第13話 予言
二階に続く大階段の上から声がした。
「諸君、ご苦労」
振り仰いだ私の目に、黒いスーツ姿の殻橋さんと、巫女服を模した白い着物を着た朝陽姉様とが、雛人形のように並んで映った。殻橋さんがゆっくりと、一段一段踏みしめるように階段を降りて来る。
「与えられた役目を、正しく遂行しているようですね。素晴らしい事です。お釈迦様はいつも見ておられますよ」
ロビーを見渡しながら道士たちに向かって話す、その視線が止まった。階段を降りる足も止まっている。私の方を見つめていた。いや、違う。私じゃない。ジロー君を見ているのだ。
「代受苦者……」
殻橋さんの足が再び動き出したかと思うと、凄い勢いで階段を降り始めた。道士のリーダーらしき男の人が、慌てて階段の下に走った。
「首導、いかがされましたか」
でも殻橋さんは彼を見ていない。ジロー君に視線を固定している。
「代受苦者が居ます」
「は? はあ」
「彼に不足はないか確認しましたか」
「いえ、動く事もないので、特には」
そのときの殻橋さんの目。氷のような、とはこういう目の事なのだろう。殻橋さんは怒りに満ちた声を上げた。
「代受苦者には献身をもって接すべし。それこそが仏道の神髄と心得よ。これが山王台観現総議長の思想の集大成と言って良いでしょう。君はそんな事すら理解していないのですか!」
言われた本人はもちろん、ロビーにいた道士の人たち全員が、音を立てる勢いで真っ青になったのがわかった。
「も、も、申し訳ございません」
「私に許しを請うて何の意味があるのですか。頭を下げるべき相手が違います」
「は、はいっ!」
リーダーは、死にそうな顔でジロー君の前に走り寄ると、深々と頭を下げた。
「失礼致しました、いま、何かお困りの事は、ございませんでしょうか」
ぜーぜーと喉が鳴っている。過呼吸を起こしているんじゃないだろうか。でも、ジロー君は返事をしない。その美しい目で虚空を見つめ、ピクリとも動かなかった。
「ああ、無理無理」
言葉を返したのは、ジロー君の隣に座った五味さん。
「コイツは基本的にオレとしか喋らないんでね、何を聞いても返事はないよ」
「そ、それでは、その」
「コイツがいま何を求めてるかって事かい? 昼飯をまだ食ってないからな、腹が減ってるはずだ。ちなみにカレーライスしか食わないけど」
「わかりました、いますぐお持ち致します!」
リーダーはロビーを走り、他の道士たちの間をくぐり抜けて、玄関から外に出た。もしかして、コンビニにでも買いに行くんだろうか、カレーライス。随分遠いけど。
「うちの道士が失敬な事を致しませんでしたでしょうか。もしそうなら、首導としてお詫び致します」
殻橋さんが、こちらに近づいて来た。でも、やはりジロー君は反応しない。
「我々は、ただ仏の道に従おうとしているだけ。代受苦者に悪意はない事をご理解ください。あ、失礼。代受苦者というのは」
「知ってますよ」
五味さんはタバコを一本手に持った。でも、それを咥えようとはしない。
「菩薩の行いに『代受苦』というのがある。他人の痛みや苦しみを代わりに引き受ける事だ。そこから転じて、大きな事故や災害に遭った人々、病気や障害を持って生まれてきた人なんかの事を『代受苦者』と呼ぶようになった。その人が他人の苦しみを背負ってくれた、つまり自分たちが幸せなのは誰かが不幸を背負ってくれたからだ、そういう考え方でしたよね」
私はそれを初めて知った。代受苦者。そうか、仏教にはそんな素敵な考え方があるのか。殻橋さんも感心したように笑顔を見せた。
「おお、よくご存じですね。宗教には詳しいのですか」
「いいや。ガキとオカルトは大嫌いでね」
五味さんはニッと歯をむき出した。笑顔にも見える。でも威嚇しているかのようにも見える。殻橋さんの目はスウッと細くなった。
「……あなた、面白い方だ」
そこで初めて、五味さんはタバコを咥えた。そしてすかさず火を点ける。殻橋さんが眉をひそめ、道士の人たちの間に緊張が走った。そのタイミングを見計らったかのように。
「おひーさまのぼりや、おつきさまのぼりや、おひーさまのぼりや、おつきさまのぼりや」
上から突然大きな声が、続いて金切り声の絶叫が響いた。朝陽姉様だ。この感じ、きっと『お言葉』だ。大階段の上を見ると、朝陽姉様が羽瀬川さんたちに支えられながら、合掌して叫んでいる。その口から、言葉が溢れだした。血を吐くような声で。
「我は典前大覚であるぞ。日月をおろそかにする雛子ども、我が言葉を聞き知らしめよ。祟るぞ祟るぞ十文字、夜のチマタの十文字、哀れな雛子は逆さになって、赤く輝く十文字。哀れな雛子は逆さになって、赤く輝く十文字」
そして朝陽姉様は、グッタリと倒れ込んだ。羽瀬川さんたちがいなかったら、大階段を転げ落ちていたかも知れない。
「何ですか、いまのは」
殻橋さんは不快げに、口元をハンカチで覆いながらつぶやいた。
「教祖の『お言葉』です」
私は立ち上がった。殻橋さんがこちらを横目でにらんでいる。
「『お言葉』? 何ですそれは」
「天晴宮日月教団の教祖は代々、霊媒体質の者が務めています。自らの体に精霊を宿らせて、人間界の外からの視点であらゆる事を見通すのです」
「精霊ですか。それはそれは。典前大覚とかいう個人名を出していたようですが」
確かに、朝陽姉様は父様の名前を口にした。それは何を意味するのだろう。
「大覚は先代教祖です。こんな事は初めてですが、おそらく」そう、おそらくは。「先代の霊魂が憑依したのではないかと」
はっ。殻橋さんは鼻先で、心底馬鹿にしたように笑った。
「そうですか。ここが恐山だとは知りませんでしたが、まあ百歩譲って、そのような事実が起きたのだとしましょう。それで。あの呪文めいた言葉の意味は。あれはいったい何だったのです」
「それは……きっと、何らかの警告だと思います」
「警告!」
耐えきれなくなったのか、殻橋さんは吹き出すと、しばらく高笑いを続けた。そしてひとしきり笑った後。
「くだらない」
そう吐き捨てた。
「過去に死んだ者が未来への警鐘を鳴らしてくれたとでも言うのですか。それは予言であると言っているようなものですよ」
「予言はおかしいですか」
私の言葉に、殻橋さんはまたあの氷のような目を向けた。
「かつてお釈迦様はおっしゃいました。吉凶の判断を捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう、とね。占者予言者の類いは二千数百年も前から軽蔑嘲笑の対象でしかないのです。それをこの現代に予言ですか。しかも祟りとか言ってましたね。呆れ返って物も言えません。いいですか、この教団は我々給孤独者会議の傘下に入ったのです。今後そのような世迷い言は許しません。良い機会です。あなた方の腐った性根を、ここで叩き直して差しあげましょう」
周囲の道士たちが身構え、私にじわりと近づいた。冗談を言っている空気ではない。囲まれている。逃げ場はなかった。いや、一つだけ。大階段の方向だけ隙間がある。私が走り出そうとした瞬間。
「目くそ鼻くそじゃねえか」
溜息交じりの声が聞こえた。後ろから。五味さんだ。
「何」
殻橋さんの目が不快げに歪んだ。五味さんはタバコを唇にへばりつけるように咥えて、ヘラヘラと軽薄に笑っていた。
「子供じみてるんだよ。宗教家の言う『正しさ』なんてのは、所詮内輪でしか通じない。絶対的でもなきゃ普遍的でもない。そんなもん押しつけあって何が楽しいんだ。くだらねえ」
「ほう。まさか彼らと我々が同じに見えると言うのですか。それは面白い意見です」
そう言う殻橋さんの顔は、まったく面白くなさそうだ。五味さんはタバコを口から引き剥がすと、椅子の横にあるスタンド式の灰皿に投げ込んだ。
「同じに見えるはずがない、同じに見える方がおかしい、そう思ってるんなら、そりゃアンタの目が曇ってるんだ。自覚した方がいいぞ」
「目が曇っているのはどちらでしょうか。仏教はこんな邪教とは違って世界宗教です。それは現実的に普遍的な価値を示しています。それを無視して『内輪でしか通じない』? いったいどこを見ているのでしょうね」
「もしアンタの言う通り、仏教が普遍的な価値を持ってるなら、アンタらの団体の価値は何だ。何の意味がある。既存の仏教に正しさがあるのなら、既存の仏教を信仰してりゃ済む話だろ。アンタらの存在そのものが、仏教を否定してるんじゃないのか」
「我ら給孤独者会議は既存の日本的仏教より以上に、お釈迦様の根源的な思想に原理的に忠実であらんとする団体です。他の仏教団体とは違う」
「つまり既存仏教には、普遍的な正しさなんかないって認める訳だ」
「詭弁ですね。屁理屈と言ってもいい」
五味さんは新しいタバコを咥えた。
「ガキを押さえつけてケツひっぱたくのも、ブッダの教えってヤツかい」
「子供の誤りを正すのは、大人としての責務です」
「仏様は、そこまでカバーしちゃくれねえってか」
五味さんは笑いながらタバコに火を点けた。殻橋さんは目を細めて見据えると、小さく息をついた。
「キリがありませんね。いいでしょう」
そして一度私をにらみ、大階段の上の朝陽姉様をにらんだ。
「それでは待ってみるとしましょうか。予言とやらが当たるものなのかどうか、私も興味が出てきました」
「おい、オレは予言なんか信じちゃいねえぞ」
そう言う五味さんを無視し、殻橋さんは周囲の道士たちにこう命じた。
「出入り禁止は継続です。私の許可がない限り、すべての出入りを禁じなさい。いいですね」
「おいちょっと待て!」
ロビーの反対側から声が響いた。大柄な刑事さんが、事務所の方からノシノシ大股で歩いてくる。
「さっきから訳のわからん事ばかり言いやがって、いい加減にしろよ」
殻橋さんは小さく首を傾げた。
「はて。どなたですか」
「県警捜査一課の原樹巡査だ!」
原樹さんは警察手帳を見せながら、殻橋さんにのしかかるように近づいた。殻橋さんは口元をハンカチで覆っている。
「その捜査一課の方が、私に何の用です」
「それはこっちの台詞だ。何の目的でこんな事をする。いいか、おまえらのやっている事は、れっきとした監禁罪だ。犯罪だ。すぐに全員を解放しろ」
「そうですか。それは大変ですね」
その言葉には「だからどうした」という響きがあった。
「なっ……わかってるのか、いますぐここで手錠をかけてもいいんだぞ」
「やってご覧なさい。やれるものなら」
殻橋さんは平然と答えた。原樹さんの周囲には道士たちが近づいてくる。一触即発の空気の中、また五味さんが声を上げた。
「やめとけよ」タバコを灰皿に捨てる。「相手はマトモじゃねえんだ。ケガをすんのはアンタ一人じゃねえぞ」
「おい五味、おまえどっちの味方だ」
怒鳴る原樹さんに、面倒臭そうな顔で五味さんは答えた。
「どっちの味方でもねえわ。ここから早く出たいのはオレも同じだ。何せこっちは金がかかってるんだよ、アンタらと違ってな。だが状況ってもんがあるだろうが。ちょっとは周りを見て判断しようぜ」
殻橋さんが小さく笑う。
「あなたはイロイロと失敬な人ですが、利口なのは認めましょう」
「そりゃどうも」
「一つ聞きたい」
女性の刑事さんが殻橋さんに近づいた。
「あなたは」
「県警捜査一課の築根麻耶警部補。確認していいか」
「何でしょう」
「我々がこの館内に足止めされるとして、その身の安全は保証されるのか」
殻橋さんは鼻先で笑った。
「当たり前でしょう」
「誰が保証する」
「私が、この殻橋邦命が、その名にかけて保証いたします。それでいいですか」
「了解した。あんたに任せよう」
「しかし、警部補」
情けない声を上げる原樹さんの横を、築根さんは通り過ぎた。
「おまえは少し頭を冷やせ」
そして五味さんの前に立った。
「世話をかけたな」
「礼を言われる筋合いはねえよ。それよりも」
五味さんはタバコを咥えて火を点ける。煙を一吹きして眉を寄せた。築根さんがうなずく。
「予言か」
「アレが単なる予言なら、どうって事はないんだが」
そして二人は私の方を見た。
「さっきのあの言葉、意味はわかんねえのか」
またジロー君の隣の席に座って、私は首を振った。
「ああいう感じの朝陽姉様は何度も見ていますけど、今回は意味までは。だけど」
「だけど?」
促す築根さんの目を見て、私は言った。
「あの予言は当たると思います」
「根拠は」
五味さんは視線をそらした。
「だって、朝陽姉様に父様の霊が降臨したんですから。これは天晴宮日月教団としては、最強レベルの『お言葉』、だから外れるとは思えない」
「それは根拠とは言わねえよ」
五味さんは上を向いて天井に煙を吐き、何て言うのだろう、そう、苦虫を噛み潰したような顔でつぶやいた。
「ただ、いまここはクローズドサークルなんだよな」
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