第9話 夏休みの始まり

 アブラゼミの鳴く声が、校舎に響く。この声を聞くといよいよ夏、というのが実感を伴ってくる。五年二組の教室に入ると、七月に入ってからうだっていたクラスメイト達は今日は枯れかけの植物に水をかけたように生き生きとしている。

 今日は授業がないからだ。正確には、今日から一か月半も勉強から解放されるのだ。夏休みだ!

 夏休みという言葉はなぜか心が躍る。冬休みや春休みもあるはずなのに、夏休みはそれよりも何かできそうな感じがする。水泳に花火に、スポーツ。色々できる季節。休みの期間が長いのもあるが、寒さがある冬休みや春休みでは、動くのがめんどくさくて動く気分にはなれないだろう。

 カタカタと軽い音が鳴る何も入っていないランドセルをロッカーに入れると、俺の席のあたりで岸の雄たけびが聞こえてきた。


「やっと、夏休みだ!」

「岸、夏休みはあと三時間後からスタートだぞ」


 まだ来ていない前の席を借りて、岸が椅子を後ろ向き座って大枝と話している。


「でもさ、やっと暑くて退屈な勉強から解放されるのが待ち遠しくてさ」

「その代わり、どっさり夏休みの宿題が出るけどな」

「それを言うなって浬……宿題って言葉だけで、溶けそうだぜ」

「じゃあ、毎日溶けているじゃないか。岸のドロドロアイス」


 皮肉を込めて言うと、岸はドローっと体を机に倒してドロドロアイスを表現した。


「お前らはいいよ。頭も成績もいいしさ。この間の統一テスト散々だったし、私立狙えないぞって親に言われてさ。少年野球も両立してんだから勘弁してくれって言いたいぜ」


 むずかりながら、顔を右に左にと転がして顔の汗が大枝の机の上に跡を残す。それを見て、大枝は俺に向けて苦笑いすると俺も歩調を合わせた。


 うちのクラスは、公立であるがほぼクラスの半数が私立の受験をするため統一テストといった模擬テストを受ける子が多い。そのため成績に関する話題も小学生ながらも話題に上がる。ただ成績が良いのは、ちょっとずるみたいな理由がある。


 小学生に戻ったとき、勉強していた内容のほとんどをを覚えていた。前世の記憶がないのに、勉強していた記憶があるのはおかしいと大枝が疑問に持ち、ネットで調べると記憶には意味記憶とエピソード記憶の二つがあり、俺らに前世の小五以降の記憶がないのはエピソード記憶が欠落しているから、というのが大枝の見解だ。

 意味記憶は勉強だけでなく運動でも適応されるので、俺が始業式の翌日に左手でボールを取れたのも、意味記憶がボールの捕球動作を憶えているからだそうだ。

 こうして前世で覚えていた勉強の記憶を利用して、統一テストは――ひっかけ問題とかには苦戦したが、クラスで上位陣に入る成績を得たのだ。


 さんざん悩まされた前世の記憶が、別の所で役に立つとは思わなかった。いや、これぐらいのメリットはないとダメだ。


「でさ、始業式の後ゲームセンターでも遊びに行かね?」

「お前さ、さっき試験とか夏休みの宿題で溶けてたくせに」

「受験まで一年半もあるし、夏休みの宿題も一か月半先まで頑張れば大丈夫だって。安住はどうする? 女子と一緒にいくとか言うなよ」

「心配しなくても、わかっているよ」


 岸の(俺を除いた)女子嫌いは相変わらずだった。たしか前世でも、女子が苦手だったな。俺が女子となった今世では、関係性自体は崩れておらず一方的な苦手意識はない。苦手意識自体は……

 代わりに、オーラがぼんやり陽炎のように沸き立ってはいる。あんまり近づくなよなオーラが。前世の意識で岸に話しかけると、そのオーラが浮かんでくる。岸は表面上は付き合いはしてくるが、やはり俺が女であることが拒否反応のように出てしまうのかもしれない。


 内田先生が純白のレースがついたハンカチで額の汗を拭きながら入ってくると、みんな一斉に自分の席にへと着座した。


「はい、みんな。明日から夏休みです。いいですか。明日からですよ。帰りに羽目を外すのは油断大敵です。気を引き締めて、事故もけがもなく。夏休みを過ごしてくださいね」


 内田先生の眼鏡がいつもよりもギラギラ光っている。面倒なことは起こされたくない忠告なのはわかっている。だが、内田先生の太った体と身長の高さも合わさって威圧感があり、ちょっと縮み上がってしまった。




 ランドセルを置いてすぐに、大枝と共に自転車を蹴って待ち合わせのゲームセンターへとこいだ。夏本番の熱射が降り注ぎ、足元のアスファルトも跳ね返って外はトースターの中のようだ。立ちこぎでわずかな風を受けようとするが、今日は残酷なことに風がなく、緩い熱波がじわじわと皮膚にまとわりつく。

 早くついてほしい、早くついてほしいと汗を垂れ流すが、大枝は何ともないように涼し気にこいでいる。こんな酷暑なのにと思いつつも、負けたような敗北感があり、ペダルの回転数を上げた。


「二人ともおつ。つか、安住、なんで足笑ってんだよ」

「早くゲームセンターに着きたい一心でこいでたら。ガクガクでさ」


 ゲームセンターに着いたときには、自転車から降りると膝に力が入らず気を抜けたらその場で崩れ落ちそうだった。大枝が肩貸そうかと手を差し伸べるが、平気とやんわりと断った。まさか膝が笑う原因が大枝に負けたくないからなんて言えるわけがない。


 岸が先頭になってゲームセンターに入ると、透明の自動ドアが天国への門に見えた。凍えるほどの冷気が目に見えてしまうぐらい体の熱気を一気に消し飛ばした。門をくぐると、ゲームの筐体から流れる音楽がぶつかり合い、よくわからない雑音となって入ってくる。


「先生が見回りにとか来ないか? 内田先生入ってきたとき脅していたが」

「別に大丈夫だろ。パチンコ屋に入っているわけじゃないし。普通に遊ぶだけで怒られることなんておかしい」


 不安そうな大枝の不安を消すために、バチ渡すとさっそく太鼓のゲームにコインを入れる。周りを見ても、目を配らせている先生らしい人は特にいなさそうだ。太鼓の縁を叩いて、何人で対戦するかの画面で手を止めて振り返ると、岸がいなくなっていたことに気付いた。

 一体どこに行ったんだ? 他のゲームを探しに行った。にしては誘った俺らに何も言わずに行くのは変だ。


「大枝、これ先にやっといてくれ。俺は後でやるから」

「え? あ、ああ」


 急にバチを押しつけて、ギンギラと電飾が発光する筐体の間を探す。岸は意外とすぐに見つかり、太鼓のゲームを少し奥に行ったところで、岸の特徴であるとんがり頭が見つかった。


「どうした岸、急に消えて」

「なあ、別のゲームセンターいかないか」

「先生が見回りに来たのか?」

「いやそうじゃなくてさ……」


 質問に対して岸はバツが悪そうにしている。岸が見ていた先をうかがうと、プリント俱楽部の筐体からウチのクラスの女子が、でき上がった写真が出る所で待ち構えていた。なるほど、女子が近くにいるからか。岸らしいな。


「別にこっちに用があるわけじゃないだろ」

「そうだけどさ。なんか、こっちに気付いたら一緒に遊ぼとか言われそうで……女子の一緒にきゃぴきゃぴするのが苦手でさ。こういうところに来る女子ならなおさらだし」

「じゃあ上のスポーツコーナーにいけばいいじゃん。そこなら女子も来ないだろ」


 さっき岸を探していた時に案内図を見かけていた。ゲームに飽きたら、体でも動かそうと片隅に置いていた。


「女子のくせに、外に遊ぶの好きだな」

「外に遊ぶのに男女かんけーないだろ。ほら、あいつらに見つかんねーうちに来いよ」


 岸の手を引こうと腕を握る。が、岸は俺の手を振りほどいた。


「あっ。そのごめん」

「……ま、まあ。お前女嫌いだしな。しょうがねえよ」


 悪い悪いと謝って、薄く笑みをつくった。やっぱり、俺。女なんだよな、見た目男でも女嫌いな奴には触っただけでも拒否反応があるんだ。自分の手を押してみると、パンのように柔らかい。女の手はたしか柔らかいと聞くから、この手を触っても岸にとってはダメかもしれない。

 女になるだけで、人間関係は良くも悪くも変化するんだ。

 女であるだけで。


 二階に上がると、ゲームコーナーよりも人は少なく。女子の数もほとんどいない。この階では球技を使ったもので遊ぶのが大半で、階段付近からでもバスケットボールがドリブルする重たい音が聞こえてくる。

 ゲージのような鉄の網の間を歩くと、岸がストラックアウトの所で止まった。鉄のゲージに入り、コインを投入する。ポンと機械からボールが射出され、ちょうど岸の胸のあたりに投げ入れられた。

 岸がボールを胸のあたりで構え、投げる。白球は大きなずれもなく真っすぐ真ん中の一番の板に当たった。おおうと声を上げた。岸は少年野球部に入っているから、こういう投げる系統のゲームに惹かれたのだろう。

 その後も難なく九枚の内七枚を打ち抜いて、ゲームが終わった。


「うまいじゃん。さすが少年野球部に入っているだけのことはある」

「へ、まあな。次安住もやってみたら」


 入れ替わりにストラックアウトのゲージに入り、さっきと同じようにボールが投げ込まれる。目標の九枚の板に目線を合わせ、手に力が入るとボールも手に合わせて変形する。

 腕を大きく引いたとき、また景色が変わった。野球場だ。四つの白い核を成すダイヤモンドに何人もの人が立っている。一二塁間に、グラブを持った人が腕を上げてこっちに投げて来いと合図している。俺はそのままそいつめがけて、投げた。

 バーン! と板から衝撃音がなった。その音で目が覚めると、景色は元に戻っていた。手には白球はなく、俺の下を離れて九番の板に当たっていた。


「安住、もう一回投げてみせてくれ」


 岸に言われるまでもなく、機械が投げ入れられたボールを手にして、投げる。今後は景色は見えなかったが、初めて自分が投げたボールを見ると勢いが岸と変わらないぐらいあった。ボールは狙いがそれて七番の板よりもはるか頭上に飛んでいった。

 通路を仕切っていた鉄のゲージが開くと、岸が俺に寄ってくる。


「安住。お前野球はやっていないのか?」


 さっき見た――おそらく前世の記憶の断片では野球をやっていたのだが、今はしていない。だから首を横に振った。


「なあ。手とか触ってもいいか?」

「な、なんだよ。女に触れるのも嫌なくせに、自分からはいいのかよ」

「それとこれとは。ちょっとだけな」


 もう言われるがまま、岸に俺の手を触らせてやった。岸の指が俺のに触れると、見た目ではよく見えていなかった豆が網膜に入る。指先が膨らんだ豆は触れられると固い。同じ人間と思えないような固さだ。

 これが野球人の手なんだな。

 親指と人差し指の間の肉を触り終えると、今度は右の腕にも手を伸ばし始めた。


「岸、お前変態か!」


 突然、大枝の周りの音をかき消すほどの張り上げる声が聞こえた。見ると、通路には大枝が、ゲージの網目を猛獣のように手にしがみついて睨んでいた。


「へ、変態じゃねーし。安住が結構いい肩してっからどれくらいか触ってみたいだけだ」

「女の子なんだぞ!」


 大枝の叫びで少し頭が冷えると、女子であっても男子であっても、今されているのは変態的だ。大枝の言葉はもっともだ。と意趣返しに腕を引いた。 


「いやさ、オレが所属している少年野球部。次の大会で六年生がごっそり引退するから人来てほしくてさ。六年が抜けると、減った人の穴埋めで他のポジションの練習にも回されるかもしれないんだ」


 ポンと回数が残っていた機械が空気を読まずボールを投げ入れてくる。落ちたボールを手にすると、さっき投げた時に見えた前世の記憶のことを思い出した。

 もしかしたら、前世に関連することをすれば未来の記憶が見えてくるのでは。俺は今野球をやっていない。けど体は前世の意味記憶を覚え、そしてさっき見えたのは前世のエピソード記憶のはずだ。もしかしたら、未来の記憶がよみがえるかもしれない。

 そうすれば、死んだ原因も思い出すかもしれない。


 ポン。またボールが入ってきた。


「なあ、俺が入ろうか」


 岸は渋い顔をした。いやな予感がした。そして返ってきた言葉は、悪いことに予想通りのことだった。


「いや~、無理だと思う」

「なんでだよ。人が足りないんじゃないのかよ」

「うちの野球部が女子入部NGなんだ」


 俺が文句を言う前に、中に入ってきた大枝が代弁した。


「なんだよそれ。差別だろうが」

「俺に当たるなよ。ウチの部ってそこそこ歴史があるらしくて、女子が入ったら弱く見られるからしないんだ。安住が男だったらな~」


 岸は残念そうに空を見上げながら、通路に戻っていった。

 なんだよそれ。女だからって入れないってどういうことだよ。舐めやがって。

 ……だったら。




 ゲームセンターの日から翌週。俺は、河川敷にあるグラウンドで、少年野球部の面々に一礼した。まだユニフォームは届いていないので、体操着でのさんかだが。


「どうも、よろしくおねしゃす!」

「こちらこそよろしく。」


 挨拶も早々に、他のメンバーと一緒にアップに混ざる。そして隣にいる奴がつばの下で睨むように言った。


「なんでうちに入ったんだよ……安住」

「俺は吾妻秀だ。これで人手不足は解消しただろ、岸」


 俺は、自分を男と偽って岸の少年野球部に入部したのだ。

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