第10話 柴野碧

 椿の間というから和室かと思っていたのだが、そこは会議室だった。折りたたみ式の長机とパイプ椅子が並んでいる。そして長机の上には。


「お、灰皿あるじゃないですか。この部屋、タバコ吸っていいんですか」


 大松という名の事務員は、やや迷惑そうな顔をしながらうなずいた。


「まあ一応この部屋では。あの、廊下では吸わないようにしてください」

「ええ、そりゃもう。しかし今どき有り難いな。あなたも吸うんですか」


 早速タバコを取り出したオレを怪訝な顔で見つめながら、大松は首を振った。


「もうやめました。いまの教祖様はタバコを吸われないものですから」

「へえ、そりゃ凄い。オレには禁煙なんて、死ぬまで出来そうにないですね」


「……それでは、柴野さんを呼んで参りますので、しばらくお待ちください」


 呆れた顔の大松が部屋を出て行った後、オレはタバコを咥え、パイプ椅子に腰掛け、ライターに火を点けた。ジローは部屋の隅に行くと、膝を抱えて床に座った。パイプ椅子はお気に召さないらしい。



 それから五、六分ほど待ったろうか。二本目のタバコを灰皿でもみ消した頃、椿の間のドアがノックもなしに開いた。紺色の作務衣姿で、ゆるいウェーブのかかった髪の、三十前後の丸顔の女がこちらをにらみつけている。美人とは言わないが、男好きのする顔だ。オレはパイプ椅子に座りながら、満面の作り笑顔で迎えた。


「アンタが柴野碧さんか」


 すると女は大きな音を立ててドアを閉めた。ここのドアはクローザーがついてないようだ。


「誰あんた。何の用」


 つっけんどんな口調でそう言いつつ、だが心当たりはあるのだろう、こちらを探る目つきだ。その視界が部屋の隅を捉えた。膝を抱えるジローに気付いてギョッとする。オレは座ったまま、角がヨレヨレになった名刺を胸ポケットから出して渡した。


「オレらはこういう者さ」

「……興信所?」


 さすがにコイツは知っているか。受け取った名刺とオレの顔とジローを、顔で三角形を描きながら交互ににらんでいる。


「心当たりはあるだろ」

「ない。あたしには家族も親戚も居ない。誰の差し金」


「家族は居なくたって、『家族になろう』って約束した相手は居るんじゃないのか。ま、向こうは七十前の爺さんだが」


 柴野碧は目をそらして舌打ちをした。わかりやすい性格だな。


「確かにお付き合いはしてたよ。でも別れた。もう単なる元彼。捜される筋合いはない」

「その元彼が、自殺を図って入院してるのは知ってるか」


「知らない。関係ないし」

「そりゃ冷たいな」


「もういいかな。あたし忙しいんだけど」


 再びドアのノブを握って、碧は背中を向けた。


「爺さんの息子たちが、アンタを訴えるそうだ」


 その言葉に、動きが止まる。


「訴える? どんな理由で」


 碧は鼻先で笑って見せた。だが声に動揺が出ている。オレは三本目のタバコを咥えて火を点けた。


「もちろん結婚詐欺でさ」

「ふざけないで!」碧は振り返って怒鳴った。「あたしは何も悪い事なんかしてない」


「だが爺さんをだまくらかして、六千万巻き上げたよな」

「あれは手切れ金。慰謝料なの。死にかけのジジイが、こんな若い女にあれこれイイ事してもらって、タダで別れられる訳ないでしょ」


 言うほど若くないだろうとも思ったが、まあ爺さんからすれば、孫みたいな歳ではある。


「それにしたって、六千万はボリ過ぎだ。ちょっと欲が深すぎたな」


 オレは天井に向かって煙を吐き出した。碧は悔しげに奥歯を噛みしめている。


「それで」

「ん?」


「あんたは何をしに来たの。こんな所まで、あたしを怒らせるために来た訳じゃないんでしょ」

「さすがに頭回るじゃねえか」


 タバコを灰皿に置いて、オレはパイプ椅子から立ち上がった。


「爺さんの家族としちゃ、金さえ返すなら、訴えるのはやめてもいいそうだ」

「何それ。馬鹿にしてんの」


「馬鹿にはしてねえだろ。切実な現実リアルってヤツだ」

「結局ジジイより金の方が大事って事じゃない」


「んな事は当たり前だろうがよ」


 オレは一歩近づいた。碧はドアノブを握って、いまにも逃げ出しそうな体勢だ。その目の前に、指を二本Vの字に立てる。


「二割出せ」

「……はあ?」


「爺さんの息子らには、半額の三千万で納得させる。連中にしたって、元は爺さんの金だ。何に使おうが、本来文句が言える筋合いじゃない。それが半分戻ってくるなら、それも現金で三千万を目の前に積まれりゃ、ヨダレを垂らして話に乗ってくるさ。アンタだって三割の千八百万、手元に残りゃ損はねえだろ」


「強請る気かよ」


 半ば嫌悪と安心の入り交じった顔で、碧はオレを見つめた。自分と近いニオイを嗅ぎ取ったのかも知れない。


「取引だ。良心的だとは思わねえか」

「良心なんかないくせに、よく言う。だいたい二割は取り過ぎ。仲介料なら五百万で御の字でしょうが」


「んじゃ交渉は決裂だ。オレは依頼主に、見たまんま聞いたまんまを報告する。アンタはここから逃げ出すなり何なり勝手にするといい。行く場所があるんならな」


 碧は口を真一文字に結んでオレをにらみつけた。だがやがて諦めたように、一つ大きなため息をついた。


「……明日すぐ払えとか言うんじゃないよね」

「まあ金額が金額だからな。いきなりは銀行も困るかも知れん」


「いや、一千万ずつバラして別の銀行に入れてるから」

「エラい堅実なんだな」


「ああー、当分遊んで暮らせると思ったのになあ」


 頭を抱える碧を横目に、オレはタバコを灰皿から取り上げて咥えた。考えるのは自分の懐に入る金の事。千二百万か。三年は金に不自由しないな。そう思いながら。

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