなどあるまいて。見えるものは見える。見えないものは見えない。」
「ですが」言いかけたところで、外から「巫女さま」と声がかかった。橘が返事をすると、ふすまがあき、この家の下男の顔がのぞいた。
痩せて年をとった男だ。少し腰がまがっている。
「諏訪社からのお文が参りました。」
「入りなさい。」
そういうと、下男はそそと部屋に入り、深々とお辞儀をして橘に手渡した。
「遣いは誰だ。」
「さて、諏訪社の護衛兵のようですが、下の駐屯所の兵が受け取りましたよしにて、私は直接には」
「あいわかった。ご苦労であった。」
下男はこの言葉に一礼すると、またそそと歩いて部屋を出て行った。
「せっかく書いた文が無駄になったかの。」
ため息をついて、橘はその受け取った文を開いた。しばらくそれに目を通す風情であったが、「やはり兄者の方が近い分、早いのだな。」と一人ごちた。
橘は文を読み終えたのか、視線をあげた。
意味ありげに、信乃を見つめる。
「信乃、大木村の女神山神社の姿を思い浮かべられるか。」
唐突に問われて、信乃は何かわからず橘の顔をみつめた。
「思い浮かべてみよ。手を…。」
橘は自分の体の前にあった文机を横に回した。信乃に近づいて手を差し出させる。その手をとると、自分の手の平にぴたりとあわせ、目を閉じた。
こうして真向かいに並んでみると、橘は随分小柄に見える。おそらく信乃よりは背も作りも小さいだろう。
思い浮かべてみよといわれると、その気もないのに心の中に女神山神社の姿が思い浮かぶ。子どもの頃から何度も、毎日のように見上げた社だ。
「なるほど、普通の社と大差はないのう。」
信乃はぎょっとした。目を閉じた橘の目が開き、橘はその手を離した。そのまま自分の口元に左手をやると、何か考える様子を見せた。
「な、何事でございますか。その、お文が、何か。」
言われて、橘は信乃の顔をじっとみた。それから、膝においた文に視線を落とすと、
「これは、我が一門の長の息子、蛇穴がよこした文だ。今、諏訪社の仮の社主をつとめておる。」
「その、社主さまが何と。」
「女神山の神がそれほどお怒りではないそうだ。おかしなことよの。」
「神がお怒りではない?」
「そうだ、神殿を血で汚されたはずなのに、神がお怒りではないと。兄者が諏訪社の祭壇から女神山の神に問うたのであろう。しかしなぜか、神はお怒りではない。――女神山の社主の姿が見えぬゆえ、我らで納めねばならぬと思うたに、さて、どうしたものか。」
橘はまた、膝の上の文に視線を落とした。
信乃は信乃で、わからないことがあった。
なぜ、我らの、大木村の神を、彼らが納めるのか。
巫女姫一族が守り続けた神を、彼らが納めるのか。
「巫女さまは何者でございます。」
ふと、信乃の口をついて出た。
その言葉に橘の君は信乃へと視線を戻した。
「何ものとな。」
「なぜ、よその神にまで手出しなさるのか。」
橘はきょとんとした顔をした。
「我らがやらねば誰がやるのだ。」
その問いに、信乃は返答いたしかねた。確かに、その権利のあるものは村のものにはいない。自分とて一族の身といいながら、そうした修練は積んでいない。しかし――しかしである。
「そなたら土着のものには分かりづらかろうが、我らは霊能力を持つ一団で、求めがあればどこへなりとも動き、その力を使う。蓮女一門といえば、少しは名がしれているかと思うたがの、大木村などの鉄則の固い村には、届いておらぬか。」
全く知らなかった。神やその社といえば大木村のようなものが当たり前で、社主に巫女が納まるのが珍しいことぐらいしか知らなかった。
信乃が答えないので、橘は続けた。
「今は稲賀殿と手を携えているがゆえ、普段関わりのない神といえど、領地内のことは見過ごしにはできぬ。どのような災いとなってふりかかるやも知れぬからだ。したがって、納められるものが、納めねばならない。」
「巫女さま。」
「なんだ。」
「あなたさまは、ここの生まれではございませぬのか。」
信乃の真面目に問う顔を、橘はじっとみつめた。
しかしやがて、うつむくと、「ク――ッ」と吹き出した。
「巫女さま!」
「いや、すまぬ。すまぬ。」言いながら笑い続けた。「おぬし、本当に、何も知らぬのだな。」
橘は胸に手をあて、なんとか笑いを抑えようとした。
ハアハアと息をすると、
「そうか」呼吸を取り戻した。「知らぬのなら教えてしんぜよう。」
そう言って居住まいを正した。
「我らはここからずっと北の、海沿いの地を本拠地とする、巫祝の集団よ。本拠地であるが、そこに留まっているわけではない。求めに応じてその力を貸すために各地にばらばらに散っておる。元は流れものの集団だったが、我らが長、蓮女どのが北の地に本拠地をおき、一門として名をなした。蓮女どのを我らはおふくろさまと呼んでいる。もちろん、他人だ。諏訪社の蛇穴以外はな。」
「では、あなたさまの生国は、その北の町で」
「知らぬ。」
「は?」
「覚えておらぬ。」
まっすぐなまなざしは、あいも変わらず涼しげで、気配はりんとしていた。
橘は話しつづけた。
「私は捨てられておったのだ。足もろくに動かぬゆえ、本物の母者が暮らしに困って捨てたのであろう。」
「捨てた?」
「そうだ」
「実の子をですか?」
「ああ。」
戸惑うような信乃を前に、橘はいつもと変わらぬ様子で返事をした。
他の何も――自分を捨てた母親の顔さえ思い出せぬのに、今でもまざまざと、あの日の景色を思い出せる。
雨だった。
草むらの、ぬかるみの中で、その雨にうたれながら、自分はもう死ぬのだと思った。
それは何のために死ぬのか――患った病は、動かぬ右足を除けばとうにいえたのに、このぬかるみの中で、貧しさのためか、飢えか、それとも、自分を今苦しめる激しい体の重さのせいかわからなかったが、それでもあの日自分は、もう死ぬのだと思った。
あの、女神のような、あるいは、妖女のような、あの女がくるまでは――。
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