7ようやくのヒロイン登場・惨劇開始
午前7時48分
愛知県名古屋市 中区栄
テレビ塔付近
東海地区の中心都市。
21世紀に向け、あちこちで再開発が進んでいた。
青空に向かって伸びる銀色の鉄塔。
その足元。
一方通行の大通りを疾走する、一台のスポーツカーがいた。
日産 フェアレディZ 300ZX。
平べったい、大柄なマキシマムマシンが、通り沿いの高級ホテルに入り停止すると、運転手が姿を現す。
女性だ。
20代も前半ぐらいだろうか。
まだ幼い顔つきに、腰まで伸びるしなやかな黒髪。
大きな瞳が優しい輝きを帯びている。
「こっちだよ。雪凪」
スーツ姿のボーイッシュな好青年が、手を振りながらロビーから出てくるのを確認すると、その女性は柔らかい笑みを浮かべて、男の名前を呼んだ。
「理人さん!」
「すまないね。ウチの刑事が1人、風邪で出られなくなってね」
「いえいえ。私もヒマしてましたから…だたちょっと、朝はしんどかったですけど」
男は、フフッと笑った。
「雪女の血、か」
「そんなとこです」
頬を掻きながら、はにかむこの女性。
その正体は、名家、越後の血を引く雪女だ。
彼女の先祖は、訳あって上越の地を追い出され、歩き巫女として各地の異変を解決しながら、京の都に流れ着いた。
雪凪には、雪女だけでなく巫女の遺伝子が受け継がれている。
加えて、生まれながらの文武両道。
その力を買った京都府警検非違使庁の、特別外部捜査官として、彼女は妖怪がらみの事件捜査に協力しているのだ。
「今回の仕事は、会議…ですか?」
「ああ。全国の主要都市の警察官が集まって、テロ事件の対策会議をするんだ」
「きっかけは、半年前の…?」
「それもあるが、平成に入ってから、僕たちの斜め上を行く事件が、幾つも起きているからね。
事件は時代を映す鏡って、誰かが言ってたが、ならば、その時代を再確認して、来る事件を防ぐのも、我々の仕事…ということさ」
説明をする青年は、
京都府警検非違使庁の捜査官で、階級は警部補。
雪凪の恋人だ。
彼とは、平成最初の妖怪犯罪に関わった際に、初めで出会い、そこから現在まで、恋人以上…のところまで続いている。
「僕個人の考えなんだけど、この会議には、是非とも君にも参加してほしかったんだ。
妖怪犯罪、それを調べる側の妖怪の視点。それが検非違使庁、いやトクハンに必要な視点だからね」
理人の誉め言葉に、雪凪ははにかんだ笑みで返す。
「買いかぶりすぎですよ。
私より、理人さんの方が、よっぽど妖怪について物知りです」
「そうかな?」
「それに、一番大事なのは、壁を作らないことです。
人間だから、妖怪だからって理由で理解しなかったり、そもそも考えることを捨ててしまうことが一番危ないんです。
そういった無関心の壁が、大きな事件を呼ぶかもしれないんですからね」
「無関心の壁…かぁ」
2人はロビーを抜け、エレベーターに乗り、4階にある大会議室へと到着した。
既に、背広を着た男性方が多く、たむろしている。
「全国都市警察対テロ事件緊急報告会議…か。お堅いネーミング」
「仕方ないさ。公務員の仕事だからね」
「だったら、理人さんは、どんな名前つけます?」
一瞬考えた理人だったが、
互いにクスっと笑いあう
2人の背後から、声をかけた人物。
理人より少し年長の、坊主の男がそこにいた。
「久しぶりだな、理人」
「築野さんじゃないですか! あなたも、この会議に?」
「ああ。警視庁の代表としてね」
彼は
警視庁捜査一課、第三係長。
「確か、警視になられたと聞きましたが」
「ノンキャリアが、ようやく勝ち取った椅子だ。
めでたく華の部署に栄転したが、やっぱり何かと気苦労が多い。
君は、まだトクハンに?」
理人は、頭を掻きながら答える。
「ええ。
今は京都府警に出向してます。警部補付けですよ」
「そりゃあ、大層なもんじゃないか」
「他の部署ならそうですけど、妖怪相手じゃあ、出世なんて夢のまた夢ですよ。
……あっ、紹介しますよ!」
そう言うと、理人は後ろにいたエリスを手招きした。
「警視。検非違使庁特別捜査官の姉ヶ崎雪凪です。
…雪凪。こちらは警視庁捜査一課の築野警視。2年前までトクハンにいた、僕の先輩だよ」
彼に促され、雪凪は優しく微笑みながら右手を差し出す。
「はじめまして。雪凪です」
「こちらこそ、よろしく」
初めて交わされた握手。
築野にとってそれは、懐かしい感触であった。
触れた雪凪の手。その手が異様に冷たかった。
ああ、覚えがある。
これは雪女独特の冷たさだ。
それが分かると、築野はサッと手を引っ込め、天真爛漫な眼前の少女に、小さく頷くのだった。
妖怪捜査の第一線から退いた彼に、雪女の温もりは、あまり喜ばしいものではなかったようだが――。
■
その頃――
午前7時55分
東京営団地下鉄日比谷線
秋葉原駅手前
北千住駅を出発した、中目黒行きA720S列車は、途中駅で車内に詰め込めるだけの乗客を満載し、トンネルの中を疾走していた。
車窓を流れるのは、等間隔の誘導灯。
乗客はそれぞれ、朝の通勤時間をつぶしていた。
次は日本屈指の電気街、秋葉原駅。
山手線や総武線とも接続する、ターミナルでもあった。
3両目。
乗客の何人かが、異変を感じ始めた。
駅に近づき、減速しているからではない。
明らかに、おかしな臭いが漂い始めていたからだ。
鼻に付く、ツンとした臭い。
塩素系独特の感じではない。近いものを上げろと言われると、そう、マニキュアの除光液のような、アルコールに似た刺激臭。
眠っていた乗客が目を覚まし始め、何人かが辺りを見回し始めた。
車両の床に、水たまりができていた。
無色透明の液体。
それが、目に見えた明らかな異変だったが――。
誰か小便でも漏らしたのか。
否、これはアンモニアじゃない。
なら、ハイターでもこぼしたのか。
否、その臭いとも程遠い。
第一、漂白剤を片手に、満員電車に乗るサラリーマンがどこにいる。
ならば、この水たまりと臭いはいったい、何なのか。
乗客たちは、その答えを探すばかりで、隣にいた悪魔に気づく者は誰一人いなかった。
上野駅から乗り、すぐ次の秋葉原で降りた青年。
春の晴天に、ビニール傘を片手に乗り込んできていたが、その先端は異常なまでに、鋭利に削られていた。
電車は轟音を立てて、秋葉原駅に滑り込む。
悪魔は静かに車両を降り、首を傾げ、顔をしかませ、咳き込みはじめる乗客たちを、ホームの外からただ、映画のワンシーンでも見ているかのように傍観していた。
眠たそうに、ただ呆然と。
彼にだけは見えていた。
液体がどこから、出ていたのか。
乗客たちの足元。
満員で見下ろせないそこに、びしょびしょに濡れた読売新聞が3つ、放置されていた。
否、正確に言うなら新聞にくるまれた、何かだ。
そのうちの1つが穴だらけになり、そこからゆっくりと、液体が零れ落ちる。
発車ベルと共に、視界から塊が消え去り、大きな鉄の塊が、それを暗闇へと持ち去っていくのを確認して、男は駅の出口へと向かっていくのだった。
傘を持つ右手を震わせ、雑踏でかき消された独り言を、薄暗い空間に吐き出しながら。
「これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ。これはポアだ……。
全ては
午前7時56分
A720S、秋葉原駅出発。
日本史上最悪と語り継がれる、惨劇の幕が上がった。
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