341番

『顔のない女』に追われていた。

随分と長い間だったような気もするし、たった数日だったような気もする。時が過ぎるのは早い。それは僕自身が時を恐れていたからにすぎない。


深夜2時になる少し前。僕は布団から起き上がって外に出た。8月の茹だるような暑さに嫌気がさして扉を開いた。僕はそのまま散歩に出ることにした。扉は開きっぱなしだった。

僕を吐き出したばかりの布団が、湿ったままの内部を外気に晒していた。


あの日の僕は正常だった。限りなく正常だった。或いはそのはずだった。その日も、おそらくなんらかの確信を持って夜道を歩いていたと思う。今の『僕』には、それにどのような理由が含まれていたのか、思い出すことができない。しかし、あの日の僕は正常だった。そしてその光景は鮮明に記憶されている。


時刻は深夜2時を少し過ぎていた。


歩みを進めるごとに、じめついた空気が蛙の指のように肌に張り付いた。数メートル進むごとに街灯に照らされて僕の影が地面に落とされた。影は時計の針が進むように、僕の背後に回って行った。何度回ったかわからない。その度に僕は僕についての何かを置き去りにしているような気がした。しかしそれも、やがて置き去りにして、僕は暗がりに向かって歩いていた。


時刻は深夜2時半を回っていた。


しばらく歩いた先に、ひらけた十字路がある。毎朝通勤に通る、見慣れた道だった。昼間は人通りが多くて、人がいないという事がない。深夜の時間帯にそこを通るのは初めてだった。女が一人、右手の通路から歩いてくるのが見えた。


女に顔はなかった。厳密には、口から上がなかった。彼女は帽子をかぶっていたし、もしかすると陰って見えなかったのかもしれなかった。しかし、その陰りにあるのは限りない無だった。いくらでも落ちていく事ができそうな、終わりのない暗闇だった。僕はこの暗闇を恐れていた。女は僕を見ていたと思う。おそらく。僕はそれを感じ取る事ができた。そして彼女の方もそうだったのかもしれない。僕は目線を下げて歩いた。僕はどうしてこんなところに来てしまったのだろうと思った。肌に張り付いている湿り気が熱を帯びていた。


十字路は、街灯が灯ってぼんやりと明かりを落としていた。そして僕の足元にはいくつかの影ができていた。女の足元にも同様に、いくつかの影ができていた。女の影の一つが、僕の視線の先にあった。視線をあげると、女が立っていた。僕をまっすぐに見つめているその女の顔には、やはり顔がなかった。顔と呼べる部位が、口しか残されていなかった。


僕は仕方なく立ち止まって、女を見つめた。

女は唇を1ミリも動かす事なく僕を見つめていた。女は口紅を塗った。そして口紅から手を離す。そのまま、地面に向けて落下していった。口紅がコンクリートを転がる音だけが響いていた。僕は女から目が離せずにいた。目の前に女の掌が広げられる。


僕は『僕』に、彼女は『僕』になった。あるいは、僕が『彼女』になったのかもしれない。いずれにしても、それに大した違いはなかった。『僕』の前に彼女の姿はなかった。足元にも、彼女の口紅は見当たらない。ただ『僕』からいくつかの影が伸びているだけだ。彼女はどこにいったのだろう?あるいは、僕はどこにいったのだろう?僕の体を包み込んでいた湿り気はとうに失われていて、残ったのは身体中に空洞が出来て全てを透過してしまうような感覚だけだった。『僕』は底の知れない空洞に放り込まれた気がした。『僕』は浮遊していた。そしてかつてそこにあった僕の築き上げてきた感覚には、二度と着地する事ができないとすら思えた。だけど、それは最早どうしようもない事だ。全てはいずれ失われていく。


時刻は深夜3時を回っていた。


翌朝、『僕』はいつも通り目を覚ました。

時刻は午前7時だった。あまり眠れた気はしなかったが、新鮮な空気が部屋に満ちているような気がして、気持ちのいい朝だった。『僕』は着替えて、鞄を手に取ると、扉を開いた。十字路を抜けて、駅に着く頃にはまだ時刻は午前8時を回ったくらいだった。少し早めに来てしまったようだ。そういえば、近くにかつてよく通った喫茶店があることを思い出した。駅の向かいの通り沿いにそれはある。


扉を開くと、珈琲の香りがして、かつての『僕』が僕であった頃のことを思い出した。随分昔のことのようにも思えるし、まるで昨日のことのように思い出すこともできる。時が経つのは早い。マスターの名前はなんといったか、昔、よく話したような気もする。奥の席に座って、珈琲を頼むと、彼は『僕』に珈琲とともに灰皿を出した。僕はここで煙草を吸っていたのかも知れなかった。ポケットの中にはハイライトがあった。一本取り出して口元に持っていくと、ライターがない。困っていると、隣からライターを差し出す若い男の手が伸びてきていた。

『僕』は礼を言って火を点けた。


男は黙って煙草を吸っていた。時折、自身の顎から顎先にかけてを撫でる仕草をする。それが男の癖のようだった。

『僕』は、もしかすると仲良くできるかも知れない、と思った。

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扉の中 saica @saicacasai

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