ベルセルク
ゴクリ、と近くで生唾を飲む音が聞こえた。
「俺が、時間を稼ぐ。皆は一旦ここから離脱しろ」
額の汗を腕で拭い、声と体を震わせながら紡がれた声は犬飼さんのものだった。
「いや、でも……」
「いいから、早く。俺も、後で追いつくから」
多分に焦りを孕んだ声音で、犬飼さんは僕らに逃亡を促す。
しかし、未だ百以上も残るオークたちを一人で相手して生き残れる確率などゼロにも等しい。
滴り落ちる汗の量からも、彼の疲労度は相当なものであると推測できるだけに、僕はその考えに首を縦に振ることはできなかった。
「く、熊野さん! もっと援軍は呼べないんですか!?」
「……今、連絡を入れたところです」
熊野さんは、スマホを片手に小さく俯いた。
「ですが、援軍到着まで、最低でも一時間はかかるでしょうね」
「な、なんで……」
「応援を呼ぶとすれば、現在十六階層の攻略を進めている最前線の者たち。もしくはギルドに警備として就いている者、それか、非番でダンジョンの近くにいる同僚が精々です。どちらにせよ、移動に時間はかかってしまいますから。……それに、非番の者ならともかく、それ以外であれば面倒な手続きが必要になります」
熊野さんは忌々しそうに顔を歪めて声を絞り出す。
「そ、それじゃあ……どうすれば」
「うろたえるな!」
弱々しく呟く僕に、犬飼さんは叱咤する。
「さっきから言ってるだろ……俺は死なない。だから、早くここから――」
そう、言いかけたところで、オークたちが再び動き出した。
僕たちが逃げの姿勢をとり始めていることに気づいたのだろうか。
獲物を見るような血走った瞳が僕たちを捉える。
どこからか、ヒッ、と短い悲鳴が聞こえてきた。
もう、心が折れかかっているのだろう。
オークたちは僕たちを逃すまいと、包囲するようにジリジリと動き出す。
「クッ――まずいですね……」
あの熊野さんが焦りを顔に出している。
それはつまり、相当なピンチだと言って過言ではないはずだ。
「これじゃあ、逃げるにも逃げられなくなっちまったな……」
隠す気もなく舌打ちした後、今度は犬飼さんが小さく愚痴を漏らした。
最初に会った時は礼儀正しい好青年、といった感じだったが、戦闘中ということも相まってか、今の印象は荒っぽいチンピラにも見える。
まあ、言葉が少しばかり強いだけで、その根底には優しさがあるのだというのは分かっているが。
「人が多い中で使いたくなかったんだが……しょうがない、か」
「あれを、使うんですか?」
「ええ、はい」
あれ、とはなんだ? と僕は首を傾げ、しかし、彼らは無言で頷き合うだけで、答えはなかった。
熊野さんは僕たちを犬飼さんから離そうと後ろに下がるよう命令を下す。
そして――
「皆さん、今からは出来るだけ犬飼さんには近づかないで下さいね」
妙に硬い声で、熊野さんは僕らに視線を投げた。
その瞳は真剣そのもので、犬飼さんが何をしようとしているのかは分からないけど、熊野さんが言うことには取り敢えず従っていた方がいいだろうな、と僕の中で判断された。
スゥッ、と深く息を吸い込み、犬飼さんは鷹のように細めた瞳でオークの軍勢を睥睨する。
そして、吸い込んだ空気の全てを吐き出すように。
犬飼さんは咆哮した。
「――【ベルセルク】!!」
その叫びに呼応して、犬飼さんの体はバキバキと音を立てて作り変えられていく。
細身であったはずのその体躯は、筋肉が肥大し、骨格すらも形を変えたことで巨人とも形容すべき姿となった。
身長は目測で二メートル以上。
筋肉は時折ピクピクと動き、隆起している。浮き出る血管は太く、もともと鋭かった瞳はさらに鋭利さを増した。
その巨体と釣り合っていないからか、彼の手にした剣がひたすら小さく見えて仕方がない。
そして、フゥッフゥッ、と小刻みに荒く息を吐き、なんだか挙動が不審である。
これはどういうことか、と。僕は熊野さんに視線を投げかける。
「あれは、犬飼さんのスキルです」
いや、そんなことは見ていれば分かることだ。聞きたいのはそこじゃないんだ。あれが、一体どんなスキルなのか、それが聞きたいんだ。
みんな僕と考えていることは同じなのか、同様に熊野さんへと視線が集まった。
「……あのスキルは【ベルセルク】と言って、一時的に理性と知性をなくす代わりに強靭な体を手に入れる、増強系に分類されるスキルです」
しかし、と、熊野さんは言葉を続ける。
「理性も知性もない、ということは、敵味方の判断も出来る状況ではないということでもあるんです。だから、このスキルを使うのは味方がいない時、もしくは使わなければ死んでしまう時……だったのですが、今回は後者ですね」
悔しげに、熊野さんは声を滲ませた。
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