4 メタンマンドレイク取引
セルシオが沈黙して5分が経過した。
動きもなく、守屋警部と国木田刑事はともに、前の車を凝視するだけ。
背後のJR駅から、オレンジ色の環状線電車が天王寺に向けて発車。
国鉄車両が踏み鳴らす、やかましい
大きなサングラスにスーツ姿の男。手にはアダッシュケース。
「国木田」
「はい」
守屋警部の合図に、2人は車を出た。
歩道を天王寺公園方面に歩く男。
その数メートル後を追う。
「間違いないですね」
「ああ。通称、ジロー。
阿倍野、西成界隈を拠点とし、関西一円に巨大なネットワークを持っている、魔法薬物の売人だ」
「そんな奴が、メタンマンドレイクをさばいたら…」
「関西を中心に、日本が新たな薬物汚染に見舞われる。
なんとしても、それを防がないとな」
その男―― ジローは歩道脇の階段へと向かい、降りていく。
新世界へと延びる飲み屋街 ジャンジャン横丁と西成を結ぶストリート。
道路とJR線をくぐるガード下は、ホームレスの段ボールハウスが連なり、ゴミも散乱している。
酔っ払いも何人か、その清潔感に関係なく地面に倒れ、寝ていた。
汗と尿と生ごみと。
それらが交じり合った、まろやかに香ばしい匂いが鼻をつく。
薄暗いトンネルの中、ジローはそこにいた、同じくスーツ姿のスキンヘッドに、アダッシュケースを渡していた。
代わりに受け取ったのは―― 茶封筒。
中に入った万札を、手慣れた早さで数えていく。
「各員、売買の様子を現認した。確保に移れ!」
そう、守屋警部が無線で指示しようとした時だった!
「おい! そこ、動くなや!」
ガードの向こう側から、大阪府警の刑事たちが勝手に現れて、2人を抑えているではないか。
「なんやねん! お前らは!」
「ケーサツや。アンタらを麻薬売買の現行犯でパクるからな」
「は? 何寝ぼけたこと、言うとんねん。俺は無実や!」
取引相手はその風貌のわりに大人しく、既に別の刑事によって、連行されていた。
だがジローは、サングラス越しに、男をにらみながら関西弁で抵抗を続ける。
「俺は無実や!」
「せやったら、この金は、なんやねん!」
万札がビッシリと入った茶封筒を、ジローの懐から取り出して、ポンポンと頭をはたいた。
「知らんがな。アンタらが勝手に入れたんやろ!」
「眠たいこと、ぬかしとるんちゃうぞ! コラぁ!」
「この野郎、いちゃもんつけるんも、ええ加減にせえよ!
お前ら、アレか? 西成署の奴か?
今度は、どの組から、金ェ
「じゃかあしい! ワレぇ!」
トクハンを差し置いて、容疑者と喧嘩を始めたのは、府警四課の渡辺警部だ。
通称、マル暴。薬物や暴力団などの組織的な犯罪を取り締まるセクションのリーダーが彼だ。
平成末期。日本警察の捜査四課は、そのほとんどが「組織犯罪対策課」へと名称を変更し、海外からの組織犯罪にも対応するようになるが……それはまた、別の話だ。
「渡辺警部!」
守屋は、国木田と共に足早に、彼らの元へと駆け寄った。
「なんや」
「こちらの指示に従ってくれと言ったはずだ」
守屋が注意するも、彼は鼻で笑う。
「ここは東京やない。大阪や。
指示に従うんは、部外者のお前らじゃ! ドアホ!!」
コンクリートの空間に響くよう叫ぶ渡辺に、守屋は平然を貫く。
最早、眉毛の先からも、不機嫌が大放出、といった具合だ。
「言ったはずですよ。今回の取引で扱われるのは――」
「マル暴も扱ったことのない薬物、やったか?
ええか? 大阪府警を舐めてもらったら、困るんや。
俺たちはな、シャブもハッパもダマも、ぜーんぶ見たことあるし、ぜーんぶヤクザから何回も取り上げとる。
扱ったことのないヤクなんか、あらしまへん」
食って掛かるが、守屋はついに抑えきれなくなり、渡辺の襟首をつかんだ。
「いいか、よく聞けよ!
そのアダッシュケースの中身は、人間界のものじゃない!
妖怪や、魔術師の世界の代物だ」
「は? というと、アレですか?
ドラクエとか鬼太郎の世界ですか?
いっぺん、ビョーインで見てもらった方が、ええんとちゃいまっか?」
「お前たちが知らされていないだけで、彼らはちゃんと実在する!
痛い目を見るのは、お前たちだぞ!」
すると、ジローはマル暴刑事に抱えられながら、守屋警部に話しかけた。
「あんさん、普通のポリ公ちゃいまんな…検非違使庁の人間か?」
守屋警部は答える。
「当たらずとも遠からずだ。俺たちは、お前たちと同じ側に立つ人間だからな」
「らしいな。このにーちゃん達より、ずうっと話が通じやすそうや」
すると、ジローは唐突に
「あんちゃん。時計、持っとるか?」
「それがどうした?」
「今、何時か教えてくれへんか?」
自分が逮捕される時間が気になるのか?
それとも……。
ジローは笑みを浮かべながら、聞いてくる。
気持ち悪い感覚に包まれながら、自分の腕時計の文字盤を読もうとした時だった!
「よせっ!」
府警の刑事が、ジローのアダッシュケースを開いたのだ!
守屋警部の叫びも届かず、刑事たちは中身― その禁断の声を聴いてしまった!
ギョエアアアアアアアアア!!
菓子売り場で駄々をこねる子供の雄たけびを、立体音響で聞いたような感覚。
屈強な男3人が、耳を塞ぐことすら許されず倒れた。
口から泡を吹きながら、体を痙攣させて。
すぐに国木田が、耳栓を取り出して装着すると、開けっ放しになったアダッシュケースを回収し、その蓋を閉じる。
中にはしなびた根菜が3つ、川の字に寝かされていた。
一見すると高麗人参と相違ないが、そいつは口と思しき穴を、ぐわっと開いて振動を繰り返す。
泣き叫んだのが一体だけだったのが、不幸中の幸いと言ったところだろう。
そのために、被害者は死なずに済んだし、周囲のホームレスたちも無事だ。
アダッシュケースから離れており、無傷だった渡辺と、その部下5名は呆然としながらも、次には倒れた仲間に駆け寄っていた。
「今のは…一体…」
耳を塞ぎながら動揺する渡辺に、守屋警部は言うのだ。
「だから言っただろ。アレはお前たちに扱える代物じゃないと」
「まさか…でも、マンドレイクなんて、ファンタジーの世界――」
「事実は小説より奇なり、なんだよ。渡辺警部。
アレが、妖怪や魔術師が生み出す麻薬。その一種に過ぎないんだ」
守屋警部は続ける。
「さっきのは、メタンマンドレイクって言ってな、聴く麻薬って通称を持つ、厄介な魔法薬物だ。
ヨーロッパでは18世紀から、ツボや花瓶にこいつを入れて、反響させた鳴き声を聞いていたんだ。書物によれば、アヘン5回分を一気に吸い込んだのと、同じエクスタシーを感じるそうだ。
近代では、使い方がどんどん過激になってきてね。ヘッドフォンのプラグを、直接、マンドレイクの身体にぶっ刺して、声を聴くのがオーソドックスなやり方らしい」
介抱される部下たちを見ながら、渡辺は頭を掻く。
「ウォークマン感覚かい。
ったく…聞いてたら、こっちまでおかしくなりそうな話や。
んなもんを、この日本に持ち込んで売りさばこうとしとったんが、奴か」
「そうだ。
ここ数年で、ドイツを中心にヨーロッパ各地で使用と密売が急増していてね。
トクハンでも厚労省麻薬取締部と連携して、日本への持ち込みを警戒していた矢先だったんだ」
守屋は、スーツからセブンスターを取り出し、火をつけた。
「若者が廃墟で音楽を流し、一晩中踊り狂うレイヴというものがあるらしい。
メタンマンドレイクは、そこで乱用されているって話だ。
日本でもクラブやら、ユーロビートやら入ってきて、そういったものが根付く環境は着実に整い始めている。ならば――」
「生える雑草は種のうちに枯らしとけ…か。
ホンマ、勝手にしゃしゃり出たもんやから、バチが当たったんやな」
次の瞬間!
「おい!待て!」
守屋と渡辺が振り返ると、ジローが国木田や府警刑事を振り払い、今さっきやってきた方へと逃げるではないか!
「逃げた!」
「なにしとんねん! アンタら!」
守屋警部は、タバコをその場に捨て、足でもみ消すと、脱兎のごとく走り始めた。
「渡辺警部、後を頼みます!」
「おい! このアダッシュケース、どないすればええんや!」
走り去った守屋警部の代わりに、国木田が指示を出す。
「そのまま開けずにいれば、問題ありません!
ケースはトランクに入れて、府警に着いたら車ごと、駐車場の隅に隔離して下さい!」
「わかった!」
そして、国木田もまた、2人の後を追う。
彼が階段を駆け上がり、道路に出ると、ジローは到着した制服警官とパトカーを振り払い、乗ってきたセルシオに乗り込んだ!
アクセルを思いきり踏み込み、そのまま天王寺駅方向へ!
「守屋警部!」
2人も、そのまま、背後に駐車していた32型GT-Rに乗り込む。
思いっきりアクセルを空ぶかしさせると、こちらもロケットスタート!
セルシオの後を追うのだった!
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