第10話 野球は男のもの?
少しさかのぼって、俺がゲームセンターから帰って晩飯を食べ終えた後のこと。その日は珍しく、父さんが晩飯前に帰ってきたこともありタイミングが良かった。母さんが食器皿を台所に持っていった時に、野球をしたい旨を伝えた。
「母さん、俺野球がやりたい」
「なんで?」
返答に困る質問。前世の記憶がよみがえるかもしれない、なんて言えるわけない。したいものはしたいというのは具体性に欠ける。やりたいものに理由を考えるのはなんて難しいことか。
「友達の野球部が人が足りなくて、入ってくれないかって。俺も野球に前々から興味あったから、やってみたいなぁ……と」
言葉を抑えてしおらしい態度で答えた。嘘は言ってない。岸の部員が足りなくなるのは事実だ。それをちょっと性別と名前を偽って入るだけだ。
水道の水を止めると、母さんは台所のステンレスの上にひじを置いて手を組み、あごを乗せた。
「野球って危なくない? けがもするし、秀美の体に傷でもできたら」
「やらせてあげたらいいじゃないか」
食後のタバコを咥えていた父さんの口から、煙と共にもわんと出てきた。
「秀美がやりたいというんだから、やってあげていいじゃないか」
「でも野球なんて男の子がするものじゃない」
「プロの女子野球だってある。道具もお父さんが使っていたグローブもあるし、部費も俺の小遣いを少し減らしてもいいしさ」
支援射撃は成功した。実のところ、前世の記憶で――たぶん五年生より前だったか、父さんとキャッチボールした記憶があった。父さんは野球が好きで、俺が野球をするのに反対しないだろうと予測した。今世は女として生まれたので、どこか改変されていないか不安だったが、目論見通りになった。
賛成してくれた興奮の勢いで父さんに抱き着いた。いつもやに臭い匂いが体に染みついてちょっと近寄りがたい父さんだけど、今回は我慢だ。
「父さん、ありがとう! そのグローブちょっと見てきてもいい?」
「いいよ。父さんの部屋にある押し入れの下にあるから、触って感触を見てきなさい」
リビングから出て扉を閉める際、隙間から母さんが父さんを詰問する声が聞こえた。
「総一郎さん。自分の娘が危ないと思わないの?」
「ちょっと過保護すぎるんじゃないか。秀美も仕方なくやるわけでないだし。好きなことをやらせるのは子供の特権だ」
「だって、秀美は女の子なんですよ。もしものことがあったら……」
女の子。女の子。だから女だからってなんだよ。大人しく花を愛で、お料理とか着せ替えでもするのがいいのかっての。俺は俺のやりようで生きていくんだ。
死の原因から逃れるためにも。
一週間前の母さんのことを思い起こしながら、アップを終えると岸が俺を呼び寄せる。
「お前、着替えとかどうするんだよ。一発でばれるだろ」
「家で着替えるようにするから、問題なし。親もこっちには来ないからばれもしない」
岸は難しい顔をして、自分のポジションであるマウンドに走っていった。俺の方は初心者ということもあり、ライトに回された。野球が上手いやつの大半が内野陣に回っていることもあり、外野に球が回ってくるのが遅いらしい。
最初の練習として、六年生の先輩とキャッチボールから始める。外野では他にも何人か初心者がいるようで、フォームの指導から始める子が大半だった。
「吾妻、お前初心者なんだよな。フォームは結構きれいだけど」
「見よう見まねなだけです」
先輩はそれで納得してくれたようで、それ以上聞かなかった。前世の意味記憶のおかげで体が覚えているんですと言っても変な顔されるだけだ。
縫い目が見えるほどゆっくりめの白球が、ポスンと軽い音を立てて大きめのグラブの中に入る。父さんから譲られたグローブは、中学生のころに使っていたものでかなり使い込まれ、小学生の握力でも簡単にグラブを閉じられる。
前世でも、このグラフを使って野球をしていたのだろうか。見えた光景もここでなく、別のグラウンドだった。あの記憶の断片は未だに見えてこない、発動する条件が分らない。
緩いボールがグラブの網目に来る、少し歯がゆい。
徐々に徐々に投げる距離が広がっていくと、先輩も遅い球では地面に落ちてしまうのを考慮してか、速度が少し上がっている。それに合わせて腕の力を入れて球を投げる。
「ぬぅん!」
力のこもった声と共に放たれた球はグングン勢いが増し、先輩のグラブが届かない頭上を通過していった。完全な大暴投だ。
「吾妻、ちょっとこっちにこい」
先輩がボールを拾いに行った後、マウンドにいた監督の野太い呼び出しがかかった。もしかして、バレた? いや岸を除いて誰も知り合いは来ていない。一体何だろうと緊張する。
「吾妻。マウンドに立ってなん球か投げてみろ」
マウンドに来てみると、監督がサングラスの奥から何か期待された目で俺を見ている。同じくマウンドに立っている岸に視線を向けると、オーラの色が変わっていた。――俺のポジションを奪うのか。
そんなつもりは毛頭ない。だが、本当に人数不足だろう。途中から入った初心者にピッチャーをやらせるなんて、替えの投手不足の現れだ。
「俺、ピッチャーとかやったことないんですけど」
「心配ない。誰だってそうだ。ここからキャッチャーミットに入れるかまでを試したいんだ。吾妻は身長も大きい方だ。身長が高いのは、投手として有利だ」
まずい。金子の身長が百五十五と異様に高いので錯覚するが、俺も百五十と始業式の時から急に伸びて二番目に身長が高い。岸と比べても異様に高い。そりゃ野球は身長高ければ有利だけど……
監督からボールを手渡されると、ぎゅっとグラブをごつい皮の手袋のような手で握りしめた。
だめだ。完全に期待されている。
マウンドの白線に立つと、キャッチャーとの距離が意外と遠くボールに力が入るがゲームセンターの軟球とは違い、指の形と同じように変形しない。後ろからチクチクと岸のやりのような視線が後頭部に突き刺さる。
どうか失敗しますようにと心に念じて、セットポジションの構えからボールを投げる。
――そして景色が変わった。なんでこんなときに……見えた光景は同じようにバックネットとキャッチャーミットを構えているシーンだ。
止まってほしいが、体は急には止まれず大きく腕を振る。放たれたボールは、上に上にと上昇して飛んでいく。まるで打球のように伸びて……キャッチャーの頭上を越えた。
ボールがバックネットに当たると、遅れて金属ネットが揺れる音が聞こえる。前世の記憶はそのまま消滅して、目の前にはボールがバックネットの隙間に挟まったいるのをキャッチャーが必死に取ろうと躍起になっていた。
それから何度も何度も投げ続けるが、一度もミットに入らず大暴投を繰り返すばかりだ。前世の記憶も全く見えないまま、無為に暴投するだけ。
「よし。吾妻、よくわかった。外野に戻れ。お前には適した分野があるからそっちで磨け」
ピッチャーやらされなくてホッとして外野に戻る前に、一旦岸を見るとさっきのオーラは出ていなかった。
「お前さ。わざと暴投したのか」
「いや、本気で投げた結果あれだよ。よくあんな遠い所まで正確に投げれるよな」
岸は、野球帽を深く被った。下の顔が見えなくなるほど深く、そして周りに聞こえないぐらいの声でつぶやいた。
「こいつぅ。だから女子は嫌いなんだ」
「俺は男だって」
その後は外野練習のみ続けられた。監督からは「吾妻は肩が強いから外野からの遠投のほうが通用する」と暗に内野ではだめと言われているようで癪だった。
けど、内心岸の機嫌を損ねなかったのが救いだ。初心者の俺にまで、ピッチャーになるのが嫌なほどこだわっているのだから。
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