第8話 玄関ロビーの絵

 天晴宮日月教団の総本山に、オレとジローは招き入れられた。玄関の自動ドアを入ると、ロビーの真正面に二階に上る大階段が、そして奥の左手に絵が見える。おそらくホテルだった頃にはフロントカウンターがあったであろう場所に、絵が掛かっているのだ。


 デカい。横三メートル、縦二メートルはあるだろうか。油絵だ。額には入っていない。キャンバスではなく木製パネルに描かれていた。


 右側半分は燃えるようなオレンジ色に塗られ、黄色い太陽が空に輝いている。頭を下に向けて墜落するのは、おそらくイカロスだろう。さっきの天成渡の言葉を思い出す。一方、左側半分は濃紺に塗られ、空には三日月が昇っている。暗い十字路に立つ陰気な女の姿。何だこりゃ。


「ヘカテーです」


 こちらの心を読んだかのように、背後の典前夕月が言った。


「何でわかった」


 振り返るオレに、夕月はジローと手をつなぎながら、おかしそうに笑った。


「別に何もわからないですよ。みんなイカロスは知っててもヘカテーを知らないから、この絵を見て変な顔するの」

「まあマイナーな神様だからな」


「そんな事ない。ヘカテーは月の女神、死の女神、魔女の女神、十字路の女神、その他たくさんの名前を持ってる、古代ギリシャやローマでは有名な女神です。シェイクスピアのマクベスにだって出て来るし」


「シェイクスピアも一般常識じゃねえよ」


 このガキ、見た目は可愛いくせに、中身は本の虫か。とりあえず常識はあんまり知らないようだ。新興宗教の教祖の子供なんてのは、イロイロと問題があるのかも知れん。親の因果が子に報いってヤツだな。まあ、オレはガキとオカルトが大嫌いなんだが。などと考えていると。


 突然、オレの襟首が、物凄い力で持ち上げられた。勢いで片足が浮き上がる。ワイシャツが縫製の甘い安物だったら、一発で破れていただろう。


「おい五味!」


 聞き覚えのある声に振り返ると、すぐ近くに刑事の原樹の顔があった。


「こんな所で何をしてる」

「やめないか原樹。一般市民だぞ」


 苦笑しながら近づいてくるのは、築根だ。原樹は襟首をつかんでいた手を放すと、不満げに鼻を鳴らした。


「こんなヤツ、一般市民扱いする必要はないでしょう」

「んな事はアンタの決めるこっちゃねえよ」


 ムカついたので、鼻先で笑ってやった。


「何だと貴様」

「いいのかい、市民に暴行を働く様子が防犯カメラに映ってるぞ」


「ぬっ」

「やめないか」築根は原樹の腕を引くと、夕月に微笑みかけた。「ごめんなさいね、二人とも馬鹿だから」


 夕月は笑顔で首を振った。


「いいえ、楽しそうで羨ましいです。あと、ここには防犯カメラはないですよ」

「へえ、カメラないのか。そりゃ不用心だな」


 イロイロやりたい放題じゃねえか、と思ったが口には出さない。


「ここには悪い人は居ませんし、もし居たら、その人を救うのが宗教ですから」

「そうかい、そりゃご立派なこった」


 どうせオレが一生出会う事もない、どこかの誰かを救うんだろう。心の中で夕月にツッコんでおいて、オレは築根にたずねた。


「アンタらこそ、何でここにいるんだ。人殺しを調べなくていいのか」

「ここでも人殺しはあったじゃないか。今日はその後始末だ」


「後始末?」

「例のストーカーが、事件前日からここに潜伏していた様子の写真が出てきたらしい。それを受け取りに来たんだ」


「んなもん、メールで送ってもらえばいいだろ」

「警察はそこまでデジタル対応してないよ。証拠品は返却する事が前提だからな。紙に焼いた写真があるなら、それはそれで助かる」


「雑用もいいところだ。アンタ一課で嫌われてんじゃねえのか」

「嫌われてるかどうかはともかく、扱いに困ってる部分はあるかも知れない。イロイロやらかしたからな」


 築根は笑った。笑ってりゃ間違いなく美人なんだがな、コイツは。そう、確かに築根はイロイロやらかしている。オレはそれを知ってはいるものの、ここで口にする事でもない。


 築根は笑顔のままで夕月にたずねた。


「天成渡さんは事務所に居るのかな」

「ええ、さっき事務所に戻るって言ってましたから、居ると思います。呼んできましょうか?」


「大丈夫、こちらから……」


 築根麻耶がそう言いかけたとき、玄関の自動ドアが開き、黒い壁が現われた。

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