扉の中

saica

ターンアウト




・342番への通告


とあるホテルの一室。男が黒い鏡のようなテレビ画面の前で椅子に腰掛けている。時が止まったように静かな部屋だ。風の音ひとつしない。まるで世界からこの部屋だけが取り出されてそのまま放置されてしまったようだ。そして男は成すすべなく途方にくれているようにも見える。男は数分間、動くことはなかった。呼吸をしているかすら怪しい。ただ、じっと電源の付いていないブラウン管テレビを見つめていた。テレビに映る彼の姿は、シルエットだけがやっと確認できる程度だ。しかし、信じられないことだが、テレビ画面のちょうど男の顔にあたる部分に、微かにノイズが走った様に見えた。そして、それは次第に激しくなって、彼の顔にあたる部分に、まるで新聞紙をぐしゃぐしゃにしたような映像が流れ始めた。男は微動だにせず、じっと画面を見つめている。ため息が出るほどの時間が、そのまま過ぎていった。


時計の針が知らぬうちに交差していた。その時になってようやく、ノイズが形を変えて、彼の顔の部分に『6』と描かれた。そして消えた。部屋は再び沈黙に包まれる。男は組んだ指を崩して、指先を3回ほど合わせて立ち上がった。そして、ジャケットを手に取り、外に出た。


テレビには主人を失った椅子と、空中に浮いた『6』だけが宛てなく取り残されていた。


・《蛙》の趣味の話


《蛙》は、早朝の電車に揺られている。

半ば夢の続きといった具合で、目は虚に雨で濡れた床を眺めていた。電車が止まって扉が開かれると、それまで彼の肌にまとわりついていた熱気が剥がされて、冷たい空気がざらついた砂のように肌を掠める。階段にさしかかると、彼の姿は雑踏に紛れて流されていった。改札を抜けると、彼の身体には大きすぎる黒いコートの襟を立てて、黒いキャスケット帽を深くかぶり直した。はみ出した前髪から覗く二つの黒い瞳は目というよりは穴のように見える。その穴に落ちた景色は、前も後ろも、流れる時間すらも他人事のようにして落下して行った。そして、いずれは自分が落下している自覚すら奪われ、闇に溶けて消える。そのあとは知らない。とにかくそれ程に深いようだった。


彼は再び雑踏の中を進み、とある喫茶店の扉を開いた。そして開店したばかりの客のいない店内の一番奥の席に座る。その席は店内をほとんど見渡すことができる。彼はいつだってそこに座る。珈琲とトーストを頼み、時間が過ぎていくのを待った。いや、時間が過ぎるというよりは、人が集まるのを待ったといったほうが正しい。人が集まると、《蛙》は覗き込むように、周りを見渡す。獲物を見つけだすようでもあり、何か姿のわからないものに怯えているようにも見える。彼自身は前者のつもりだろうが、大抵の者は後者を連想する。そんな姿勢だった。

その日は、毎日マスターと映画の話をする女、本を読む男、雀蜂の巣の様な髪の男が女と話している。スーツを着た男と、ボロボロのジーンズをはいた男の二人組、珈琲一つで数時間新聞を読んで過ごす老人、あらゆる人がいるが、それらは共通して、時間が過ぎるのを待っていた。そういった意味では、彼らは絆で結ばれていた。


《蛙》は視線を組んだ手元に視線を落とすと、不満そうに口を歪めた。


ー冷めた珈琲を飲み干して、再び視線を上に戻すと、黒いジャケットの男が目の前を横切った。大柄で、肩幅が広い。ジャケットの右肩には5ミリほどの赤いラインが肘を伝って袖まで伸びている。髪は綺麗に整えられているが、《蛙》の場所からは顔を伺うことはできない。男が席について、口元に手をやる。そのまま顎へ、そして顎先へと指を滑らせる。手慣れた動きだ。よく癖付いているともいえる。テーブルにはアイスコーヒーと灰皿、そしてポケットから6本の煙草を取り出して、一本一本丁寧に並べられていた。左端の煙草を手に取り、火をつけた。煙が頭上に登る。吸い終わると、男は机の上に置いた煙草を仕舞って、席を立った。珈琲の入ったグラスが結露して、テーブルに水溜りができていた。


《蛙》は男が外に出るまで、睨み続けていた。黒いキャスケットから覗く黒い目が、目の前の男を真っ直ぐに見つめていた。


・《顔の無い男》の目的と任期の終りについて


男は椅子に座り、煙草を吸っている。

煙を眺めて、手元に残った5本の煙草に顔を向けている。灰を落として、コーヒーの入ったグラスを眺めている。グラスにはテーブルの端と、背後に広がる店内が映し出されていた。

《蛙》も、その一部だった。男はそのままグラスを眺めて過ごした。たまに煙草を吸い、そして灰を落とした。そうしてグラスが結露して、店内は少しずつ輪郭を失い、ぼやけて、消えた。男は外に出て歩き出す。


いつだって、通りは人にまみれているが、人々は男を認知することができないようだった。男は孤独だった。それについて、どう思っているかは知らない。しかし、ある意味ではそれが男にとって有益だということは確かだった。しばらく歩いて、男は姿を消した。右手の路地に入っていったようだ。室外機から風が流れ出ていて、換気扇がいたるところに並び、ごみ箱の半径1メートルほどの範囲なら、全てごみ箱の領域内あるように、あらゆる塵が散りばめられていた。要するに、路地の全てがそんな具合だった。男はしばらく進むと、十字路に分かれている所で立ち止まった。そこで、男は初めて背後を振り向いた。男の顔には、洞窟の様な深い穴がぽっかりと空いていた。つまり、顔と呼べそうな部品は限りなく少なかった。出来損ないの月食の様に額と顎の先だけが月から漏れた光の様に残されていた。輪郭だけが、男を『男』として、人間として判断できるものだった。そして、男は再び前を向いた。すべてがゆっくりとした動きだった。背後には何者も立ってはいなかった。煙草の吸い殻の束が、空き缶に詰め込めるだけ詰め込んであっただけだ。もしくは、ゴミが地面に散らばっていた。どちらも、大した違いはない。そうして、灰色のビルに十字に切り取られた空を眺めた。


気づくと、そこに男はいなくなって、そこには何も残っていなかった。


・《顔の無い男》の背中


次の日も《蛙》は、同じ様な服装で、同じ時間、同じ店、同じ席についた。目的も、きっと同じだ。違うのは、空が快晴だったということくらいだ。お陰で、店の中はいつもよりも暗くみえる。昨日と同じ様にキャスケット帽の陰から周りを見渡している。今日も、同じ様な顔ぶれで、多少違う顔が混じっている程度だった。珈琲を持ってくる店員の、白いシャツが昨日はMサイズだったのが、今日はLサイズだったくらいの違いだった。そんなことは全くどうだっていいことだ。《蛙》は扉を睨んでいる。重要なのは、彼が興味を持つ対象が現れることだった。しばらくは、そのまま空虚な時間が過ぎた。マスターが女と話しながら《蛙》を度々窺っている。


《蛙》は、一時間ほどの時間が経って、半ば諦めた様に本を読み始めていた。それ以外は珈琲に映る自分の顔を俯瞰して眺めた。その度に《蛙》は口を歪めた。なんどかそれを繰り返していると、テーブルの光が一瞬遮られて、珈琲に映っていた顔が消えた。とてもゆっくりした動きだった。足音も、何もかもがテーブルに手を着ける程度の音すらしなかった。《蛙》は頭を上げて、通り過ぎた男の背中を探した。それはすぐに見つかった。右肩から肘を通って袖口まで伸びる赤いラインを見た。

昨日の《顔の無い男》だ。


男が席に着いたので、《蛙》はとっさに視線を外して、珈琲に口をつけた。珈琲はすでに冷えてしまっている。覗く様に見上げると、男は昨日と同じ席に座って、アイスコーヒーと灰皿、そして5本の煙草をテーブルに並べていた。そして、そのうち一本を手に取り、火を着けた。男は時折考え込む様に俯く。アイスコーヒーには手を付けない。《蛙》は、男が煙草を吸い終わるまでじっとその姿を観察していた。男は結露して濡れたグラスを手にとって、中のコーヒーを半分程飲むと、店を出た。それに続いて、《蛙》も外に出た。扉を開くと、明るさに目を細めた。辺りには、すでに男の姿は見えない。左右を見渡しても、男ほどの大柄な男は見当たらなかった。《蛙》は唇をわずかに震わせた。両手をコートのポケットに入れて、数時間前に出たばかりの改札に戻っていく。暗い階段を駅のホームに向けて下っていった。


・《蛙》による《顔の無い男》の追跡


三日目、電車が遅れて、《蛙》はいつもよりも遅く喫茶店に入った。いつも以上に早く歩いたせいで、息がいつもよりも乱れている。扉を開くと、マスターがぎこちない笑みで挨拶をする。《蛙》は軽く会釈をして、一番奥の席に向かう。幸い、その席は誰も座っていなかった。しかし、右手の3メートルほど先の席には、すでに《顔の無い男》が座っていた。例に漏れず、男はテーブルにアイスコーヒーと、灰皿、煙草を並べていた。同じ光景だ。違うのは並べられた煙草が、3本に減っていることだけだった。それ以外は全く同じだった。《蛙》が席に着くと、男はそれと同時に煙草を吸い終えた様だった。アイスコーヒーを半分ほど一気に飲んで、男が席を立つ。《蛙》の口が歪む。黒い瞳が開いて、男の背中を追う。途中で珈琲を運ぶ店員とすれ違ったが、そんなことはどうでもいいことの様だった。外に出ると、右手の通りをまっすぐ歩く男の背中が見えた。《蛙》は口角をわずかに上げて、男との距離を詰めていった。そうしてしばらく、男の背後10メートルほどを追行していた。男の顔は見えない。見えそうになると、都合よく建物の陰に入るなり、通行人に被るなりして遮られてしまう。《蛙》はその度に口を歪めたり、眉間にしわを寄せたりした。男はそのまま目的とする場所があるように大股でゆっくりと歩いている。週末で、人が大勢いるので、《蛙》はたびたび人々と接触して足元がふらついた。しかし、男は遮るものがないかのように真っ直ぐに道を進んでいた。人々が彼の存在を知らないかの様にもみえる。《蛙》と《顔の無い男》の距離は、5メートルほどになっていた。《蛙》の歩みが速くなったからではない。《顔の無い男》が歩幅を緩めたからだ。そして、右に曲がって暗い路地に入った。《蛙》はその後に続いていった。


・追跡者について、男


男は頭上に登る煙を眺めている。テーブルの上には3本の煙草が均等に並べられている。灰皿の隣にあるアイスコーヒーのグラスは、背後の無人のテーブルを映し続けて、そのうちに曇って消えた。

扉の開く音とほぼ同時に、グラスの水滴に影が映る。それを確認したように、男は煙草の灰を落として、外に出た。扉が閉じて、雑踏の中を進んでいく。男の背後では再び扉が開かれて、閉じた。男の足取りはいつもとは違って速まったり、遅くなったりする。何か距離をはかっているようにも見える。そしていつも通りの右手の路地に入っていった。通りをいくらか進むと、背後に散らばる塵を踏みつける音が、微かに鳴っていた。


・《蛙》の鳴き声と役の交代


《蛙》は暗がりを進んでいく、室外機の風が当たってキャスケット帽から漏れた髪の毛を揺らしている。その度に《蛙》は顔をしかめて歩いた。街の汚れをそのまま凝縮したような場所だった。その中で、男が羽織るシワ一つないジャケットがより一層、男を空間から弾かれた者のようにしていた。男の髪は相変わらず綺麗に整えられていた。少し先に開けた空間が見える。《蛙》は少し歩みを緩めて、室外機の陰から立ち止まった男を見ている。

男は上を見上げて、消えた。消える瞬間にノイズが入ったようにも見えた。《蛙》隠れていた身体を出して男が消えたところに立った。上を見上げると、重たく濁った空が十時に切り取られて見える。男は消えてしまった。しかし、振り返ると、黒いネクタイと、白いシャツ、そして黒いジャケットを着ている《顔の無い男》が立っていた。《蛙》は大きく目を見開いた。それでも男の顔の穴には到底及ばなかった。男がゆっくりと歩み寄る。《蛙》の目の前で男は立ち止まった。吸い込むような穴だった。そしてそれは永遠に落ちていけそうな、途方も無い穴だった。男の右腕が上がるのと同時に、《蛙》はもう一歩後ろに下がる。その時、足元の塵に足を取られて倒れ込んだ。《蛙》が目を覚ますと、男の姿はなかった。頭を撫でると、後頭部にコブができていた。

あたりは換気扇の回る音と、そこから漏れる汚れた風の音で満たされていた。


・顔の中


その日、《蛙》は深く眠った。男のことはもうどうだっていいのかもしれない。昨日とは違って、扉は開かれなかった。喫茶店では、マスターがいつも通り女と話している。奥の席には老人が新聞を読んでいて、そして多くの人々が、時間が過ぎるのを待っていた。穏やかに時間が過ぎた。そして、扉が開かれて、それぞれの1日が始まる。あるいは、終わっていった。


《蛙》は夢を見ている。扉を開いて、喫茶店に入る。マスターはこちらを見ずに女と話している。普段よりも重たい足取りで、席に着くにもいつもより時間がかかる。《蛙》はゆっくりと、ゆっくりと歩いた。奥の席から少し右の奥に離れた、《顔の無い男》が座っていた席に座る。テーブルにはアイスコーヒーと灰皿が用意されている。ポケットから2本の煙草を取り出して並べる。そうして左側の1本を手にとって火を着けた。コーヒーの入ったグラスには背後の席がいくつか映り込んでいるのが見えた。煙草の灰を落として、コーヒーを半分ほど口に注ぎ込む。表面に顔が映り込むことはなかった。ただ見慣れた輪郭だけが絵を抜かれた額縁のように残されていた。


《蛙》が目を覚ますとTシャツもズボンも汗で濡れていた。Tシャツを脱いで、呼吸を乱しながら洗面所に向かう。鏡の前に立って、水を飲んだ。そして何度も顔を洗った。水は乾いた《蛙》の皮膚の上を頼りなく滑り落ちていった。《蛙》は、随分と長い間俯いて排水口の穴を覗き込んでいた。前髪から滴れる水滴が、何度も吸い込まれていった。鏡は《蛙》のあらゆる方向に飛ぶ頭頂部の髪の毛をしばらく写し続けていた。ゆっくりと顔を上げると、鏡の前にはいつも通りの《蛙》の顔があった。乾いて、顔のパーツのどれもが敵意を持っているような形をしている。手のひらでそれらをおぼつかない動きで撫で付けると、ようやく呼吸を落ち着けたようだった。時刻は4時を示している。


《蛙》は再び深く眠った。


・同化


空は曇って、空気には雨の気配がまとわりついていた。男は扉を引いて店内に入る。マスターは女と話していて、男には気づいていないようだ。男はいつもと同じテーブルについた。用意されているアイスコーヒーの隣にはやはり灰皿が置かれている。男はポケットに手を入れ、煙草を1本取り出して火をつけた。グラスには早朝の静かな店内が映し出されている。穏やかに時間が過ぎていく、最後の灰を落として、男は席を立った。テーブルには空になったグラスに水滴が滴っていた。


外は雨が降っていて、男を静かに濡らした。


・夢の続きと、その終わり


《蛙》が目を覚ますと、時刻は朝の5時を少し過ぎた辺りだった。昨晩は、そのほとんどを眠って過ごした様だ。ふらふらとした足取りで、まるで傀儡の様にテレビのリモコンを手に取る。そして電源がつけられた。

昨日も一昨日もやっていたような当たり障りのない映像が流れて、笑い声が部屋に流れ込んでくる。それが一層冷え切った《蛙》の部屋を冷やしていった。投げ捨てられたコートを拾い上げて、キャスケット帽を深く被り、《蛙》は外に出て行った。


テレビは延々と映像と笑い声を流し続けていた。時刻は6時丁度を示していた。


《蛙》は喫茶店の前に立っている。口を曖昧に開いて、扉の上部の看板を見つめている。やがて扉が開かれた。


出てきた男の表情らしきものはなかった。当然だ。顔がないのだから。

《蛙》は走り出した。しかし、それはとても走っているとは言い難いものだった。鉛を背負っているような、四肢を背後から引かれているような走りだった。通りを行く無表情の人々に何度もぶつかって、身体がよろける。背後から男がゆっくりと迫っていた。額にじわじわと汗が浮き出るが、その焦り様とは反比例する様に、段々と進みが遅くなる。そして、最早走っているというよりも、歩いているといったほうがいい程になった。男との距離が縮まって、5メートルほどになった。《蛙》は隠れる様に通りから外れた路地に入り込んだ。先にはひらけた空間が見える。室外機に身を隠して、息を整える。隠れながら目だけを路地の入り口に向けるが、男の姿はなかった。深く呼吸をして、顔を前に向けると、二本の脚が目の前に立っていた。《蛙》は吸い上げられる様に頭をあげて、キャスケット帽の下から覗き込む様に見上げると、空には真黒の空洞がこちらを覗き込んでいた。男の手が顔に被さり、視界が遮られる。手に隠れて、顔は見えない。身を引いた《蛙》の頭から、キャスケット帽が地面に転がり落ちた。


顔の無い男の姿が消える。室外機から流れ出る風が辺りを包み込んでいる。室外機の陰で蛙の顔が見えない。《蛙》は地面に落ちたキャスケットを拾い上げて外へ出る。とても静かな歩みだった。


早朝、曇り空の下一人の男が通りを歩いている。

黒いキャスケット帽に、黒いコートを着ている。右肩からは5ミリほどの赤いラインが肘を伝って袖まで伸びている。男の足取りはとてもゆっくりとしている。


男は静かに扉を開けた。

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