2 入手― 1990年衆議院選挙
平成2年。
首都東京は窒息しそうな真っ黒い混沌に包まれていた。
それは突如として終わりを告げたバブルの残骸か。
爆誕した消費税が生んだ悲鳴か。
はては遠き昔の預言者が告げた終末へのカウントダウンか。
いや。下しか見れなくなった者たちは、視界に入るものに、その答えを求めた。
この年の2月に衆議院選挙を控え、いくつもの街頭スピーカーと自動車が、儚い搾りかすとなった国民の希望と、御利益もなにもない政治家の名前を、ただ単にがなり立てるだけ。
それでも、今、高層ビルの片隅で音楽を流している、彼らよりはマシだと、都民の誰しもが鼻で笑っていた。
新宿。
白いバスの上で、5人の白装束が身振り手振りで踊っている。
全員が同じ被り物をしていたが、奇妙という言葉でしか表現できないほど、異様だった。
紙で作られた手作りで、髭と長髪、大黒様のようにぼてっとした男の顔だった。
彼らは、被り物の主の名前を連呼するだけという、中毒性のある音楽に合わせて、ぎこちなく動いている。
ロジックを失ったマリオネットのように。
その足元でも白シャツ白ズボンという出で立ちの若い男女数名が、ビラを配り、子供に男の顔が描かれた風船を渡す。
今回の選挙。好奇の意味で注目されたのが、彼らだった。
1月7日、中野文化センターにおいて、ある新党が出馬表明を宣言した。
ヨガ教室から端を発し、現在では信者たちによる様々な問題がクローズアップされつつあった宗教団体 オーム真理教団。
そこを母体組織とする地方政党だった。
消費税廃止や教育改革、直接民主制確立などのマニフェストを掲げ、教祖以下、当時の教団幹部24名が立候補していた――。
が、注目すべきは彼らじゃない。
大通りの向こうで2人の男が並んで話していた。
2人とも遠目に、真理教団の選挙活動を見ることで、野次馬に擬態していたが、雰囲気が群衆とは異なっていた。
他人を装うことに集中して、肩が触れても目を一切合わせないほど。
「釜ヶ崎でジローさんに紹介された料理人か?」
大きなサングラスにスーツ。
この時放送されていた人気刑事ドラマの主人公のような風貌の男は、そう右隣の相手に言った。
その人―― 緑色の眼と茶髪の外国人男性は、頷く。
流行りのピーコートとチノパンを身にまとった、若い好青年だ。
「運び屋ってのが、アンタか」
「この俺が、インチキオジサンにでも見えるってか?
失礼。金は持ってきたかい?」
サングラスの男がそう言うと、茶髪の男は足元に置いたアダッシュケースを、すっと横に蹴る。
中には米ドルで5千万。ぎっしりと。
口元を緩めて確認すると、今度は彼が持っていた別のアダッシュケースを、ゆっくりと手渡した。
茶髪の男は、中身をそっと開いて確かめると。
「モノは確かなのか?
第二次大戦でコイツが使われた島は、核実験の名目で全て消えたと聞いているが?」
と言いながら、横目でサングラスの男を見た。
フッと笑いながら、彼はキザに決める。
「そう簡単に消せるもんじゃねえぜ。戦の傷ってやつはな。
…っと、それは、お前さんが一番よく知っているか。
にしても、お前さんや。
ソレが一体、どんな代物か分かって俺たちに接触したんだろうな?」
茶髪の男は、無論、と言い付け足した。
「何なら、ここでばら撒いてもいいんだぞ。
完全培養された状態なら、この街をチェルノブイリより悲惨な場所に変えることができる。
そういう代物だよ。だから条約で使用が禁止された」
「フッ…よかったぜ。買い手がトーシローじゃなくて」
サングラス男がタバコを取り出すと、茶髪の男はケースを閉じ、「じゃあ」と、その場を立ち去ろうとする。
「なあ、一つ聞いていいか?」
相手の声に、茶髪男の足が止まる。
「そんなものを使って、なにをやらかす気だ?」
後ろ姿からの答えに、彼は表情を見ることはできなかった。
でも、核心はあった。
彼は笑いながら泣いていた。
涙を流し、歪んだ口から、破滅的な宣戦布告しか生みえない作麼生への答え。
「踊りまくってる人間どもを目覚めさせるのさ。誰でもない、この俺がな!」
宗教ソングが鳴りやむ気配のない、新宿のビル街に彼は消えた。
後にはただ、下を向く人ごみと、群れたカラス。
それはまるで、この後に迫りくるカタストロフ。否、あの孤独な男の未来地図に他ならないと、男は思った。
誰にも見えない。気づかない。
目の前のオウムより、雨後のカラスが大きいことに――。
「ま、俺にはどうでもいい話だけどね。
久しぶりに新宿まで来たんだ。美味いイタ飯でも食って帰るか」
サングラス男もまた、雑踏の中へと消える。
そのレンズで、黒い翼を見えないようにして――。
「ピーヒャラピ、おーなかがへったよー……ってか」
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