氷の天使

 僕の放った“放水”が、オークの躰を貫いたのと時を同じくして、鷹の魔物はサイクロプスを束縛する鎖の破壊に成功していた。


 鷹はその斧のように鋭利な爪を用いたのだろう、ギィンという音と共に、鎖が断ち切られたのを僕は見ていた。


 体を縛り付けるものを失くしたサイクロプスは、ノッソリと緩慢な動きで立ち上がる。


 丸く黒い瞳には未だ幾何学模様が浮かび、黒の短角は僅かに光りを帯びていた。

 しかし、何か違和感のようなものを、僕は感じてならなかった。


 それを確かめるように目を凝らし……気がついた。


「――こいつ、僕のことを見ていない」


 視線が、明らかに僕へと向いてはいなかった。

 あれだけのことをされて、ヘイトは確実に僕へ集中していたはずなのに。


 なぜ、という疑問にサイクロプスが答えるわけもなく。


 僕は少しの間でも、サイクロプスの意識が他へ行ったことに無意識にも安堵を覚えてしまっていたのだろう。

 己の中の警戒心が僅かに薄れた、次の瞬間。


 サイクロプスが、鷹の魔物をその大きな手で鷲掴みにして……握りつぶした。

 まるでトマトでも潰したかのように、赤い汁が飛散する。


 ギュエッ、という短い悲鳴。

 鷹の魔物は、一切の抵抗もなく、その命を散らし……サイクロプスはその死骸を貪った。


 ゴリゴリと骨を噛み砕く音が恐ろしいくらいに耳に残る。


 想像もしていなかった時事態に、僕は呆然としてただ立っていることだけしかできなかった。


 その行為にどんな意図があったのか、僕には推し量ることもできはしないが、僕にとってみれば、脅威の内の一つが勝手に居なくなっただけのこと。

 損なんてものは何もない。

 寧ろ、幸運とさえ言える。


 さぁ、切り替えろ、と僕は僕自身に言い聞かせ、しかし、ここでサイクロプスは次の手を打ちだした。


【支配の魔眼】。


 こちらへ訪れた幾十もの魔物。

 今をもって、それが全て、サイクロプスの支配下に置かれた。


 一度は消えた幾何学模様の光が、再び瞳に灯りだす。


 サイクロプスが厳かに、その重厚な口を開いた。

 出たのは、言葉ではない……何か・・。

 しかし、それは魔物たちにとっては、意味のあるものだったのだろう。


 それを切っ掛けにして、周囲に蔓延る魔物たちは相対する探索者たちを無視して、一直線に僕へと殺気を飛ばす。


 無論、みんな魔物が他へ――というか僕の方へ行ってしまわないように、と力尽くで引き止めてくれてはいるが、それにも限界があった。


 一人、中年の探索者が足を負傷した。

 相手はリザードマン。

 恐らく、彼よりも格上の相手だったのだろう。


 未だ剣を構えながらも、険しい顔をしていた。

 彼とは、僕もたまに話をする程度には見知った仲だ。

 とはいっても、互いに命をかけるほどでもない。


 案の定、男は僕をチラ、と一瞥した後……撤退を始めた。

 僕が僅かに垣間見た彼の顔に、罪悪感は写ってはいなかった。


 しかれど、僕の中に、怒りはなかった。

 当然だ。


 たかだか知人程度に、命をかけられるやつは少ない。

 僕だって、同じ状況に陥れば、同様の選択をしていた可能性も高いのだから、責めようにも責められない。


 これを皮切りに、魔物の群れは勢いを増していった。


 徒党を組むことで、探索者を嬲り殺したゴブリン。

 力の弱い探索者を集中して狙うコボルトにバトルウルフ。

 力で押し切り、圧殺。各所で暴れまわるオークたち。

 そして、探索者と比べて比較的レベルの高い自衛隊員たちですら手を焼くリザードマン。


 特に、ガタイのいい、恐らく上位種だろうリザードマンは単独で自衛隊員を蹴散らし続けている。


 そして、それらの目が僕へ向く。


 正面にはサイクロプス。

 背後には多数の魔物。

 逃げ道はなく、迫る魔物たちを殺しきることも困難。


 万事休すか、と半ば諦めが頭をよぎった。


「せめて、数体くらいは道連れに……」


 サイクロプスを僕だけで倒すのは……多分無理だ。

 なら、この僕に向かってくる魔物の数を減らすくらいはやってやろう、と。やけくそ気味に、僕は拳を握った。


 “黒鬼化”によって黒く染まった両腕に、再び“液体化”を重ねがけ。

 一瞬にして溶けた腕をダランと脱力させ、振るう。


 腕を大きく横に薙ぐたびに、魔物の叫びが反響し、体液が飛ぶ。

 間合いに入った者から、順に殺す。

 もはや機械的ともいえる単純作業は、しかし、すぐさま終わりを迎える。


 疲労だ。

 ただでさえ負担のかかる“黒鬼化”と“液体化”の同時使用。

 それを、今日だけで一体どれだけ使ったか。


 もう、とっくに僕の体は限界だったのだ。


 だんだんと腕が上がらなくなる。

 骨が、筋肉が、悲鳴をあげ、ついには“黒鬼化”と“液体化”を維持することも出来なくなった。


 素の体に戻った僕は、魔物たちにとっては格好の的。

 さらに、僕を守ってくれる人間はいないときた。


「……死んだ、かな」


 僕は、既に命を諦めていた。

 これだけ足搔けたなら、満足だ、と自分の心を偽って、そっ、と瞼をとじ――ただでさえ凍るような寒空の下、さらなる冷気が舞い降りた。


「奏くん、すみません。すこし遅れてしまいました……残りは、私が片付けます!」


 聞き覚えのある声に反応して、恐る恐る瞼を開くと、そこには一人の天使がいた。

 巨大な氷を侍らせて、薄っすらと微笑む、氷の天使が。

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