第8話暗闇の始まり

グラフィアスは、未だ研究室の天井裏に潜んでいた。

 海洋生物の標本は、ワイヤーで吊るされ、時折微動する。どこかでトーマスが慰め程度に自分の名前を呼ぶが、明らかに諦めている。

 ふっと微笑み、青みがかった黒髪を掻き上げたグラフィアスは、標本越しに室内を何気なく見下ろした。その途端、満足そうに細められた目が見開かれた。

 牡丹色の髪を肩くらいで切り揃えた金銀妖瞳の少女が、ドアの近くから室内を窺っていたのだ。

 雪のように白い肌、艶かしい牡丹色の髪、紫水晶が嵌っているような左眼、トパーズが嵌っているような右眼。細く長い手足。

 幼いような、大人びているような不思議な美貌を持つ少女は、黒いチャイナドレスに髪と同じく牡丹色のふわふわしたスカートを着ていた。上着と同じく黒い付け袖に、ちらりと牡丹色の薄い布が見える。服の随所に赤い花が飾り紐と一緒に付いていた。

 誰だ、あの服を選んで子供に着せたのは。

 繊細な刺しゅうや艶のある布を見る限り、かなり高価な服の筈だが。

 軍の支給品にしては財布の紐が大分緩んだな。とグラフィアスは溜息を吐いた。

 絵本の中から飛び出してきたお姫様と表現した方が良さそうな少女は、鬱蒼とした研究室に、立ち入るか否かを思考しているようだった。



 私は、目の前に広がる迷宮を見て、呆然とした。

 すごい、本が部屋を支える柱にしか見えない。

 白鳥の首フラスコや、三角フラスコ、丸底フラスコ、試験管、ルーペ、鉱石の標本、羊皮紙、何だか得体の知れない薬品、辞典、図鑑、参考書、まるで「科学」という単語で連想する品々が寄せ集められたような部屋だ。

 発想が丁寧に記録してあるメモや、植物の葉が床のこと如くを占領している。

「何だか、部屋に入るの禁止!って言われているみたいですね。」

 本や書類が幾つも積み上がっている室内に不用心に踏み入れば、ふとした拍子に、絶妙な均衡を保っている実験用具が洪水のように押し寄せる事は確実だった。

 私は、見上げても終わりが見えない書類の塔や、床や机の上に放置された顕微鏡を見て、ある違和感に気が付いた。

 その、不確実な勘は、私の頭の中で、構築された推測によって確固たるものになった。

 私は、部屋の天井を正確に円形にくり抜いた部分に目を向けた。

 そこには、海洋生物、恐らく哺乳類の化石が復元されてぶら下がっていた。

 どうやら、部屋の天井と建物自体の天井はかなりの広さを残して建築されているらしく、部屋の天井が円形にくり抜かれ、そこから更に、上の方からワイヤーが出でいる。実際、化石の生物は、くり抜かれた空間の中に浮いているのだから。

 私は、そのくり抜かれた天井に向かって、一礼した。



 グラフィアスは、金槌で思いっきり殴られたような感覚に陥った。

 

 あの少女が、一見しただけで、部屋の天井裏に人間がいることを見抜いたのだ。

 通常初めて訪れた場所の構造を把握するには一種の才能がいる。

 壁の厚み、間取り、部屋と部屋の間隔、などなど、並外れた観察眼と経験値が必要なのだ。ましてや、この建物は普通の建物よりかなり天井が高い。その上、見る場所から混乱するような散らかった部屋だ。積み上げられた本に関心を示すならまだしも、天井まで気に掛けるとは……

 声を殺して、グラフィアスは笑った。

 彼の心は歓喜に満ちた。

 ―「これはこれは、なかなか面白い人間が来た。」

 愉悦に似た恍惚感に胸まで浸りながら、グラフィアスは下に降りて行った。


 国家機密すら手玉に取る危険な魔法科学者グラフィアス教授と、破壊魔神の名を冠する夢魔を従えた異端の天才児ユウェルとの、出会いの瞬間であった。





 同日某所深夜

 大広間には円形に配置された柱に備え付けられた松明以外に明かりがなかった。

 広間の中心に巨大な魔法陣が描かれ、徐々に発光していく。

「古の御霊を再び迎え入れん……」

 魔法陣の中心に、幼い少年が召喚装束を纏って詠唱している。

 風が巻き起こり、松明の炎が色を変え、轟々と燃えたぎる。

 黒い大理石で作られた広間には、少年から見えない位置に、大紋章を施された白い布で隠された山のようなものがあった。

 その布が、時間が経つにつれ、丸いシミで穢されていく。

 布の上から、人間の体が確認できる。それも何人もの。

 悍ましい布に包まれた山が、他にも五つある。

 そうとは知らず、少年は儀式を続ける。

「我の呼び声に従うならば応えよ……。」

 緑色の閃光が魔法陣から湧き上がった。松明の炎も一瞬で毒々しく変わる。

 何か得体の知れない大きなものが呼び出されようとしているのを、柱の陰に隠れて様子を見守る大人が数人。いずれもフードで顔を隠し、ローブで体を覆っていた。

 魔法陣から溢れる魔力が一気に増し、風が暴風に変わる。

 積み重なっている人間の体が解け、赤黒い液体となって魔法陣に流れ込む。

 深紅に染まった布が六枚、そこに落ちていた。

 少年は意識を集中する為、目をつぶって詠唱している。当然、魔法陣に流れ込んだ赤黒い液体の存在を知らない。その液体の下が何であったかも。

 刻々と光の雰囲気を変え、魔法陣から溢れだす膨大な魔力に、柱に隠れていた人間達は感嘆の声を上げた。

 不気味な、暗い感情が混ざった声だった。

 その声にも、少年は気付かない。

 少年はただ、任務を遂行しようとしていた。

 そこに信念はなく、誇りはない。

 少年は、言われるがまま、求められるがままに、儀式を行っている。

 「幼さ」という隠れ蓑を離れ、その矛盾に、罪に、犠牲に少年が気付くのはずっと後のことだった。

 魔法陣から一際強い緑色の光が広間を怪しく照らした。

 中心に、一人の男が姿を現した。

 流れるような深緑の長い髪。切れ長の目も緑。

 繊細な体に、純白の服がよく似合う。

 美しい。という形容詞を体現したような男を見て、柱の傍にいた大人の一人が、「成功だ」と呟いた。

 魔法陣に流れていった赤黒い液体からは想像できない神聖な存在がこの世に降臨した。

「お前の名前は何だ」

 少年が命じるように、言い放った。

『私は、虚飾の魔王ベリアル。地獄の王の一人だ。』




 それから七年後

 渦巻く闇は外の世界に牙を剥こうとしていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異端の鎮魂歌 梅庭 譜雨 @sakura20021102

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ