第16話 目的と手段

 ウトウトしていた。何もやる事がないからな、仕方ない。ベッドで横になって、うつらうつらしているとき、突然激しいノックの音が聞こえた。だがこの部屋じゃない、隣だ。そして廊下から声が響いた。


「刑事さん来て、急いで、早く!」


 慌てて甲高くなっているが、柴野碧の声だ。オレがドアを開けて廊下に出ると、碧とぶつかりそうになる。


「あんたも来て、早く!」


 オレの腕を取って引っ張る碧にたずねた。


「何があった」

「人が殺されたって」


 蒼白な顔でそう答える。なるほど、さしものコイツも殺人事件は許容範囲外か。まあ普通そうだろうな。オレは部屋の中を振り返って怒鳴った。


「ジロー! 立って歩け! すぐ一階に来い!」


 くそっ、面倒臭い事になりやがった。走ってエレベーターホールで築根と原樹に合流する。ジローは後から来るだろう。急いでも得はしないかも知れないが、のんびり構えて損をするよりマシだ。


 エレベーターを無言で待ちながら、オレはあの予言を思い出していた。


――哀れな雛子は逆さになって、赤く輝く十文字


 当たってなきゃいいんだがな。



 一階でエレベーターのドアが開くと、オレたちを静寂が待ち受けていた。人の気配はむせるほどあるのに、しんと静まりかえっている。給孤独者会議の道士たちも、日月教団の出家信者たちも、ロビーからそれを遠巻きに見つめている。柴野碧は先頭に立ち、事務所のドアに向かった。やや腰の引けた姿勢で、こわごわドアをノックして、ノブを回す。ドアが開くと、その正面すぐのところに死体が見えた。逆さに吊るされた死体が。


「いっ!」


 喉に何か詰まったかのような小さな悲鳴を上げ、碧は固まった。その後ろからドアに手をかけたのは築根麻耶。ゆっくりドアを全開にし、中に入って行く。そして後ろに原樹が続き、オレは最後に中に入った。


 ドアからフロントカウンターまでは、真っ直ぐ通り抜けられるようになっていて、入り口から向かって右側に事務所がある。事務所とカウンターの間には、厚さ三十センチほどのコンクリートの壁。その壁のロビー側には、暗褐色の木枠がはめ込まれていて、枠の内側には、細く切られた厚手の板が斜め十字に交差して組まれている。ガーデニングに使う、何て言ったっけ、ラティスか、あんな感じだ。そこにS字フックで死体が逆さに吊り下げられている。死体の足首、腰、手首、腕の付け根、そして首には針金がグルグル巻き付けられて、そこに何本くらいだ、一箇所あたり三、四本ほど、ざっと二十から二十五本ほどの黒いS字フックが差し込まれ、死体を支えている格好だ。


 死体の胸には刺し傷があり、ナイフが落ちている。果物ナイフだ。血は真下方向、喉から顔にかけて流れ、頭の下には血だまりがある。妙だな。


 築根はしゃがみ込んで、首に食い込む針金を凝視している。おそらく絞め殺されたと考えているのだろう。ナイフを無視する辺りはさすがだ。


 首を絞めて殺された死体には、二つの痕跡が残る。まず一つ目は首を絞めた跡。手で絞め殺したのなら『扼痕やくこん』と呼ばれる指の跡が、紐で絞め殺したのなら『さくじょうこん』と呼ばれる紐の跡が残る。まあ跡の残らない絞め殺し方もあるんだが、普通はどっちかが残っているもんだ。二つ目は『吉川線』と呼ばれる筋。これは首を絞められたとき、その指や紐を外そうと、もがいた被害者の爪が自分の首に線状の傷をつけたものだ。これらが残っていれば、ほぼ間違いなく絞め殺された死体だと判断できる。築根が見ているのは、たぶんそれだ。


「何かわかりましたか」


 ロビーから声がかかった。ハンカチで口元を押さえ、汚らしい物を見る目つきで、殻橋邦命がこちらを見つめている。築根は立ち上がって殻橋を見据えた。


「わかっている事は何もない。検視と鑑識が必要だ。すぐに警察に連絡しろ」

「おやおや、組織の力がなければ刑事さんもお手上げですか」


 馬鹿にした口調で殻橋は笑った。


「何だと貴様!」

「よせ、原樹」築根は原樹の腕を、軽くポンと叩いた。「あんたはさっき言ったはずだ。ここに居る者の身の安全は保証すると。あれは嘘か」


 すると殻橋は大きくうなずく。


「その通り。私には、この館内に居る者全員の、身の安全を保証する責任があります」

「ならば」


「だからこそ」殻橋は一歩前に出た。「この殺人事件の犯人は、私が責任を持って捜し出しましょう」


 給孤独者会議の道士たちから、オオッと歓声が上がった。築根と原樹は困惑している。


「もちろん協力していただけますよね、刑事さん」

「なっ、ばっ、馬鹿か貴様」


 頭に血の上った原樹は語彙数が激減している。いまなら小学生にだって口喧嘩で惨敗するだろう。殻橋は微笑みをたたえながら小首を傾げた。


「では、どちらが馬鹿か試してみましょう。そのナイフ。死体の下に落ちているナイフですが、それ、死因じゃありませんよね」


 原樹は驚いた顔で築根を見た。駄目だこりゃ。コイツがポーカーに手を出したら、アホほど負け続けて死ぬだろうな。殻橋の笑みが深くなる。


「胸の傷口から血が溢れていますが、血は下方向にしか流れていない。つまり、そこに吊り下げてから刺したという事です。しかも、あまり血が吹き出ていない。これはナイフを刺したとき、すでに彼は死んでいた、心臓は止まっていた事を意味します。すなわち、犯人はここに死体を吊り下げた後、万が一にも目を覚ます事のないように、トドメの一撃として胸にナイフを刺したと考えられる訳です。どうです、刑事さん。何か間違っていますか」


「ぬっ……ふーっ! ふーっ!」


 とうとう原樹の脳みそは、オーバーヒートを起こしたらしい。マトモに喋る事もできなくなっている。築根はオレを見ていた。何だよ面倒臭えな、まったく。


「探偵さん、あなたは何か言いたい事がありませんか」


 挑戦的に目を細める殻橋に、オレは一つ溜息をついて見せた。コイツも面倒臭え。


「ま、八十点だな」


 殻橋の眉が寄る。


「ほう。減点理由は」


「このナイフが死因じゃないのはその通り。吊り下げてから刺したのもまったく正しい。すでに死んでたから勢いよく血が出なかったというのも意味のある指摘だ。ただ」


「ただ?」


 オレはタバコを咥えて火を点けた。煙を吸い込むと頭がギュンギュン回ってくる。


「問題はナイフを刺した理由だ。これはトドメじゃない」

「では何だと言うのです」


「演出だよ」

「……演出?」


 殻橋の不審な顔。射るような築根の視線と、原樹の不思議そうな間抜け面。


「演出とはどういう意味です。そのナイフで何を見せたかったと言うのですか」


 殻橋の声のトーンが上がる。納得できていないようだ。オレは一口煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


「哀れな雛子は逆さになって、赤く輝く十文字」

「……何ですかそれは」


「もう忘れたのかよ。例の予言の一節だろ」


 殻橋は思い当たったようだ。築根も思い出している。原樹は、まあいいや。


「おそらく犯人は緻密な計画を立てていたんだろう。そしてその計画通りに事は運んだ。無事に死体を逆さにぶら下げる事も出来た。だがそこで気付いたんだ。予言の内容を正確に表現するには、少し足りない事に。予言通りなら、逆さ十字は赤く輝いていなければならない。そこで犯人は、死体の胸を刺して血まみれにする事を思いついた。たぶん大量の血が噴き出すと思ったんだろう。だがもう死んで止まった心臓からは、それほどの血は吹き出て来なかった。魚の血抜きみたいな状態になってしまった。とてもじゃないが、赤く輝く十文字、てな具合には行かなかった訳だ。つまり、失敗したんだよ、犯人は」


「待て」築根が手を上げて止めた。「おまえはこう言いたいのか。この殺人は目的ではなく手段だと」

「まあそういう事だ。誰かに対するメッセージみたいなものかも知れん」


「くだらない」殻橋は鼻先で笑った。「人を殺して何のメッセージになるというのです。我々を脅迫でもするつもりですか」

「さあな。案外ラブレターだったりするんじゃねえの」


「五味。ふざけ過ぎだ」


 築根が渋い顔をする。


「可能性の問題だよ。ところで、教祖様は来ねえのか。親戚なんだろ」


 すると殻橋は、そんな事も知らないのか、と表情で語った。


「彼女はもう、この現場を見ていますよ。と言うか、第一発見者の一人です」


 そして死体発見時の状況を語った。まるで自分がその場に居たかのような語り口だったが、よく聞けばコイツもただ報告を受けただけだった。


「なるほどね。つまり教祖様とお付き三人のアリバイは、アンタら給孤独者会議が保証してくれるって事か」

「我々は常に正しき者の味方です。告げるべき真実があるならば、何も隠す事はありません」


 と、殻橋は胸を張った。おまえらの正しさなんか信用してないけどな。そう思いはしたが口には出さない。


「他に何か質問はありますか」


 殻橋の言葉に、オレは築根を見た。首を振っている。原樹には聞いても仕方ない。


「いまのところ、ないみたいだな」

「そうですか、では休ませていただいてもよろしいですか。夜は苦手でしてね」


 夜の帝王みたいな顔しやがって、よく言う。


「いいんじゃねえか。何か見つかったら連絡入れるって事で」

「そう願います。ともかく、この事件の犯人が見つかるまで、外には出られないと思ってください。では、ご協力をよろしく」


 そう言い残して殻橋は背を向けた。大階段の方に歩いて行く。


「あいつら、わかってんのか。人が死んでるんだぞ。間違いなく刑務所行きだ」


 理解に苦しむ、といった声で原樹がつぶやいた。


「ヤクザと宗教家にとっちゃ、刑務所なんぞ勲章だよ。死刑にでもならん限りはな」

「そんなのおかしいだろうが。狂ってる」


「気付くのが遅いし、オレに言われても知らんし」


 携帯灰皿を出してタバコを突っ込む。今日はもう禁煙かな。


 ロビーにはまだ給孤独者会議の道士たちと、日月教団の出家信者たちが残っている。オレは出家の婆さんの一人に声をかけた。


「なあ、アンタらの宗教って、葬式はあるのか」


 婆さんは余程ショックだったのだろう、少し呆けた顔でうなずいた。


「はい、お葬式はあります。……ああっ、そうだわ、そうよ、お葬式の準備をしなきゃ」


 急に元気になった婆さんは、他の出家信者たちを集め始めた。


「で、どうするよ」


 オレの視線の先では、築根がまたしゃがみこんで、典前和馬の死体とにらめっこをしている。


「どうするって、何が」

「この死体だよ。下ろさねえのか」


「現場保存は捜査の基本だ」

「そりゃ明日にでも県警が来てくれるんなら保存も意味があるだろうが、この分じゃ、いつになるかわからんぞ。腐り出す方が早いかも知れん」


「警部補、これについては自分も五味に賛成です」原樹が珍しい事を言い出した。「遺族の感情もあるでしょうし、このままという訳には」


 築根はしばらく考えていたが、やがて仕方ないという顔を見せた。


「……いいだろう。原樹、撮れるだけ写真を撮っておけ。特に索条痕と吉川線を念入りにな」

「はい」


「何だよ、わかってる事あるじゃねえか」

「さすがにそこまで能なしじゃないさ」


 築根はそう苦笑いを浮かべた。


 オレの手はまた無意識にタバコを探していた。危ない危ない。しかしそれにしても。


「ジローのヤツ、何してんだ」


 ドアの向こうのエレベーターホールを振り返った。まだ降りてくる気配はない。

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