第7話 保健室
教室の中はまるで植物のない温室のようだ。むしむしと梅雨の湿気が教室にも広がっていて、額に汗がうっすらとでき上がっている。精気が水分となって奪われていくようだ。雨の日の休み時間は騒がしいのだが、この時期になるとはけ口がなくて溜まってくる。外で遊べないからだ。
俺もその一人で、暇つぶしにチェスの観戦をしていたが対戦相手の長考がじれったく、外の黒雲が頭の上にもできそうだった。頭を使うゲームより、テレビゲームをする方が性に合っている。
「だる」
「秀美、どうした。体調悪いなら保健室に行くか?」
廊下の窓縁にもたれかかると、浬が寄ってきた。
「違う違う。梅雨の湿気でだるいだけ、雨が続くとさ体を思いっきり動かせないからだるくて」
「秀美は外で思いっきり遊ぶ派だったからな」
「それ、お前の前世の記憶?」
「うん。秀美はよく体を動かしていた。ぴょんて飛んで跳ねて、軽口叩いて」
「ウサギかよ俺は」
どういう意味だと浬は質問するが、教えなかった。金子とのやり取りは、あいつとの話の中でした方が一番面白い。GWのあと、時々休みの日にも顔を出している。誰もいない校庭で思いっきり遊ぶこともない、ただウサギは今日どうだとか当たり障りもないことをだべってある程度時間が来たら解散。何のハプニングもないが、あの金子が突っかかてこないという新鮮さがあって、不思議と体が足を運んでしまう。
もし俺が男子だったら、金子とは前世の記憶のままの認識で卒業してしまうところだったかもしれない。
空いた窓に背中を倒すと、大枝が手を差し出して背中を支えた。
「秀美、危ないことはすんな。前世だってどっかから落ちてそれで……」
「大枝、俺はまだ死なないから、安心しろって。あの時の記憶はおぼろげだけどまだこの時じゃなかった。つまり今はまだ死なない」
大げさだなと軽口を叩くが、大枝は唇を噛んでいた。空いた窓から入ってきた雨で衣替えしたばかりのカッターシャツが濡れているのも気にも留めないほど、俺に目を合わせている。
「でも、死ぬのは嫌だ。秀美が。死ぬのは」
真っすぐな黒い瞳はただ俺を写している。
ああそうか。俺のためか。死の直前まで友人と一緒になって死んでしまった上に、そいつが性別上女になった。受け入れがたいだろうに、ずっと友人だからこそ守りたい。
俺のためにそこまで気負うことないのに。いいやつだ。
「来週は晴れると思うか?」
「なんだいきなり? そんなことまだわからないだろ」
「うん。そんなものだって、明日死ぬとはわからないんだから怯えるなってこと。用心に越したことはないのは大事だけどさ。もう一度学校生活を楽しもうぜ」
「楽観的すぎるだろ」
「ああ、でもそのほうが気が楽になるだろ。それに今俺女だから、運命が変わって突然死ぬことがなくなるかもな」
一転、校庭にある『進入禁止』のマークである三角コーンが一つぽつんと雨にも負けずに仁王立ちしているのを眺める。すると、三角コーンしかなかった校庭に一冊の本が投げ込まれた。
何の本が投げ込まれたのかよく見えなかったが、暇つぶしがてらにと浬を連れて一階へと下りていった。
一階の昇降口に出ると、グラウンドに出る入り口は、雨伝いから雨が垂れて滝ように見えた。これをくぐったらあっという間にずぶ濡れになるのは間違いない。しかし、滝の門を外からくぐり入ってきた奴がいた。
前髪が目にかかるほどの黒い髪が雨で垂れて長く見え、一瞬女の子かと思ったがそうでなかった。金子の隣の席に座っている男子、梅野だ。梅野の手にはべったりと水を含んだ校庭の砂と雨でまみれたノートをこれ以上濡れないように胸の中で抱えていた。
「梅野、その本さっき校庭に投げられていたやつだろ」
「……」
梅野は髪から前髪からしずくをぽたぽた落とすだけで何も答えなかった。すると、昇降口の階段裏から何人かの男子――おそらく別のクラスの奴が覗いていた。
「おい、お前ら何やってんだよ」
大枝が軽く吼えると、そいつらは逃げるように階段を駆け上がっていった。そのうちの一人が梅野を一瞬、嘲笑っていたのが見えた。
静かでクラスでも印象薄く交流すらなかった梅野だが、何をされたかを理解できた。梅野はそのまま何も言わずに俺たちの脇を抜けようとしたが、腕を横に伸ばして通せんぼする。梅野はビクンと小動物のように体を震わせた。
「ほら、来いよ。別に取って食べたりしないから」
「た、食べ……!」
「言葉のあやだから、秀美はそんなことしないから」
「そもそも人間でもしないし。保健室に行くだけだから、そんなんじゃ風邪ひくだろ」
半袖シャツが雨で薄くなって中のTシャツが透けて見えるほど梅野の体は濡れていた。手の方もじっとりと、手から水が出ているのではないかと思うほど水が染み渡っていた。
保健室に入ると、教室より明らかに心地の良いクーラーの冷房が包み込んでいた。先生がいつも座っている事務の机は空っぽだ。ベッドはすべてカーテンが閉じられており、外の雨音以外物音はなく人がいる気配がなさそうだった。
「保健室の先生いないのか?」
浬がそう言っても誰も返事を返さない。
いないのならさっさと済ませようと、汚れたノートの表面に着いた砂を払い落としてドライヤーをセットする。水分を吸ってゴワゴワになった本を少しでも早く乾かすために、保健室に入った。保健室ならタオルもドライヤーとかもある程度の物なら何でもそろっているからだ。
ノートが飛ばされないように手でしっかりを抑えながら、ドライヤーを入れる。熱い空気が流れると、さっきまで静かだった部屋が、機械音に支配された。
「だれ~、今、先生なら、職員室だよ。あっ! ……大枝君、どうしたの、廊下で滑ってけがしたの?」
ベッドを囲っているカーテンがのったり寝ぼけた声を出して開かれると、給食の途中からどこかに行っていた古河が顔を出した。そして大枝の顔を見るなり、シャッとカーテンを閉めて頭だけを出した。まずいものを見られたような仕草で、目を右往左往にと揺らしている。
「違う違う、必要なのは別。古河、お前給食の途中でいなくなったと思ったら保健室で寝てたのか」
古河は、白のカーテンの中から手を出して俺を招いた。乾かすのを浬に任せて近寄ると、みんなに聞こえないほどの大きさの声を耳元に伝える。
「あずみん。大枝君の前で私が保健室で寝ている理由言ってない? 今日はあの日なんだから、黙っておいてよね」
「あの日?」
「お・ん・な・の・こ・の・ひ」
顔を赤らめて一文字づつ理由を主張した。
片思いしているからなのか、そこまでして男子には知られたくないのか。俺はまだ来ていないが、この前体育の授業で女子だけ集められて生理の仕組みとかを教えられたが、保健の先生からは隠しておきましょうとは言われてなかった。教えなければならないほど大事なことなのに、生理をみんなどこかで隠さなければならないものという共通認識を持っている。
何も言ってないと伝えると、古河は安心した様子で離れると、未だに入り口の付近でおずおずとしていた梅野の存在に気付いた。
「純君がけがしたの? 体もずぶ濡れじゃない」
「ゆみちゃん、僕けがとかしていないから。大丈夫だから」
「全然そう見えない。ほら、隣ベッド空いているから座って座って」
長い前髪から雨水がフローリングに垂れ落としながら、古河に促されるがままベッドに腰かけた。古河と梅野はよく二人だけで話しかけている姿を見かけていた。去年同じクラスだったことは知っていたが、この二人が下の名前で呼び合うほどの仲だとは知らなかった。
先生の机の傍に乾いた白のタオルが積み上げられた籠があり、一枚失敬する。水滴が積もっている梅野の頭に被せると、コロリと鉛筆が梅野のポケットから落ちた。
「梅野、鉛筆落ちたけど」
「純君、外で絵を描いていたの?」
「うん。外でカタツムリを見つけたからそれで絵を描いていた。けど、よそのクラスの子にノート、取られて。外に投げ出されて……安住くんと同じ男の子なのに、僕泣き虫でいつも女の子みたいだって」
被せられたタオルの中でグズグズと鼻をすすり、今に大声を上げそうな泣き声だった。だが俺と古河はキョトンとした表情をした。
「純君、あずみんは女の子だよ。女の子。もしかしてずっと男の子だと思っていたの」
梅野が顔を上げて俺の顔をじっと見つめると、そのまま固まってしまい頭のタオルがベッドの上にずり落ちた。
「ご、ごめんなさい……」
「別に気にしねえし、女が男らしくしてはダメとか、男が女らしいとかの法なんてないんだしさ」
落ちたタオルを拾って、再び被せるとぐしゃぐしゃと頭の水滴をふき取る。水分がタオルに移って、髪が乾いていく。背丈は俺と同じぐらいなのに、なされるがままにされる様はまるで小さな黒猫を拾ったのようだ。ペットなんて一度も飼ったことなんてないけど。
ついでにぐしゃぐしゃになっているであろう顔のあたりも拭いてやると、梅野の顔は目のあたりと同じように赤くなっていた。
「あずみん。心が広いのはいいことだけど、ちょっとは気にしたほうがいいよ。金子さんみたいになるよ」
「あいつ案外そこんところは気にしているぞ」
「ほんとぅ?」
古河は片方の口を上げて怪訝に見た。言っても信じられないのだが、もし身長が高くてスカートが穿けないなんて言ったら、古河が面白がって話してしまいあいつの耳に入りかねない。そうなったら、突然出会い頭にパンチを食らわせられる。それは勘弁だからそこらへんは濁した。
「金子さん、ぼくの絵とかよく覗いてほめてくれるよ。ゆみちゃんの絵も結構好きみたいだし……その分よく催促してくる」
迷惑な読者だな。
梅野の頭を拭き終えると、ベッドのカーテンの間から大枝の少し青ざめた顔が出てきた。何か嫌な予感がすると感じながらベッドを抜け出すと、元の大きさよりも波打って膨らんだ本の無残な姿が大枝の手にあった。
「すまん。本は乾いたけど、波打ってしまって……絵描き用と言ってたし、こんな状態じゃ」
「俺が謝ってくる。俺が最初にしたことだから、俺がけじめつけないと」
うなだれている大枝の肩をぽんと叩いて、本が受け取る。手の中の本は、初めの時と違って象の皮ふのようにからっからに乾燥している。力を込めて広がったのを収めようとするがやはりだめだった。
しかたがないと身銭切る覚悟で、白のカーテンを頭を低くして入っていく。
「すまん。乾いたんだけど、めっちゃぐにゃってなった。その、新しいノートあげるから」
「ううん。あずみんありがとう。これでいい、あずみんがしてれたものだから」
梅野は波打っている本を大事そうに胸に抱いて、ぺこりと髪を揺さぶった。しかし、あずみんと呼ばれたことに意識が向いてしまった。
……あずみんって。そのあだ名言われるのは古河だけなんだがな。
「なんか梅野ってちょっとずれているっぽくねえか」
「純君ちょっと天然だからね。でもそこが可愛いし、チャームポイントよ」
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