6 聖隷理亞帝都病院の朝、不穏の影


 午前7時38分 


 東京都中央区 築地

 聖隷理亞帝都病院




 隅田川沿いにそびえる2つの塔は、まだ出来立ての新品故か、朝日を浴びて輝いていた。

 聖隷理亞帝都病院せいれいりあていとびょういん。通称、聖隷病院は、4年前に大規模改修がなされた、メガホスピタル。

 米国病院をモデルに、高さ200メートル越えのツインタワーがそびえる第一街区と、高度医療を余すことなく提供できる総合病院棟の、第二街区から構成されている。


 この病院の、リニューアルの目玉の一つが、24時間フル稼働の救急センター。

 毎日毎時、それこそ昼夜を問わず、急患が運び込まれるセクションだ。

 若く、実直な医師たちによるローテーションで、刻一刻と変わる命の最前線に立ち向かう。



 令和の今となっては、各大病院、地域拠点の砦となる医療センターには、当たり前のように置かれている、こうした救急センター。

 平成初期においては、やはり多いとは断言できない。加えて、高度な医療を速やかに年中無休で施せるとなると尚更だ。



 ようやく落ち着いた朝の診察室で、背の高い若い医師が、コーヒーを口にして、大きく息を吐いた。


 石倉紘一いしくら こういち医師。

 聖隷病院救急センターのリーダーだ。


 設立当初。病院長からその冷静さと技術を買われ、直々に任命された人物だ。

 命と向きあう、その1秒1分が生死を分ける現場。

 更に、病院長肝いりの救急センター長に抜擢された責任。

 毎日が緊張の連続で、身が引き締まる。

 

 このコーヒー一杯もまた、彼にとっては数少ない、落ち着きの時間であるのだ。


 「また、砂糖増し増しコーヒーか」


 ドアを開けて、丸顔の医師がにやけながら彼を見る。

 石倉医師の机。

 そこに転がる、ちぎられたシュガースティックのカラ。

 10本もあれば、そんな感想も自然と出てくるだろう。


 この男は、霧島元きりしま はじめ

 救急センター副長。石倉と同じ、責任者だ。


 「そんだけ砂糖が入ってるってことは…相当忙しかったと見るが」

 「交通事故にアル中、その上心不全だ。疲れないほうがどうにかしてるよ」

 「そいつは、失礼した」


 石倉は一気にコーヒーを飲み干すと、逆に霧島へと返す。


 「そっちこそ、交代までには、まだ時間があるんじゃないか?」

 「なあに。カルテの整理でもしておこうと思ってさ。

  それに…」


 意味深な前置き。

 石倉は、その言葉を語尾を上げて、復唱した。

 その先を求めて。

 

 霧島は、首筋をさすりながら、気になる先を話し出す。


 「今朝は起きてから、首筋がピリッと痛む」

 「なんだよ。またいつものか?

  それとも、単なる寝違い?」

 

 失笑する石倉。

 それもそうだ。

 霧島には、子どもの頃から蓄積された経験に基づく、確固たるジンクスがあったからだ。

 それを、今でも信じているから尚更だ。


 「いつものさ」

 「ンなわけあるかよ…偶然だ、偶然」


 笑いながら否定するが、霧島は真剣だ。


 「いいや。俺の首筋は嘘をつかない。

  首筋に痛みが走る日には、何かとてつもなく大変なことが起こる…」

 「医者がジンクスなんて信じてたら、患者に笑われるぜ。

  それでなくても、救急センターの研修担当医がさ」

 「お前だって、俺と組んでから何度か経験してるだろ。

  現に1か月前にも――」


 立ち上がった石倉は、流しにマグカップを置きながら、霧島の語りを遮った。


 「都バスの衝突事故のことを言いたいのか?

  あれだって偶然だろ。

  大変な事、とは言っても、軽傷8人。死者はなし。

  擦り傷か打ち身がほとんど」

 「兎に角、俺は、俺の第六感を頼って早朝出勤してきたんだ」


 眉をひそめ、シリアスな表情でつづけた。

 コップを軽く水洗いする、石倉の背を見ながら。


 「起きた時の首筋の痛みは、今までと桁違いだった。

  今日は何かある。

  こないだのバス事故以上の何かが……」


 キュッ……


 蛇口をひねり水を止めると、石倉は濡れた手を振りながら淡白に


 「きっと、寝違いがひどすぎて、眠れなかったんだろうよ。

  俺のロッカーに、薬剤部から貰った、試供品の湿布薬がある。

  好きに使ってくれ。

  悪いが、俺は少し仮眠をとる。若いモンと看護婦長にも、そう伝えてくれないか?」


 霧島は知っていた。

 石倉は現実主義者。目の前にある確かな情報しか信じない。

 だから、医師としては優秀だ。

 自分の言葉など、カヤの外だと。


 「ああ。わかった。

  スーパードクターは、ゆっくり休んでくれ」


 咄嗟にでたひと言

 それに、石倉は白衣を襟を整えながら、こう返すのだった。


 「霧島。確かに俺は、33でここのセンター長だ。腕も院長から買われた。

  だが、俺はブラックジャックじゃない。

  目の前の患者に最善の処置を施すために動く、どこにでもいる医者だ。

  それ以上でも、以下でもない。ただ、それだけさ」


 カーテンで仕切られた診察台の向こう。

 石倉は横になる前に言った。


 「だから、俺をスーパードクターなんて言うな。

  嫌いなんだ。ヒーローってのが」

 「悪かったよ、石倉。じゃあな」 


 霧島は診察室を後に、動き始めた病院の中へと消えていくのだった。

 自分の痛みが、一体何を示すのか。

 分からずに、患部をさすりながら。



 午前7時41分。

 東京都足立区 

 営団地下鉄 北千住駅


 

 その頃、動き出していたのは聖隷病院だけではない。

 街そのものも、動き出していた。

 連休中日とはいえ、つまりは平日。


 会社があり、いつも通りに出勤するサラリーマンやOLもいた。

 三月。

 まだ肌寒い朝に、人々はコートを羽織って、無言で改札を通過していく。

 

 東京営団地下鉄日比谷線ホーム。

 革靴やヒールの足音と、アナウンスが協奏曲を作る空間で、その電車は今まさに、発車の合図を待っていた。



 私鉄、東武鉄道とも相互直通を行う、営団03系。

 灰色のラインをまとった、アルミニウム合金製の電車だ。



 北千住発、中目黒行き。

 種別番号、A720Sである。



 開かれたドアへ、次々とスーツ姿の乗客がなだれ込む。

 座席はいっぱい。つり革手すりにつかまり、新聞を広げ、もしくは眠りながら出発までを待つ。


 この日比谷線は、中央卸売市場のある築地や、中央省庁の集まる霞が関といった、東京の重要エリアを走行する路線だ。

 故にといっていいのか、朝の利用者は、オフィスへと向かう者たちがほとんど。


 運転手が席に座り、ブレーキハンドルを取り付ければ、間もなくベルが鳴る。


 発車の合図に、乗客の何人かが駆け込む。

 シュコーっと、空気ブレーキの解除される音。

 ドアが閉まり、車掌の合図。そして構内信号が青に変わった。


 いつも通りだ。

 寸分狂わぬ、いつも通りが今朝も始まった。

 

 午後7時43分

 A720S電車、定刻通り北千住駅出発。



 自分たちだけでなく、狂演者たちも動き出していること。

 この電車が、いつも通りを運んでくれないこと。

 そして、この舞台にひきすり出された、自分たちの運命も。


 乗客たちは知らなかった。

 知る由もなかった。

 知っていたら、どれだけよかったか……。


 警笛を鳴らし、電車はトンネルへと突入していく。

 三両目に、悪魔の指定席を用意したまま、真っ暗闇の中に。


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